しけた話
「やば、まったく思い出せない」
やっと聞こえてきたのが彼女のそのひとりごとだ。
玄関に来て彼女が失念に気がついて引き返していってから、彼はそこに立って待っていた。
しかし今、わざわざ彼に聞かせるつもりがあったわけでもなさそうなひとりごとが聞こえてくると、玄関マットの上に、出入口のほうを向いて腰を下ろしていることにする。
急かすこともせず、何の言葉も彼女のほうにはかけず、彼はうす暗い玄関で、後ろ手をつき曖昧な気持ちでいた。
考えていた。
世のなかの手持ち無沙汰な男たちというものについて最初は考えていた。そんな男たちの大多数は、女たちが出がけになって部屋に引き返していくせいでそうなるのだ、ということ。
現在自身がまさにそういう存在であることについては何の感情もない、しかしこういったシチュエーションで、世の男たちが何を思い何を選択するのか、という点には、じぶんだって関心があるのだと彼は静かに思っていた。
週末の、しかしそれは活力に溢れているわけではない一つの頭、一人の体のこと。
彼は天井を見上げる。頻繁に訪れてはいるのに、このアングルも初めてだった。
彼は伸びをした。
いまだ照明のスイッチも入れずに彼は座り続けている。
彼のほうもそうだが、彼女のほうからはまだひとことも声もかかってこず、そこで一体何をしているのかすら彼にしたら定かでなくなってきた。そろそろ、もう午前十時半。
彼は街を歩く時の服装で、でもいまは彼女待ちの態勢で、明かりもついていない狭い玄関に五分、十分、十五分間も留まっている。
月並みの男だ、と彼は静かに考える。
背中を丸めたり、頬杖、口に拳固を押しつけたり、少し下に移し顎を押したり。内側というよりは扉の外からやってくる誰かを待っているようにも見えるだろうという気がする。彼女が彼にその物を見かけなかったかどうか、何も訊ねてこないところからして、彼のほうでも、何かひとこと声をかけることができなかった。
数年の付き合いから来る彼の、彼らの判断。二人とももう二十代後半に入っている。
やがて眠気を感じ、彼の頭は昨晩の記憶をたどり始める。
彼の頭は金曜日の夜のことを、二人で食べたもののこと、その後に疲れた体でソファーの上に移動し二時間ほど眠ったこと、テーブルの上のスマートフォンのバイブレーションを止めるのに手間取ったこと、そしてシャワーを借りたことなど昨晩のじぶんの行動を逐一たどっていく。
少しましになって彼がリビングに戻ると彼女の姿はなく、真ん中辺りに立った彼が髪を拭いていると、彼女が寝室から顔だけを出した。じぶんは長電話をしているからと彼女は彼に短く伝え、するとすぐにまたドアは閉められた。
彼も再びソファーに座ることにした。だが、しばらくのあいだは考えが浮かばずにいた。
どうしようかと考えていたが、夜の過ごし方がさっぱり分からない。
別の部屋からの彼女の話し声。
しょぼくれた少年みたいにじぶんがなるのが嫌になって今いるソファーの下を覗いた。
すると彼女の借りているマンションの床の、彼女がいつも掃除している床、ソファーの下のくらがりに、彼の想像していたものは見つかった。
それは彼女の癖で、その週のうちに彼女が読んでおきたい、少なくとも手に取ることに決めている小説や漫画などが、そのソファーの下に無造作に置かれてあるのだった。
こうして彼は暇潰しをみつけると、テーブルの上にそれらを移して一冊一冊を検分していった。
同じペンネームの漫画家の単行本が目につく。知らない作者だが彼はそのなかで読切り作品を集めた一冊を開いた。
腹は落ち着いている、シャワーと歯磨きも済ませている。すぐ傍には彼女の姿がないけれども、夜、彼女のソファーの上に彼はいることができているのだった。
そうして彼はそこで、彼女も読んだ漫画のページを繰ったのだ。
頭の上でスイッチを押す音がし、彼の座っていた玄関の内側が明るい場所に変わる。いきなり、そしてあっさりと。
「あのゾンビとパンの話ってさ?」
見上げていても、さっきと一ミリの誤差がないような彼女。
収納スペースに目を落としながらも笑みが浮かんでいる。
「何何、ホントいみわかんないから」
靴から手を外す。長い髪に隠れて表情の全てまではよく分からない。
「俺が夜に読んでた漫画のこと。昨日借りた」
「んー? あぁ、はいはい」
「あの短い話を集めた本のいちばん後ろに、描き下ろし収録のやつあったじゃん。ゾンビのパン屋さん」
「いまカラスのパン屋さんみたいにゆったね? そうか、うーん。あの読切り。私はあれあんまりだったかな」
「あの短編がいちばん最後にくるってゆうのが、なんかよかった。ゾンビっつか、元人間が主人公じゃんあれって。作者の吐露であるっていう感じがする。考えてたんけど、描き下ろし作品でしょあれ。発表順に並んでる作品集で、最後にあの話ってとこがなんか、作者にはたぶん意味を持つことなんだろうなって気がして、俺の想像なんだけど。なんかいいと思った」
「まって。詳しく」
「最初っから人外の存在だったわけではないじゃん、あのパン屋って。んと確か、元人間だった頃にさ、赤ちゃん時代にパン屋の両親が、なんかで蹴り入れたってか、なんだっけ魔女? かなんかそーゆう人間が手出しちゃいけない系のにかましちゃったんだよな。そいで向こうも反撃に、アホのほうでなく子どものほうに呪いをかけて、しかもしっかりクソ親は子ども捨てちゃう、みたいな展開。そこのへんもなんか絶対重い意味がある感じで。そんで、モンスターの町、みたいなとこでパン屋として暮らすようになる、でもやっぱ群を抜いてゾンビは不潔でヤダ、みたいな感じで。ほんと孤独でさ」
「うんうん」
「で何だ、ゾンビ寝ないとだめだわいくら不死身のあれとはいえ、寝ないとすんごい辛いわっつう描写があって、だからもう本当に孤独感がすごい。浮かび上がってくるのって、誰もが当然の顔をして受け取ってるもの、ってかそんなんが与えられないのは考えられないってゆうものが足りないままにやってる、ってゆう、なんか、つらみがある」
「ねぇあの話はさ、腐女子向け作品を描くことへの、なんてゆうんだろ、なんか本当にひとことでは表しにくい思いみたいな、そーゆう?」
「そうそう。たぶんね、俺が感じたんは、わけあってじぶんはホモ漫画描いてっけどなんかこう読まれ方っつか、なんか不安があるみたいなのを不眠症に繋げて漫画に仕立ててるふうに感じたっつか」
彼女の足。靴を履いた二つの足。
「でもやっぱパン屋だから、唯一できるのはパン作りだってなってゾンビが、これまでで最高傑作のクリームパンを焼ける朝がくるってそーゆう、希望があるエンディングになってる。ゾンビが死んだように店の床で眠ってるすぐ脇で、クリームパンを求めて朝から町の連中が集まって、こそこそパン食っとるとこで終わらせてるでしょ。パン欲しい全員に行き渡らないぐらいに」
そっか、と彼の話を聞きおわると彼女は呟く。
彼女のほうは彼の話を聞きながら、同じ物語を受け取った者に特有の静けさを全身から漂わせていた。
「わたしが同じその漫画を読んで思ったのはね」
そして彼女は話し出す、狭い玄関に立ち外開きの扉に背を預けたまま。
そして今度は彼が彼女の話すことに耳を傾ける、ある一人の作家がこしらえたその小さな物語について彼女が語ることを、彼女が物語を受け取ったその時のことを。




