国語の教科書
フードを被って、視界を狭め何かの壁にもたれかかる。いつものように。いつものように、また一人でこうして立っている事、と思いながら立っている事。
名付けられた感情があって、それに終止符を打つということは決してできない、過去の、素晴らしすぎた名付けがあって、わたしにはそれはテニスコートで、感情のインとアウト、合間の休み時間には終わりを探しに、コートの外に出るぐらいのことは確かにできるし、今までの短い人生でも、わたしはやってきている筈。
今日を終えるということ、誰でもできるぐらいなんだから。
いつからそれを、どこかの作家みたいに、呪い、だなんていって着るべきじゃないみたいに、わたしは、見るようになっていったんだろう。
そんなふうにして、歩かせるようになっていってた。
素晴らしすぎた過去の発見、この世界が優しさでできてるとは聞くけど、わたしのものだとか、わたしが字を書くことも覚えられる時点でもう、わたしの腕ぐらいは噛んでそう。けれどもやっぱり、呪いとしてキャッチするのはいけないことだって感じるし、わけ知り顔とかで誤魔化し、こうして立っていられる。やっぱり駄目、時々は駄目、今日と昨日を跨いだだけ、バランスがとれなくって、コインロッカーを有効にし、勉強道具の詰まった重たい鞄を隠し、駅ビルに逃げ込み、おばさん二人組に捕まり、腕の痛みと引き換えにじぶんの受け取ったものについては何だか考えがまとまらない、と思えばあの小学校に連絡が行く。
「安易なあなたの素敵をあたしたちが認めてあげているの、毎日ちゃんとよ。感情はどんどん飲み干しなさい、どんどんと。あなたのこの首輪に首輪をしなくちゃならないわけ?」
「ね。いまだに多くの人々が、固く国語の教科書を持ってる。私だってそう、耳飾りにしなきゃって感じ。砂漠ですか森の中ですか、信じますか信じませんか。大切な天国と地獄。啜るべきなの、こぼれ落ちるほうがいいだなんて、あなたはそんな考え方? どんなものも善いもの。なだらかになってごらん、あやふやになってごらんって、私は悲しげな作者にいわれたらノーセンキュってね。行方不明、誰かにとってだけの、それは、ゆくえとふめいよ。ね、もしかして完全体を信じる? 大きく間違い。舞う言葉は、すなわち乾いてるってこと。大切なことなの。あなたのためを思い埃を払ってあげずにいる、さっ机に繋いであげる。そんで、それ、とりま砕けたりとかないようにしなきゃだわ。足元に置きなさい」
わたしは、国語の教科書を床に叩きつけ、見事にそれを割り、破片は全て女たちのほうへ放り投げた。




