風吹く鄙の珠の巫女
暗闇で声がした。
水の中で囁かれたような朧気で曖昧な響きだった。
次第に鮮明に聞こえるようになっていくとそれが柔和な女性の声であることが解った。
声の認識は己と己以外を分かつ最初の自我となり、そして新たな存在が生まれた。
「ここは?」
天も地も、奥も手前もない空間に疑問を呈する声が響く。
今度は若い男の声であった。
すると無の中で光源もないのに姿が浮かび上がった。
男は不思議そうに手を見つめ、足を見つめた。
銀色の長髪に切れ長の目をした青い瞳の端正な美丈夫である。
無駄な肉のないしなやかな四肢は大きな布を肩にかけ腰で紐を結んだだけの簡素な服に包まれていた。
男がひとしきり自分の姿に関心を示していると暫く黙っていた女の声が再び響き渡る。
しかしその姿は未だ見えなかった。
「ここは気脈の還る彼方、新珠の泉の遥かなる深淵です。そして私の名は闇女上。汝の母なる者です」
「……わの、な、わ、くらめ、のかみ……は、なれ、の、ははなる、もの?」
「まだ寝ぼけているのですね。なんて愛らしいのでしょう。理解出来る筈ですよ。考える必要はないのです」
言葉は初めて聞く筈だったが男は知っていた。
それが人とは違うところか。
何故分かるのかを追求さえしなければ会話は自然なものとなる。
闇女上と名乗った女性は愛おし気に笑っていたが男の瞳から疑問の色が消えるのを見ると本題へと移った。
「いいですね。今から言う事をよく聞くのです。今、現世では大変な事が起きようとしています」
「大変な事?」
「災厄が蘇ろうとしています。その名は昊之上。死を司る精隷です。あれは本来は死するべき者に死を与える役目を持った存在でした。しかしいつしかあれは理性を失い、手あたり次第に魂を狩る怪物と化してしまったのです。かつてそれを恐れた人々は私の力を用いてあれを封印することに成功しました。ですが……その封印に綻びが生じています」
「…………」
「汝にはそれを食い止めて貰います。深淵に閉ざされた私の代わりとなり、現世へと上って昊之上を封印するために珠の巫女を求めなさい」
「たまのみこ?」
「かつて私の力を与えた器です。人は弱く命短きもの。あれらが上に立ち向かうなど到底不可能なことでした。故に私は人の子らに私の力を籠めた装飾を与えました。その力を受けた者たちを珠の巫女と呼びます。珠の巫女の力は昊之上に敗れても何度でも立ち向かえるようにと、死した後に再び他の巫女に託されるようにしていました。ですが……渡し途中の珠が何者かに奪われる事態が起きたようです。恐らくは昊之上の復活を援けようとする悪しき者の仕業でしょう」
「なにをすればいい」
「今の巫女たちから珠……即ち勾玉を貰い受けるのです。あれは現世に残りし私の数少ない力。昊之上を凌ぐ唯一の力です。ですが時が下り力の弱まった巫女たちは使い方も知らず、故に何人いようとも邪悪に立ち向かうことは出来ないでしょう。だから勾玉を一つに集め、選ばれし者に託すのです」
「選ばれし者とは誰だ」
「導かれるままに、行けば分かります。この時世にあの者が生を受けたこともまた運命なのでしょうから……」
意識が移りゆく。
声は遠のき、身は彼方へ。
「さあ、巫女のいる場所に一番近い気穴まで送りましょう。人の世を頼みましたよ、冥之上。それがあなたの名前です」
「めいの……かみ。それが吾が名……」
光の流れを遡ること刹那。
青草の香りで我に返ると男は月夜の森の中に独り佇んでいた。