風吹く鄙の珠の巫女5
この折に現れるとはなんと煩わしきことよ。
大きく窪んだ眼窩の奥で冥之上の様子を追っていた長の目が光った。
老人は闇女上の敬虔な崇拝者である。
だからこそ今の今まで見たこともない上の意志に戸惑っていた。
「長よ。真に土の精隷は縄張りを動かないのか」
「そう伝えられておる」
「確たる証ではないと」
「そうではない。成り立ちを話したであろう。世の全てには大いなる力が宿っておる。それらが衰えぬよう枯れぬよう、上は精隷をお創りになり方々を守らせておるのだ。どうして役に背き離れる者がいようか」
「ここにいるではないか」
「ならば考え得るは二つ。その者が妖の類であるか、はたまた真に……。だが汝も妖を疑い一夜を明かしたのだろう? すると答えは一つよ」
「長よ。では何故そのような目をなさる」
スオウたちは闇女上が創ったと伝わる精隷で自由に動き回ることが出来るものを一つだけ知っていた。
それが現れることは喜ばしいことであり現に最近でも長は喜んでいたはずだった。
なのに今はずっと難しい顔をしているのである。
その理由が知りたくてスオウは何も知らないふりをし長の心根を探っていた。
「あれが導祖の代わりに現れたのではないか、と言いたいのか。在り得ぬ話だ。導祖は闇女上の分霊にして下衆の者と言われておる。彼の女共は人に非ず、死人の魂を拾うて隠世に運ぶ御役にある。魂は新珠の泉にて清められ再び現世に送られると身籠りの母に宿される。儂らはかくして世に生まれ出でるのだ。しかし栖鴬よ、汝にはあれが女に見えるか、役を遣った者と見えるか」
美形ではあるが明らかに男を模している冥之上はやはり二人の会話には全く関心を示さず申の頭蓋を持ちながら自身の歯を触っていた。
長にはその俗な態度が闇女上の遣いとして不誠実に映ったのだ。
珠の巫女を送る儀式は神聖でなければならない。
ならばこそ使者は霊的でありあらたかでなければならなかった。
「何故在り得ぬと言い切れるのです」
「言い切れぬと言える証があるかの如き口ぶりよな」
「それは……」
「栖鴬よ。汝はまだ若い。新たしきものへ畏れなき事もわりなしと謂えようが、古より伝わりしものには相応しき故があるのだ。祝事の肉も得ず、それなる者を連れて来たはやんごとなきことだと打ち逸ったが為であろう。だがな、ならんぞ。如何なることがあろうとも祭礼は執り行うものとする。望の月までまだ日はある。その者は元の所へ還し、式の定めに従うのだ」
「…………」
「良いな栖鴬? それと……土の精隷も聞いておろう。何故この折に聖域に現れたかは知らぬがな、儂は汝を上の御意思とは思えぬでな。在るべき場所に還るが良い。悪く思うでないぞ」
「…………」
「聞け、土の精隷よ」
「ん? ああ、土の精隷じゃない。冥之……」
「還して参ります。そしてそのまま狩りに戻りましょう」
「……それでよい」
スオウは一礼をすると冥之上を引っ張り退出した。
冥之上を拒絶する理由として深い事情があるのではと思い様子を窺っていたがこれ以上の対話は無意味と判断したからだ。
老人の主張は既に始まっている儀式を今更変更出来ないという柔軟性のなさと未知のものをすぐに受け入れられる若さへの嫉妬以外の何物でもなかった。
長の家から少し離れるとスオウは冥之上の肩を掴むと向き合いながらゆっくりと諭した。
「汝は、やすく、名乗るな」
「何故だ」
「聞いていなかったのか? ああいう古い者もいる。あれらにとって上はただ一人、闇女上だけなのだ。汝が上を名乗れば余計に煩わしい事になっていただろうな」
「わずらわしいこと?」
「呆れた奴だなあ。いいか、長はな、汝が闇女上より遣わされた者かなどそもそもどうでも良かったのだ。豊穣となれば言い伝え通りの祭礼を成し、災いあれば祭礼を成し、古よりの定めを繰り返すことが正しいと思っている。汝はそれを乱す。故に受け入れられぬと言っていたんだぞ」
「そうか。では巫女の元に行くぞ」
「それが出来ないから長に会わせたんだろうが」
「何故だ」
「見ろ」
スオウの指さす先には円状に柵が設けられた一画がありただ一つの出入り口には幾人かの男たちが番をしていた。
その奥には丸太で組まれた高床の建物があった。
一見すれば穀物の貯蔵蔵に見えるがそれは一抱え出来そうなほどに小さく扉もない。
周りは呪いの意匠が掘られた木札や染め布と共に獣の骨を削って作られた装飾や頭蓋が飾られていた。
「お前の求める珠の巫女はあの中にいる」
無遠慮に向かおうとする冥之上の肩を抑えるスオウの指には複雑な思いを込めた力が強く強く加わっていた。