大王(きわか)と小女子(をとめご)5
その小女子は都より来たる──
メイを適当に土間で遊ばせておきながらスオウは赤穂辺大王と膝を突き合わせて酒を酌み交わした。
本来ならば素性の知れない旅人相手にたった一人で応対するのは軽率な行為と言わざるを得ないが、大王は人を呼べる機会を待っていたと言った。
誰もいない屋敷、使用人さえおらず肴も大王自らが用意する様は光栄であり異様なことである。
為政者の視線は時折閉じられた雨戸に向けられ、外からは雨音と蛙の鳴き声が静かに聞こえていた。
暫くして、曇り空ゆえに時刻は不確かだが次第に辺りが暗くなり始めてきたのでスオウたちは屋敷を出た。
小雨は未だ続いており辺りには土と青草の臭気が立ち込めていた。
泥濘む道を歩いていると近場を通った時だけ付近の蛙が鳴き止み、通り過ぎると再び鳴き出して幾重にも音が重なった。
紫陽花の上では雫に濡れた蝸牛が揺れていた。
スオウはメイが急に何かに興味を示して勝手にどこかに行かないか気を配りつつ先程までのことを思い返していた。
大王は広い邸宅に一人で住んでいた。
通常、長ならば何人もの妻をはべらせ、下男を抱え、大所帯で暮らしているものだ。
それをしない……否、出来ない理由が珠の巫女にあるというのはなかなか考えられない話だった。
いくら赤穂が輝大君を崇める地域とはいえ珠の巫女はその仇である昊之上を鎮める事が出来る存在なのだから巫女に選ばれた者が発覚すれば蔑ろにはしないものだ。
しかし巫女の所在を尋ねるスオウに大王は恐らくあれが巫女に違いないとあっさり言ってのけた。
メイの使命を全て話はしたがあまりに物分かりが良すぎるのも考えものだった。
まるで厄介払いのようだが、ならば何故大王はそれを自らの権力を行使して排除しようとしなかったのか……。
蛙の鳴き声が一斉に止んだ。
振り返るとそこには美しい娘が立っていた。
鄙ではなかなかお目に懸かれない雅な顔立ちで、普通の道ですれ違えば目で追ってしまっていただろう。
されども今は雨の中、女はずぶ濡れの髪も衣もまるで意に介さず小さく微笑んでいた。
「メイ」
「…………」
「……メイノカミ」
「ん?」
いつの間にか略称で呼ぶと反応しなくなってしまっていたメイに訊ねるスオウ。
目配せし、顎で小さく女を指してみるがメイは意に介さずぽかんとしているだけだった。
あの女が大王の言う件の人物であることは一目瞭然なのだが珠の巫女であるかどうかはメイに聞いてみなければ分からない。
だから確認を取ろうとしたのだが、今までのメイならば一目散に命を奪いに向かっていったというのにそうしないということは巫女ではないという事なのだろうか。
「旅の方、木通の翁の家は無事に辿れますか? 私が案内して差し上げましょう」
「ああ、これは有難き御申出。ええと……」
「申し遅れました。私が冬蔦。大王の妻でございます」
やはりそうか、とスオウの額に浮かんだ雫は小雨によるものではなかった。
翁の家は旅人が来た際に寝屋を貸してもてなすように大王から言いつけられている家の一つだが、どこの家に向かえと言われたかはあの時あの空間には自分たち三人しかいなかったはずなので女が知っているわけがないのだ。
「外に小女子がおらなんだか? おらなんだか、そうか。……その小女子は都より来たる我が妻でな、名を冬蔦という。一年の昔の事だが、我は名乗りの許しを請うために幾度も都に通うておった。その折に妻は我を見初めてくれたそうでな。この赤穂にまでついてきてくれたのだ。葦原一の器量良しだと、我は思うておる。故にだ、我には他に五人の妻がいたが、もうおらぬ」
酒の席でいきなり始まった大王の惚気話。
土器を傾ける手を止め、何故この小雨が降る外に妻が? と訝し気に顔を上げたスオウは大王の真剣な眼差しを見た。
「おらぬ?」
「ああ。妻たちはな、己の不出来さを儚んで自ら命を断ちおった。首を括り、あるいは桶に水を張り、喉を掻き……。我が子らもだ。乳飲み子さえ首を括りおった。我が代取りとなるには能が足らぬと儚んだのであろう。あまりにも不幸が続くゆえ一応、縄背の巫女にも来てもろうたのだが妖の気配はないと言った。その巫女も……毒をあおり死んだ。はるばる縄背から来て役に立てなかった事を儚んだのであろう。つまり、そういう事なのだ」
乳児が自ら首を吊るなど聞いたことがない。
妖の仕業でないのだとすればやはり自殺なのだと言い張る大王の目は、しかし自分の言葉を否定していた。
「だがな、我には分かるのだ。異能を持たぬ我にも見ゆる。妖は、確かにおる。我に憑いておるのだ。故に御内の者どもには暇を出した。今は一人となろうとも……我には……冬蔦がおるゆえな」
あれをどうにかしてほしい、と先に大王は言っていた。
土の精隷を連れているような特殊な旅人ならばあれをどうにか出来るに違いないと家に呼んだのだ。
言葉だけ聞けば自殺した者どもの怨霊をどうにかして欲しいと言っているように聞こえるが顔を見れば大王が始終誰かを意識した言い方をしている気づく。
その誰かとは言うまでもない、冬蔦のことであろう。
大王は妻子や縄背の巫女の死の陰に冬蔦があると確信していた。
しかし何故か自ら真相を確かめようとはしなかった。
この中津平原では全ての命の生殺与奪の権は彼が握っていると言っても過言ではないのに、どうして一人の小女子に躊躇することがあろうか。
スオウはどうしてもその理由が分からなかったが、会って、はっきりと理解出来た。
確かに大王の言った通り冬蔦は美しかった。
だがその目の奥に宿る何かが怪しくて、恐ろしいのだ。
会話は出来るのに理解し合えないような、下手な事をすれば生涯後悔しそうな、そんな危うさが女にはあり、スオウは今まで対峙したどの禍津鬼よりも恐ろしく感じた。
大王は妻と言っていたがそれは女を刺激しないために話を合わせているだけで、きっとそう思っているのは女だけなのだろう。
「大王とはどのようなお話をされたのですか? 私、奥におりまして」
「……ああ、冬蔦殿がお美しいと。葦原一の器量良しだと惚気ておいでであった」
「まあ嬉しい」
「ここまで追いかけて話しかけてくださるならばあの時おいでになれば良かったでしょうに」
「大王と汝が……睦ましく酌み交わしておりましたから。二人きりが良いのかと思って」
「ははは……メイもおりましたゆえ。然らばこれにて。案内は御心のみ頂戴いたす。冬蔦殿もあまり雨に濡れてはお体に悪かろう。お帰りなさるがいい」
「ふふふ、そういたします……」
奥の部屋にいたというのは嘘だ。
女はあの時、外の壁に張り付いて全てを聞いていたのだ。
それでもスオウの口から大王の言葉を言わせたかったのは愛されていることを誇示するためか。
スオウは宿でメイに色々質問したいことがあり早く女と離れたかった。
道案内を遠慮されても女は別段食い下がることなく笑顔で小さく会釈して里芋の葉の向こうに歩いていってしまった。
スオウたちが来た大王の屋敷へと続く道へではなく。
暫く様子を窺っていたスオウは歩き出したが──
──小雨の音で気配を消し、里芋の畑の隙間を静かに縫ってやって来た者が小刀をスオウのうなじ目掛けて振り下ろした。




