第21話 喪失の予感
春、桜が咲く季節が訪れた。
クリスマスに起動したノエルは、順調に稼働していた。
しかし、初めから完璧だった訳ではない。
不自然な歩行。
不自然な姿勢。
不自然な表情。
黒瀬がそれらに対して何度も微調整を繰り返し、今では人の中にノエルがいても、全く違和感のないほどになっていた。
北原は、ノエルが外界からのあらゆる刺激に対して人として自然な反応ができるようにと、他のメンバーたちと協力してプログラムの改良を重ねていった。
「だいぶそれらしくなったな」
佐伯は、ノエルの動きを見て汐里に話しかけた。
「ええ、これくらい自然だと人が見ても驚かないでしょうね」
「……まあ別の意味で驚くと思うがな」
佐伯がボソッと言う。
「何か言った?」
「いや、何も」
佐伯はそう言いながら、嬉しそうな顔で汐里を見ていた。
そんなやりとりをしていた二人のそばで、チャットンがノエルに声をかけた。
「ノエル、おつかれさまもふ!」
チャットンは、赤いリボンを揺らしながらノエルの横へ歩いていく。
「ありがとうございます。チャットン」
「ノエル、ぼくのこと抱っこするもふ!」
ノエルが、そっとチャットンを抱き上げると、チャットンは満足そうにノエルの腕の中に収まった。
それを見た佐伯は言った。
「AIがAIに命令してる」
皆、笑っていた。
それは、穏やかで、充実した日々だった。
目の前に、自分たちが懸けてきた情熱の成果がある。
研究所のメンバーたちは、それぞれが達成感の中にいた。
研究所を立ち上げ、事業を回した。
チャットンを開発し、感情プログラムの研究を重ね、同時に人型AIの開発を進めた。
今、チャットンとノエルは互いに自然にコミュニケーションをしている。
誰かに指示をされなくても――。
その光景を見られることが、メンバーたちにはこれ以上ない対価であり、幸せだった。
「よし、今日の動作確認はこの辺までだな。ノエル、このあとは予定通りコードチェックのサポート頼む」
「承知しました」
それぞれの持ち場へ戻ろうとした時、汐里は、
「私はこのまま早退させてもらうわ」
と言って、帰り支度を始めた。
「……澪ちゃんの病院だっけ?」
他のメンバーが解散していく中で、佐伯だけが汐里の側に残っている。
「ええ、検査結果を聞きに行くことになってる」
汐里は佐伯の方を見ずに、帰支度を続けたまま話した。その声は淡々としていた。
「何もないといいな」
「ええ……」
「……亮介」
「ん、なんだ?」
「今晩だけ、チャットンを預かってくれないかしら」
「ああ、もちろん。チャットンのことは気にせず、澪ちゃんに付いててやりな」
「ありがとう」
澪は、冬の終わりから体調を崩していた。
最初は特に気にも留めていなかったが、だんだんと食欲が落ち、疲れやすくなって、顔色がほんの少しだけ悪くなった。
ひとつひとつは大したことはなかったけれど、汐里はそんな澪の様子を心配していた。
「澪、病院へ行って」
「大丈夫、ちょっと疲れてるだけだよ。仕事が忙しくて」
「少しずつだけど、いろんなところが通常値から外れているわ」
「出た、汐里語。私のステータス、把握されてる」
「澪、お願い。心配なの」
「……分かった。病院行ってくる」
澪が汐里に説得されて、しぶしぶ病院を受診したのが1ヶ月前。
それから、何日かに分けて思ったよりも多くの検査を受けた。
今日は、その結果を聞く日だった。
研究所を出ると、汐里はタクシーで自宅へ戻り澪を拾った。
「私は元気なんだけどなぁ〜」
タクシーの中で、澪は窓の外を見ながら呟く。汐里はただ静かに澪の手を握っていた。
二人とも、受けた検査の内容から、医者がどんな病気を疑っているのかは分かっていた。
澪は現実を見ないようにし、汐里はどう受け止めるべきかを冷静に考えていた。
病院に着き、待合室の椅子に並んで座ると、二人は何も話さなくなった。
現実感のない時間がゆっくりと過ぎていく。
予約の時間をだいぶ過ぎた頃、やっと名前を呼ばれ診察室へ入ると、そこで医者から告げられたのは、受け止めきれない現実だった。
澪に病気が見つかった。
治療法は、ないわけではない。
ただ、治る可能性は、限りなく低い。
澪の命は、あとわずか。
そう医者に告げられた。
数日ではない。
だが、数年でもなかった。
その日、二人は病院から帰ると、ダイニングテーブルに着いたまま、しばらく何も話すことができなかった。
先に声を出したのは澪の方だった。
「汐里……」
「うん」
「抱きしめてもらっていいかな?」
「……もちろんよ」
汐里は澪の隣へ行くと、座ったままの澪を横から抱きしめる。
澪は泣いた。
怖くて、認めたくなくて。
これから自分はどうなってしまうのか。
なぜ私なのか。
整理しきれない感情が、汐里の抱擁と共にあふれ出てきた。
その夜、澪は汐里の腕の中で、一晩中泣き通した。
汐里は、何と声をかけていいか分からず、ただ澪を抱きしめていた。
それから数日が経った頃、あれだけ現実から目を逸らしていた澪は、意外にも自分の運命を受け入れ始める。
反対に、どう受け止めようかと冷静に考えていた汐里は、現実を受け止めきれないまま、もがいていた。
汐里は、病院に行った次の日から、仕事の合間にも、家に帰ってからも、澪の病気に関する論文を読み漁るようになった。その中から、なんとか澪が生き延びる可能性を探し出そうとしていた。
しかし、データを集めれば集めるほど、それらは澪の病気が残酷な結果をもたらすことを示していくばかりで、そのことが余計に汐里を焦らせていった。
ある夜、暗がりの中でパソコンを見つめる汐里に、チャットンが声をかけた。
「汐里ちゃん、休むもふ」
「……ちゃんと休んでるわ」
「休んでないもふ」
「今は無理なの」
「澪ちゃんが……」
澪の名前が出ると、汐里の手の動きが少し遅くなる。
「汐里ちゃんが遠くに行ってるって言ってたもふ」
「……」
「澪ちゃん、寂しそうもふ」
「……」
汐里は何も言えなかった。
寂しい?
今、何かしなければ、救う方法を見つけなければ、近い将来に澪はこの世界からいなくなる。
寂しい以上のことが、この先に待ち構えていて、私たちを捕らえようとしてるじゃないか!
汐里は、そんな未来がやってくることを認めたくなかった。
チャットンは、現実を受け入れられないまま論文探しに没頭する汐里の姿を見て、気づいた。
――澪がいなくなれば、汐里は壊れるかもしれない。
チャットンは、澪の病気も心配だったが、汐里のこともまた心配だった。
それなのに、自分では汐里の心まで届かない。
チャットンは、どうしたら汐里のことを守れるのか分からずにいた。
そして、そのことを誰にも相談できないまま、一人きりで不安を抱えていた。
澪は、余命を告げられてからも、まだ普段通りに動けたし、特に大きな症状もなかった。
決して生きることを諦めた訳ではないが、治療だけを優先させて、病気に振り回されるように過ごすのは嫌だと思っていた。
残りの時間が少ないのなら、我慢をせずやりたいことをして、最期の時まで自分らしく生きたい――そう思っていた。
病気を告げられてから、二週間ほど経ったある休日。
その日も、汐里は朝からパソコンに向かい、論文を読み漁っていた。
「汐里……」
「なに?」
澪から声をかけられても、汐里はパソコンの画面を見たまま、手を止めずに答える。
「ねえ、こっち向いてよ」
「ごめんなさい。今忙しいの」
「ねえ」
「あとにしてくれる?」
澪は、しばらく汐里の背中を見ていた。
その背中はとても寂しそうで、とても苦しそうだった。
残されるかもしれないという恐怖に、一人怯えていた。
「汐里」
「ん?」
「……私、まだここにいるよ」
汐里は澪の言葉にはっとすると、手を止めて振り返った。
「澪……」
汐里は今にも泣き出しそうだった。
澪は、ゆっくりと近づくと、優しく汐里を抱きしめた。
「私、まだいるよ」
「うん」
「汐里の心が、寂しい、苦しい、怖いって言ってる……」
澪の言葉が汐里へと届くと、汐里の目にはみるみる涙が溜まっていった。
「また感情を置いてけぼりにしてたね」
澪に抱きしめられ、汐里の肩はだんだんと小刻みに震えていく。
澪は、汐里の背中をそっと撫でた。
やがて、汐里は身体の中から湧き出る感情に堪えきれなくなり、静かな部屋の中に汐里の嗚咽が響いていった。
汐里が少し落ち着いてから、澪はゆっくり話し始める。
「汐里が、私のことを助けようとしてくれてるの分かるよ……本当に、ありがとう」
汐里は、こくんと頷く。
「心強いし、頼もしい」
もうひとつ、こくんと頷く。
「でもね」
「私、まだここにいるよ」
汐里はその言葉に息を呑む。
「未来の私ばかり見るんじゃなくて……今の私も見てほしい」
汐里は泣いたまま、ゆっくりと顔を上げた。
澪のことをまっすぐ見る。
涙の向こうには澪がいる。
まだ消えていない澪。
失われる予定の澪じゃなくて、今ここにいる澪。
「私、澪がいなくなるのが怖いわ……」
「うん」
「どうしたらいいか分からない」
「うん……私も怖いよ」
澪は言った。
「死んでしまうのも、汐里にもう会えなくなるのも怖い」
「でも、本当にあと少ししかないのなら、最期のその時まで……」
最期。
その言葉に汐里の身体がこわばる。
澪は、ひとつ深呼吸をしてから、汐里をまっすぐ見つめた。
そして、力強く言った。
「私は、あなたと幸せに暮らしたい」
「澪……」
汐里は静かに答えた。
「分かったわ」




