第9話 夢
「よっと」
俺は足下に広がる真っ黒な暗闇を軽く飛び越え、先に進んで待っていた凛と仲野さんに合流する。
「ここも凄い有様になってるな……」
「進むにつれて、空間の侵食が酷くなってきてるね」
俺と凛は通路を見回す。床だけでなく、壁や天井にまで侵食している暗闇、それはまるで真っ黒なインクをぶちまけたかのようだった。
あちこちに飛び散る飛沫は、血痕の跡を想起させる。嫌な想像を頭の隅に追いやるため、俺は頭を振った。
通路を眺める俺達に、仲野さんは申し訳なさそうに顔を歪める。
「私のせいで、すみません……」
「いえ、そんなことはないですよ。仲野さんがやったわけじゃないんですし」
この惨状が、目の前にいる仲野さんのせいだなんて、これっぽっちも思っちゃいない。しかし、彼女は首を横に振る。
「いいえ、これは私がやったことと同じなんです」
仲野さんは目を伏せた。
「確かに魂の主導権は私にありますが、あのエレ、色のない私は、私の一部であることには変わらないんです。今日までの惨状を引き起こしたのも、逆恨みを抱いたのも、今も一人で演じ続けているのも……。私の舞台への、エレーヌへの執着心が引き起こしたものです。どれだけ切り分けようが遠ざけようが、全ては私から発生した感情です。願望といってもいいかもしれない。だから、私のせいで間違いないんです。否定することは、罪から逃げることと同じですから」
そう語る仲野さんからは、何か強い意志のようなものを感じた。彼女はこの問題を、自分自身から目を背けずに、受け止めようとしている、己を止めようとしているのだ。
(罪から逃げることと同じ、か)
その姿から、俺は少し前の自分を思い出した。あの会社で、もう目を背けないと決めた、あの時のことを。
「仲野さ」
「凛」
俺は少し心配そうな凛を止める。仲野さんの結論を否定する権利を、俺達は有していない。その覚悟を尊重し、仲野さんがこれから成そうとしていることを手助けするだけだ。きっとそれが俺達全員の最善になると信じて。
「どこまでも身勝手で申し訳ありません。でも、どうか、終わらせるために、お二人の力を貸してください」
仲野さんは俺達に深く頭を下げる。俺達は顔を見合わせた。
正直なところ、本当に彼女が自分自身を止めることが出来るのか不安がなかったわけじゃない。あの暗闇に触れた瞬間、俺の頭に直接流れ込んできた悲痛な叫び。あれは仲野さんの心の叫びで間違いないだろう。
あの叫びを知ってしまったから、思いの強さを知ってしまったからこそ、本当にできるのだろうかと。
でも、彼女はこうして俺達の前に居る。その思いを汲み取るべきだ。
「勿論です。楽屋でも言いましたが、俺達は貴女を助けるために此処に来たんですから」
「そうですね、でも」
しかし、凛の瞳が相手を射抜くような視線に変わる。
「もう一度だけ確認させてください」
その問いかけは、仲野さんの心を鋭く抉るもの。
「貴女は本当に自分の夢を手放せますか?」
「それ、は」
仲野さんの瞳が揺らぎ、息を呑むのが分かった。どこまでも残酷な問いかけ。けれど、決して避けては通れない事実。仲野さんは俯き、胸元をきつく握り締める。
「私は……私は……」
仲野さんは顔を上げる。
「私は、自分の夢を、手放せます。手放してみせる」
その瞳には、微かに涙が滲んでいた。自分の感情を押し潰し、こちらをどこまでも真っ直ぐに見つめる。その姿に、俺は心臓が詰まるようだった。どうしてという思いが、後から後から込み上げる。
どうして何の非もない彼女が、こんな目に遭わなければならないのか。ただひたすらに夢を追っていただけじゃないか。なのにこんな……。
(神様はどうして、こんな酷い仕打ちをするのかねぇ……)
どうしようもなくやるせなかった。これから自分達が成そうとしている行動に対して疑問が浮かんでしまうほどに。
これが、本当に仲野さんの為になるのだろうか、と。




