大王(きわか)と小女子(をとめご)7
出ていったばかりのスオウたちがすぐに戻って来た事を良からぬ事態に陥ったと捉えて気色ばんだ大王であったが報告を聞くと信じられないといった顔で暫く絶句していた。
根拠なくあれが珠の巫女だと言ってはみたものの、本当にそうだったとは誰が思うだろう。
巫女という高潔な存在と嫉妬にまみれた冬蔦の狂気は終ぞ結びつかなかった。
だが、もう始末したというのが本当ならば深くは追求すまい。
呪詛を吐かれるのが恐ろしくて強く拒絶できなかった悪夢の日々はもう終わった。
落ち度はなかった、と大王は思っていた。
確かに冬蔦は美しい容姿をしていたが、大王にまで昇りつめた自身の第六感がこの女には手を出してはいけないと強く訴えていた。
故に朝貢中は視界に映ろうとしてくる彼女を見かけても無視を貫き通していたのに、彼女は都から遥々ついてきてしまったのだった。
好意を受け入れようにもはっきりと拒否しようにも曖昧にしておく以上に凄惨な結果となる未来しか見えなかった。
殺してしまおうかとも考えたがその異様な執念によって禍津鬼と化してしまったら人である大王にはいよいよ対処のしようがなくなっただろう。
輝の民が誇る縄背峠の歩き巫女でさえ冬蔦をただの人だと言った。
だから大王は耐える道を選んだのだった。
耐えていれば必ず御闇山の陰業衆が来るに違いない。
輝大君を信仰する土地の長である以上は表立って頼ることは出来ないが、御闇山の巫主は葦原中の妖の気配に敏いと云われており世の安寧を護る者として必ず陰業衆を派遣してくると思っていた。
遥か昔のことではあるが、大王は幼い男児を連れた陰業衆がこの地で宿をとり南へ帰っていったのを覚えていた。
故に天嶮の谷間を越えてやってくる可能性は皆無ではなく、それに望みを託したのだ。
赤穂での冬蔦は大王が誰かと接しない限りは嫉妬に狂うことなく微妙な距離から見つめてくるのみだった。
よって大王はただ一人で囮となり、御内の者どもは別の場所で大王の代わりによく政を執り仕切った。
不思議だったのは訪朝の途絶えた大王に対して皇からお咎めの文や使者が一切なかったことだ。
だがそれはおそらく冬蔦が都でも有名な小女子であり、皇は大王が憑かれた事を知って暫く動向を見守ることにしたのだろう。
そうしているうちにやってきたのがスオウたちだった。
大王は今一度スオウを頼もしく感じていた。
本人は否定していたがやはり彼は御闇山の陰業衆に違いないだろう。
そもそもただの人が土の精隷を使役しているなどあり得ないことなのだ。
彼が御内となれば皇のみならず巫主とも縁が出来、南北に居を構える両者のちょうど中間に縄張りをもつ自分の影響力は益々増すことになる。
そして土の精隷が闇女上の使者であり昊之上の復活を阻止せんがため甦ろうとしているということも本当ならば恩を売っておいて損はない。
大王は大げさにスオウの手を取ると目に涙を浮かべて深く頭を下げた。
当然、スオウが驚いて硬直したのは言うまでもない。
「なんと。なんと礼を申して良いか。汝の働きぶりは比類なきものぞ。恰も昔からの我が重石よ」
「えっあ、そ、あ、有難き御詞」
「よもや、かようにも早く。して、やはりあれは妖の類であったか」
「あ、その、い、否。人なり。然れど確かに珠の巫女なれば、冥之上が珠を賜り、骸は今そこの畑に」
「確かめよう」
確かめようと言われて珍しく反応したメイが見やすいように顎を上げて首飾りを見せてきたがそもそも大王は最初にいくつの勾玉が付いていたのか知らないので手で制して屋敷を出た。
小雨は未だ降っている。
しかし晴れ晴れとした大王の心内は水を弾く足音からも分かった。
その足が止まる。
「…………」
「……は?」
そこには確かに目を覆いたくなるような血糊が水を含んだ泥に広く広がっていた。
近くにはメイが投げ捨てた臓器の一部が力なく落ちている。
だが肝心の亡骸そのものが見当たらない。
何かが倒れた大きな窪みは既に水溜りとなり、そこから這った跡が水路へと消えている。
「生かしたのか」
「そんな筈は! あれを御覧なれ。体に大穴を開けられ生きていらるる者がおりましょうや!」
「ではやはり……遅しか」
「まさか……そんな」
背筋に冷たいものが走ったスオウは果敢に水路に膝まで入れて矛を突きつつ下流へ進んでいったが石突きの先に当たるものは何もなかった。
水路はこの赤穂の縄張りに張り巡らされている。
「……妖となりたるか、冬蔦……!」
じっとりと汗ばむ不快な湿気の中、四方から何かが見ている気配がする。
この日から蛙や虫の声は一切聞こえなくなった。