風吹く鄙の珠の巫女9
親族でさえ近づくことが許されなかったのに今やこぞって武器を手に取り巫女の収められた小さな檻を目指す男たち。
彼らの頭の中は生贄さえ捧げてしまえばこの信じがたい惨状を上が鎮めてくれるという妄信で満たされていた。
今捧げてなんとかなるならば満月の日に儀式を行って来た慣習を自ら否定することになるし、そもそも今回の贈りの祭礼は巫女の力をすぐに返すことで忠義と無心を示すためではなかったのか。
供犠をくれてやるからなんとかしろと闇女上に言上するに等しい不遜な行為だろうがこの状況でそれを冷静に判断出来る者などいるわけがなかった。
スオウの連れて来た余所者は土の精隷を模した悪霊だった。
化け物は突こうが斬ろうがまるで意に介さず涼しい顔のまま反撃してくるのだ。
どのような姿勢であっても関節の可動域を無視しながら確実に脳天を割ってくるおぞましさに人々は心底震えあがった。
しかし同調圧力の強い鄙人たちは事が収まった後の社会的な死をより恐れ、逃げ出したい衝動に駆られながらも臆病者のそしりを受けないように立ち向かわざるを得なかったのであった。
冥之上が囮になったことでスオウが対峙する相手は少なく済んだ。
とはいえ、数日前まで同じ炊事の飯を食べていた輩を一人も斬らずに済むという事ではない。
立ちはだかる馴染みの悲痛な顔は、血飛沫を避けて瞼が閉じられても尚そこにある。
それを払拭しようと獣のような咆哮をあげて若者は走った。
勢いのまま巫女の収められた小さな檻の元へ辿り着いたスオウが手をついて覗くと中からもこちらを見つめる者がいた。
久方ぶりに最愛の者を確認したスオウは歯を食いしばりながら何度も頷いてみせると檻を組む結び紐を外しにかかった。
その背中に矢が射られ、気配に気づいたスオウは振り返って腕で受けた。
殺意を込めて放たれた鏃はスオウの腕を貫通したが囚われの隙間から覗く者の目の前で止まった。
「栖鴬……汝は狂れたるか!?」
「……然なりよ! 私は狂れたり!」
言いたいことは多々あったが全てが面倒になり肯定するスオウ。
その目には悠然とやって来る冥之上の姿が映っていた。
振り返って悲鳴を上げ尻餅をついた鄙人には目もくれず傍までやって来た冥之上は小首をかしげながら自身の目の下あたりを撫でてみせた。
どうやらスオウの涙に興味を持ったらしいが、その無防備な背中は腰を抜かした鄙人に起死回生の一撃を決意させるに充分だった。
「待てっ! 仕掛けるな!」
全て反撃であり、全ての攻撃が長老の脳天を割った自身のそれを真似ているに過ぎないことに気付いていたスオウは慌てて止めたが小さな衝撃と共に冥之上の後頭部を貫いた矢が目から飛び出るのを見た。
血は出ず、自身の目から涙ならず矢が出たことにおお、と感嘆の声を漏らした精隷は抜き取ってしげしげと眺めるとゆっくり鄙人に向き直った。
「やめろ! 冥之上、やめたもう!」
立ち向かう最後の一人が眉間を割られ辺りは静かになった。
スオウは小指の骨が折れるほどに地面を力の限り叩いたが、震える息を大きく吐くと短く握り直した矛で檻の紐を切る作業に取り掛かった。
「なにをしている」
「…………」
「なにをしている」
「……見て解らんか。檻を解いている」
「そうか」
冥之上が檻に手をかけると小木蔵はいとも簡単にばらばらになった。
高床が傾くと中で膝をついていた全裸の少女が重力のままにスオウの胸に飛び込んだ。
やせ細り垢と虱にまみれ、股を糞尿の残りかすで腫らした少女は酷い悪臭を放っていたがスオウはしっかりと抱きとめると頬に頬をよせて弱々しい息遣いを確かめた。
兄様、と細い声が耳をくすぐり、再びスオウの両目からは大量の涙が迸った。
「兄様、なんてことをなさいますの」
「いいんだ。これで贈る必要がなくなったのだから」
「その御方は?」
「此れか。此れは闇女上の遣いで……」
「これじゃない、冥之上だ」
「聞いたか。聞くことも話すことも出来る。そして何故か私の真似をして言う事を聞く。どうだ、すごいだろう? だからもう大丈夫だ。もう、大丈夫なんだ」
「……そうなの?」
身体の中の穢れをなくすためにろくに食事も与えられなかったせいで満足に頭が回っていないようだがそれでも少女は安堵の涙をにじませた。
死は女上の膝元へ行くだけのことであり恐ろしいことなどなかったはずが、狭い檻の中で闇夜を過ごし空腹と痒さに苛まれるうちに少女は死ぬ事が怖くなっていた。
だがもう苦しまなくていいと兄は言う。
またあの何気ない日々に戻ることが出来ると、言う。
「冥之上、どうだ? 私が妹の中に珠の御力が見えるか」
「喋り方が変わったようだが、どうした」
「うるさい。いいから答えろ」
「見える。大きな輝きだ。だが」
「だが?」
「どうすればいい」
「はあ?」
思いがけない事を言い出す冥之上に頓狂な返事をしてしまうスオウ。
小首をかしげて何やら思いを巡らせているようだが冥之上は珠の巫女の力の回収方法を知らなかった。
いよいよ怪しい奴だがその事実は都合が良かった。
こんな事をしでかしてしまった以上は他の鄙へ逃げねばならず、ならばまずは衰弱している妹を看病する必要があるものの鄙の外で野営するには一人では荷が重かったからだ。
「うーむ、何故分からんのだ」
「それは私の言葉だ。……まあいい。だが、そうだな……然らばまずは聖域に戻ろう。戻って闇女上に聞くがいい。だがな、その前に巫女を養わねばならん。死なれたら汝も困るだろう。導祖に手柄を取られたくなくば、さあ、手伝え」
「導祖。そうか、導祖か。導祖は如何にして珠を運ぶ」
「知るか。前触れもなく枕元に立ち腹に埋めていくという事しか分からん。手にでも持っているのだろうさ」
「持つ。おお、そうか。なるほど」
それは思いもよらない行動であった。
冥之上はしゃがみ込むと少女の体の中に手を入れた。
背骨を砕いて引き抜かれた拳には血に濡れた臓物の一部が握られていた。
スオウはただその光景を呆けたまま見つめる事しか出来なかった。
「あ、に……さま……?」
少女は自身の痛みよりも兄の顔から血の気が引いた事の心配をした。
そしてそれが最期となり、辺りには絶叫が響いた。