第2話 遭遇
三階と四階を繋ぐ踊り場で、一呼吸おきながら、階段を見上げていた時だった。
カツン
どこからか、床に靴が当たる音が聞こえた。不思議に思い、後ろを振り返るが何もない。気のせいだったか? そう思い、また階段を上りだす。
カツン
まただ、また俺と同じように、誰かが階段を上るような音がした。すぐさま階段の手すりから身を乗り出すと、下の階へと視線を向ける。
視界には、ただただ階段の螺旋が続くのみ。何も、誰も、いない。俺は少し薄寒さを感じた。
(気のせいだろ。いい大人がなにビビってんだか、たく)
早足に階段を上る。四階、五階、そして六階へ。後ろは振り返らず、静まり返ったオフィスに入り、一目散に自身の席へと向かう。音は己一人のみ。
「あった、あった!」
書類は俺の机の上にきちんと置かれていた。急いで書類を手に取ると、鞄に仕舞い込む。これでひと段落、安心だ。
それにしても、こんなに分かりやすく置いていたのに、何故忘れたのか? それとも、知らないうちに俺が書類を落として、誰かが拾って置いてくれたのか……。今さら色々考えても仕方ないか。
「さてと、かえ」
帰るかと、言葉を呟こうとした瞬間だった。顔を上げた視線の先。そこにはオフィスと小さな談話室を分ける、曇りガラスが嵌め込まれた仕切りがあった。
その窓に、黒い人影が一人映っている。音もなく、ただ静かに、その人影も、まるでこちらを見ているかのようで。どの暗闇よりも濃いその人影は、ただそこに在った。
人は本当に驚くと頭が真っ白になり、声を上げることもできなくなるんだなと、頭の片隅にそんなことが一瞬浮かんだ。
(あの人影は、なんだ?)
見間違えなどでは済まされない、そんな異様で独特の存在が確かに在る。その影から視線が逸せない、いや、逸らしてはいけない。そんな思いが俺の視線を縛り付ける。
その一瞬は、重苦しく、息苦しく、とても長い時間に感じられた。鼓動だけが速さを増すばかり。
俺は鞄を力強く抱いたまま、じりじりと後ろへ後退していく。音を決して立てずに、これ以上相手を刺激しないように、なんとか一歩、一歩、後ろへ。
それは祈るような思いだった。人影は動かないまま。これでやり過ごせるなら、それこそ幸運だ。
「……え?」
背後から、ふと気配を感じた。体が体温を失っていくのが分かる。影から目を離すこともできなければ、背後を振り返ることもできない。
背後からはギシギシと、何か重たいものが、そう、重たい何かが吊るされたような、ロープの軋む音がしている。
ぎし、ぎしと、その音はすぐ真後ろから聞こえていた。混乱が脳内に溢れる。呼吸が自然と荒くなる。
(どうする、どうする、どうすれば良い、どうすんだよこれ、何なんだよこれ、何で)
ぼきっ
「あ……」
首が、折れた。
人影の首が、突然、音を立てて目の前で折れた。
頭部は揺籠のように微かに揺れている。
瞬間、俺は俯きながら一目散にオフィスを飛び出した。後ろを決して振り返らずに、階段を目指して廊下をひた走る。
頭の中は今もパニック状態だが、決して後ろを振り返ってはいけない、その思いだけが警報のように頭の中で鳴り響いていた。
オフィスを出ると、前を向いて走った。階段
見えると急いで駆け降りる。ひたすらに階段を駆け降りて、駆け降りて、その長い階段の途中で止まった。
ここが何階だったかは目視していなかったため、正確な階数は分からないが、先程の六階からはかなり離れたことだろう。今はあの気配も感じない。
恐る恐る後ろを振りかえる、誰も居ない。俺はその場にへたり込んだ。足は微かに震えており、驚くほどに冷たかった。
「なんだったんだよ、あれ……」
あんな体験は初めてだった。いや、あんな体験何度もあってたまるか。俺は項垂れて顔を覆う。
今だって心臓の鼓動は早いままだ。息を深く吐く。あれはきっと、幽霊というやつなのだろう。あそこまではっきりと鮮明に見て、存在を強く感じてしまったのだから、否定することは難しかった。
頭では幻であってくれと思うのに、心はそれに強く反発してくる。そんなわけないだろうと。
「……とにかく帰ろう」
再び立ち上がると、また歩みを重ねていく。三階、二階、そして──。
「は……?」
そこは八階だった。
♢
何故、どうして、どういうことなのか、何故こんなことになっているのか。
俺は無我夢中で階段を駆け足で降り続けていた。しかし、どこまで行っても階数はめちゃくちゃだった。
八階から降りれば四階に、四階に降りたかと思えば次は九階に、九階から降りたら二階に、二階から降りれた思えば七階へ。
何もかもがめちゃくちゃだ。頭がどうにかなりそうだった。
それでも、ここから脱出するためには、一階の入口へ辿り着かなければならない。一刻も早くこの異常な空間から逃れなければ。
いっそのこと階段の手摺りを跨いで飛び降りようかとも考えたが、階数が出鱈目に変わる今の状況では、安全の保証がない。最悪の結末も頭をよぎる。
窓からの脱出も試みたが、それも無駄な徒労だった。鍵はどれだけ力を込めようともびくともせず、窓を割ろうと椅子を投げつけても、窓ガラスに傷一つ付けることは叶わなかった。
つまり、完全にこの悪夢のような世界に閉じ込められたのだ。あまりに非現実なこの状況に、眩暈がしてくるようだった。それとも、自分の頭がついにおかしくなったのか?
「……そうだ、非常口」
ふと閃いた俺は、急いで現在の階数を確認する。今は三階、幸いなことにあの六階ではない。
このまま延々と変わらない階段を降り続けるより、別の出口を探した方が賢明だろう。
俺は三階フロアの様子を、息を潜めて覗った。今のところ、あの影のような存在は見受けられない。行くなら今しかない。
怯みそうな足を叱咤し、冷たい手をきつく握りしめると、全速力で廊下を駆け抜けた。極力周りは見ずに、ただ一心に緑の光が灯る扉を目指し駆け抜ける。しかし──。
「開かねぇ……! くそっ、なんでだよ!」
無情にも、非常口の扉は開くことはなく、外への繋がりを完全に断絶していた。鍵も窓同様びくともしない。結果は同じだった。
「すみません! 誰か、誰かいませんか!?」
薄い望みだが、俺は扉を叩きながら、ありったけの声量で外に助けを求めた。
いつまでそうしていただろうか、力を込めて叩き続けていた手は赤くなっていた。何の兆しもないことを悟ると、扉を背にずるずるとその場に座り込んだ。
どうしようもないこの状況に、心が飲まれそうだった。こめかみから汗が伝う。
「何で…こんな……」
俺は項垂れると、何度目か分からない疑問の言葉を呟いた。そこでようやく己のスラックスの右ポケットに、固い物体が入っていることに気がついた。
「…スマホ! 俺は馬鹿か!」
気が動転していて、今の今まですっかり忘れていた。自分のこの馬鹿さ加減に呆れてくる。
この際、騒ぎになるだとかはもうどうでもいい。一刻も早く助けを呼ぼう。
震える指で急いで百十番を押した。電話の呼び出し音が流れ始める。
(頼む早く出てくれ!)
今までのどんなコールよりも長く感じた。そしてようやく相手へと繋がり、すぐさま助けを乞う。
「すみません、警察ですか!? 助けてください! その、今会社に閉じ込められてて…! 何でもいいから、すぐ、に……?」
やけに静かな電話の向こう側に疑念を抱く。応答が全くない。
「あの、もしもし?」
呼びかけても、返ってくるのは沈黙ばかり。電話がちゃんと繋がっていないのか? 電波を確認するも、電波には何も異常がない。
疑問から嫌な予感へと、じわじわと変わっていく。俺はもう一度「もしもし」と、相手に呼びかける。沈黙の向こう側、それは聞こえた。
「…み、ミぃ…け……ぁあ…」
ざらざらとした耳障りな音、喉を搾り出したかのような声、俺は思わずスマホを投げ出した。
足元にスマホが無惨に落ちる。画面にはノイズが走っていた。恐怖で硬直したまま、画面を見つめる。
ノイズが更に酷くなり、砂嵐のように変わっていく。そして、その荒らしの中から、人間のような形が姿を現した。
「っ!」
呻きながらソイツは手を伸ばし、画面を触るような素振りを見せた。まるで、隔てられた壁が邪魔だと言わんばかりに。
ソイツは画面を叩き始める。何度も何度も何度も何度も、何度も叩き、そして──。