第8話 二人の彼女
「ここならもう大丈夫よ」
いくつもの通路と扉を抜けた先には、これまでとは全く異なる景色が広がっていた。それは、テレビなどで見たことがある場所、自分とは縁もゆかりもない場所。
「楽屋……」
「ええ。ここならあの子も来ない、たぶんね」
彼女はそう言うと小さく笑った。気になっていることはあるが、何より先に言うべきことがある。
「助けてくれてありがとうございました」
俺と凛は揃って頭を下げる。そんな俺達に、彼女は少し戸惑った表情を見せた。
「いいのよ。それに私は、これくらいしかできないから……」
彼女は腕を押さえ、俯く。そんな彼女に、俺は意を決すると、気になっていた質問を投げかけた。
「あの、貴女は仲野葉月さん、ですよね?」
その言葉に、彼女は大きく瞳を見開いた。動揺しているのが見て取れる。
「え、ええ、確かに私は仲野葉月よ。でも、どうしてそれを?」
戸惑う仲野さんを前に、まず何から話せば良いのか迷う。そもそも、彼女は自分が死んだという自覚があるのか? 俺が言葉に詰まっていると、凛が迷わず切り出した。
「僕達は浄化師です。劇場で起きている怪奇現象を解決するために、ここに派遣されてきました」
「怪奇現象を解決……」
俺達は仲野さんの死には触れず、自分達のこと、そして、これまでの経緯を簡単に説明した。
♢
「そう、なのね……。劇団からの依頼……。それで、貴方達は此処に来たんですね」
仲野さんは腕を押さえたまま、視線を彷徨わせている。何というか、今の仲野さんは、事前に聞いていた仲野のさんのイメージと、大きく異なる印象を受けた。
劇団員や監督からも、仲野さんはとても快活な人物であるという報告が上がっている。しかし、今目の前にいる仲野さんは、どこか弱々しく、何か迷っているような、そんな印象を強く受けるのだ。
俺が考え込んでいるうちに、凛が一歩踏み込む。
「仲野さん、貴女は既に亡くなっているという自覚がありますか?」
「凛……」
いずれは問わなければならないことだ。だというのに、俺の心臓は冷たい針を刺したかのようにツキリと痛む。一番辛いのは、亡くなった本人だというのに。
問われた仲野さんは、腕をきつく握りしめ、下を向いたままだ。そんな仲野さんに凛は問いかけ続ける。
「仲野さん?」
「いえ、その、その……」
よく見れば、仲野さんの手は微かに震えていた。やはりこの質問は不味かったか。仲野さんは小さな声で呟き始める。
「私、分かってるんです、全部……。自分が死んでいることも、全部、全部!」
そう叫んだ仲野さんの瞳には、涙が滲み出ていた。その瞳が揺れ動く。
「あ、ごめんなさい!私ったら、本当に……。あの、もう、本当に、どうしたらいいか分からないの……」
そのまま力無く椅子に座り込んでしまった。俺は仲野さんの側に寄り、彼女を落ち着かせるべく声を掛ける。
「仲野さん、大丈夫ですよ。ゆっくり、落ち着いたらでいいんです。俺達は貴女を追い詰めたい訳じゃない。貴女を助けたいんです。だから、安心してください」
今が緊迫した状況であることは重々承知の上だ。解決しなければならない大きな問題もある。だとしても、仲野さんの心情を無下に扱うようなことはあってはならない。何よりそんなことは、俺自身が許せなかったのだ。
「宮地さん……。すみません、ありがとうございます」
顔を上げた仲野さんは、力無く微笑んだ。その表情にまだ陰りが見えるが、混乱は落ち着いたようで、俺も一安心する。
仲野さんは俺達を見据えると、膝の上の拳を握り締めた。
「私は、貴方達に話さなきゃいけないことがあるんです」
そう発言する仲野さんは、より強く拳を握り締める。
「あの、エレーヌは私なんです」
今何と言った? あのエレーヌが、仲野さん?
「えと、待ってください。でも、貴女は今ここに居るじゃありませんか」
「そうだね。これだと仲野さんが同時に二人いることになる」
凛の言う通りだ。彼女が同時に二人存在することになってしまう。いくら霊だからと言って、分身することが可能に……。いや、霊だからこそ、それもあり得るのか?
仲野さんは静かに語り始める。
「正確には、あれは私の、そう、負の側面なんです。私の未練が姿形になったもの。私は、私の未練を、苦しみを、抱えきれなかった……」
未練が形になったもの。仲野さんは、何処か遠くを見ていた。
「死んでなお、私は私の夢を諦めきれず、この劇場を彷徨っていました。それは何の意味も成さない、無意味なことだと分かっていたのに。それでも、未練が私をこの地に縛り続けた」
「私が居なくなっても劇は続く、変わりのエレーヌは居る。そんなの当たり前です。でも私は、私は、それが受け入れられなかったんだと思います……。私はまだ此処に居る、そんな気持ちが無くならなかった」
「それどころか、日に日に思ってはいけない感情が込み上げてきて……。どろどろとした黒い感情が……。自分自身が、その黒い感情に染まっていくのが分かりました。私は、そんな私自身も認められなかった。その感情を否定したかった。劇団を、エレーヌを、傷つけるようなことはしたくなかった」
「でも、その感情を消すことも出来なかった。未練を手放すことが出来なかった。だから、だから私は、それらを全て切り離したんです……。苦しくて、辛くて、私はそれらから逃げ出したんです……。その結果、もう一人の自分、あのエレーヌが生まれてしまった」
「私が切り離した、押し付けてしまった負の感情。それが、あのエレーヌの正体です……。ただ、形になっただけならどんなに……。あのエレーヌは、次第に自我を、力を持ち始めたんです。そして、エレーヌは劇団に危害を加えるになって、悪霊も取り込み始めて……。私の責任なのに、私では彼女を止められない、私自身なのに……! ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
仲野さんは謝罪の言葉を述べながら、顔を覆ってしまった。その小さな背中は、あまりにも痛ましい。
今の彼女に何と声を掛けてあげれば良いのか。思い浮かぶ言葉は、どれも違うように思え、すぐに消えていく。
「仲野さんは、本当に舞台を、エレーヌを心から愛しているんですね」
「……え」
凛はしゃがみ込むと、呆然としている仲野さんと視線を合わせる。
「本当に大切だから、手放せなかった。それは貴女の本心だ。でも、傷つけたくもない。それも貴女の本心だ。だからこそ、貴女は今も此処に居て、悩んで、苦しんでる」
「わ、私は……」
「ねぇ、仲野さん」
凛は真っ直ぐに、仲野さんを見つめる。
「僕らにどうか、貴女達を救う手伝いをさせてくれませんか? そして、貴女の力を僕らに貸して欲しいんです」
「…………」
「どうかお願いです。貴女の愛するエレーヌを守るためにも」
♢
静けさだけが漂う楽屋の中、俺達は仲野さんから離れた楽屋の隅で座っていた。仲野さんはというと、『少し時間をください』と言ったきり、鏡の前の椅子に座ったまま微動だにしていない。
「どうなるかねぇ」
「どうなるかは分からない。僕らは仲野さんの答えを待つだけだよ。でも、彼女の助けなしっていうのは正直キツいかな」
「そうだな……」
今はただ、仲野さんの気持ちが決まるのを待つほかない。
「実はさ」
「うん?」
楽屋を何となく眺めていた俺に、凛は淡々と述べる。
「あの言葉、実は清珠の言葉なんだよ」
「あの言葉って、どれのことだ?」
「舞台を、エレーヌを愛しているってやつ」
「あれそうだったのか!」
あの場で即座に清珠の言葉を代理で伝えていたことに俺は驚くが、凛はさも当然のように話し続ける。
「うん。僕も清珠同様、舞台が好きだけど、清珠の方が熱意は圧倒的に上だと思う。だからこそ、清珠が一番仲野さんの心に近づけるのかもね」
舞台をこよなく愛する観客の清珠、舞台をこよなく愛する演者の仲野さん。なるほど、立場は違えど確かに強く通ずるものがある。だからこそ、あの言葉は仲野さんに強く響いたのかもしれない。舞台を愛するものの言葉が。でも。
「清珠の言葉は勿論だけど、凛の言葉もだろ?」
「僕?」
「二人の言葉が仲野さんの心を動かした。俺はそう思ってる。これからどうなるにしろ、この状況まで動かしてくれたのは二人のおかげだ。ありがとな、凛、清珠」
「ふーん、そっか」
凛は一瞬何かを考えているようだったが「どうも」と返事をしてくれた。これは、果たしてどういう感情なのか? 俺は迷う。
凛は清珠とは違い、感情の起伏をあまり表に出さない子だ。しかも、凛と知り合ってまだ間もない。凛がどういう子であるのか、まだまだ把握できていないことだらけだ。冷静で、とても頼もしい子であると感じてはいるが。
そんな凛の冷静さに振り回されつつ、二人で会話を続けていると。
「あの」
ふいにその時はやってきた。




