風吹く鄙の珠の巫女2
翁曰く、月夜の森に火を焚く男あり
名を栖鴬といい、風吹く鄙の若者なり
寝屋処に導祖立ちたるいもの珠の巫女となりしを祝き、肉を得んとて山に入る
夜深くなりしも牙狼騒ぎたるを、例ならずあやしとて尋め行かば、冥之上あいたり
山中で焚き火を前に男が座っていた。
若い男であった。
意志の強そうな顔立ちと、襟足だけを長く伸ばして結んだ黒髪が眼前で揺れる赤色に照らされている。
傍らには矛を携え、ひたすらに感覚を研ぎ澄ませていた。
その耳へ微かな異音が届いた。
鞍部を挟んだ谷向こうで獣の喧騒が聞こえたのだ。
男は矛を手にすると颯爽と駆けて行った。
宵闇は月によって足元さえ見えるほど明るく、足取りに不安はなかった。
音の出処に近づくと男は走りながら目を細めた。
この先には気穴と呼ばれる神域があるが、そこで曲事とはなかなか由々しき事態である。
男は風を読み下手に回り込むとそのままの勢いで飛び出した。
月明かりに反射した無数の双眸が、人間如きに接近を許した失態に驚愕して光った。
騒いでいたのは牙狼だった。
牙狼とはどこにでも生息する狼の一種であり、その名の通り口からはみ出た大きな牙が特徴の獣だ。
男はそれらが群れている中に白い脚が突き出しているのを見た。
夜の山中に自分以外の人間がいたことに驚いたが、男は直ちにその者を救わんとして獣たちに戦いを挑んだ。
集団での狩りを得意とする獣である。
招かれざる余所者の登場に最初は一斉に散り散りになったものの、獲物を横取りされてはなるまいと反転して襲い掛かる。
多対一、ましてや獣相手に人が敵うはずもない。
しかし、男は強かった。
牙狼は一匹ずつが襲い掛かったふりをして接近と後退を繰り返し、獲物が疲弊したり隙を見せたりすると一斉に襲い掛かる戦法を得意としている。
その習性をよく理解していた男は、組み付く気もないのに向かって来た牙狼を迎え撃つふりをして後ろに矛を振るった。
刹那、次に襲い掛かる振りをしようと不用意に近づいていた狼の眼前に殺意の刃が通り過ぎた。
驚いて無様に腹を見せた牙狼は、ようやく目の前の男が戦ってはならない相手であることを理解した。
死を覚悟して挑めば勝てるだろう。
しかし仕留める頃には群れの過半数が道連れにされてしまっているに違いない。
牙狼たちは目の前の獲物よりも群れの生存を優先させて潔く退いて行った。
男は逃げる牙狼たちを少しだけ追いかけて再び戻ってこないように威圧を与えると、静寂の中で安堵の溜め息をついた。
腹を空かせた群れでなくて良かった。
それにしても一瞬だけしか見なかったが、襲われていたのは人間か。
何故このような時間にこのような場所にいるのか不明だが、あれほど組み付かれていたら無事ではあるまい。
神域が血で穢れたであろう事を憂鬱に思いながら、せめて弔ってやろうと来た道を戻ると男は信じられないものを見て口を開けた。
おそらくは襲われていた者だろう。
その者が何食わぬ顔で立ち呆け、じっとこちらを見ていたのだ。
身体には傷一つないどころか汚れ一つない。
あり得ないことだが男はその者の顔を見て理解した。
「土の精隷だったか……驚かせおって」
精隷とは自然に存在する怪異である。
稀に人の前に姿を現すそれらはその土地土地の守護者と言われ、太古の昔に自然の調和を任せんとして上が創り出した僕だ。
それらは上が滅びた今なお在り続けている。
例えば森の精隷は森と共にあり、彼らの死は森の死を意味し、逆もまた然るのだ。
土の精隷はよく見かけると言われる精隷である。
黒髪に黒目、古代の者のような布一枚の服装など言い伝えの通りだ。
現れる時は今のようにぼんやりと立ちつくしており、意志の疎通は不可能とも聞く。
故に男は最初から対話を諦めていた。
しかし精隷が獣に襲われるなど聞いたことがない話だ。
もしもこの精隷が神域の土を司る者ならば殺されなくて良かったが、異常事態であることに変わりはない。
今日のところは山籠もりを諦めて鄙に帰り、いち早く長老に伝えるべきか。
男が考えながら焚き火の元に戻ろうとした時だった。
「土の精隷じゃない。冥之上だ」
「なっ!? お前……話し能うるのか!?」
男は驚いた。
話せるとは思っていなかったうえに、まさか名乗ってくるとは思いもよらなかったからだ。




