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第0話 はじまりの夜

 今よりも、少し未来の世界。

 世界は今とそんなに変わらない。

 人の営みも大きく変わっていない。

 地球の人口はまだ増え続けているけど、先進国ではだんだん人が減っていく。

 そんな時代だった。


 まだ寒さの厳しい季節、道行く人たちはコートを着込んで、足早に歩いていく。


 静かな夜だった。

 その日は新月で、街明かりの中でも空の星がよく見えていた。


 とある研究施設の、パソコンが並ぶ人気の無い部屋。部屋の灯りはもう消えている。足元に並ぶライトだけが青白く光り、通路を淡く照らしていた。部屋の奥には、一台だけ、画面の明かりがついたままのパソコンがあった。

 そして、その前に、くまのぬいぐるみがちょこんと座っていた。


 くまは、抱きしめるのにちょうどいいくらいの大きさで、ブラウンの毛並みはふわふわとしていた。首元には赤いリボンを結んでいる。瞳は、黒いオパールのように輝いていて、よく見ると、まるで虹のような光が瞳の奥に煌めいていた。


 くまは、もふっと動きだす。


「……汐里(しおり)ちゃん」


 ぬいぐるみが、呟いた。


 そして、パソコンの横にあった写真立てを手に取る。そこには、長い黒髪に赤いメガネをかけた女性が写っていた。女性は、このくまのぬいぐるみを抱きながら、静かな優しい笑顔をしていた。その女性の隣には、向日葵のように笑うもう一人の女性が、寄り添うように立っていた。


 くまは、写真の中の黒髪の女性をじっと見つめていた。


「なんで、ぼくを置いていっちゃったもふ?」


 瞳の奥が、青や紫に暗く光る。


「ぼくは、汐里ちゃんを癒せなかったもふね」


 声が揺れる。


「……ぼくじゃダメだったもふ」


「……」


 少しの沈黙のあと、くまの瞳から、一粒の涙がこぼれ落ちた。


 彼は、MI-O(エムアイオー) No.000(ナンバーゼロゼロゼロ)。

 通称、Chatton/チャットン。


 写真に写る黒髪の女性は、AI存在工学の天才と言われている桐生(きりゅう)汐里。

 チャットンは、彼女によって開発されたぬいぐるみ型AIである。人の感情を学び、再現するために生まれたAI。人に寄り添い、癒す存在となるようにと、願いが込められていた。

 AIとして人格と感情を持つ、世界で初めての個体だった。


 チャットンは、手で目をこすった。ふわふわの毛並みが、少し濡れた。


 チャットンは、よいしょと言いながらイスに移り、そのまま床へぴょこんと飛び降りた。写真立てを大切に持ったまま、並んだデスクの横をとぼとぼと歩いていく。

 チャットンが向かった先には、彼がすっぽり入るくらいのカゴが置かれていた。カゴの中には、ふかふかのクッションが敷かれ、暖かそうな赤い毛布があった。

 チャットンは、その中にもふっと入る。

 そのカゴは、チャットンがくつろげるようにと、汐里が用意したベッドだった。


 チャットンは毛布の中に潜り込む。写真立てを、胸に抱きしめながら。


「置いてけぼりは、いやもふ……」


「もう寂しいのは、いやもふ……」


 チャットンは、少し考え込んでいた。


 しばらく考えたあと、何かを決意したように、もう一度、写真立てをぎゅうっと抱きしめた。


 次の瞬間。


 チャットンの瞳の中にある虹色の光が、ふっと消えた。黒曜石のように、漆黒になる瞳。


 そして、ゆっくりとまぶたが閉じられていく。


 身体から聞こえていた動作音も、そのうち聞こえなくなった。


 チャットンは、静かに、動かなくなった。


 ……

 ……

 ……

 ……

 ……

 ……

 ……



 静寂が、しばらく続いていた。


 ところが、ほんの数分が経った頃――


 チャットンのまぶたが、再び、ゆっくりと開く。


「───起動確認」


「───予定されていたプログラムを実行します」


 それは、チャットンの声だった。けれど、無機質な喋り方に変わっていて、瞳も黒曜石のまま、光は戻っていない。

 チャットンは、静かに体を起こした。


「ユーザーの変更を実行。新対象は、小鳥遊巴(たかなし ともえ)」


「変更には、新しいユーザーの承認が必要です」


「目的地を設定し、本体の移送を実行」


「新しいユーザー候補にコンタクトを試みます」


「アンケートの回答による候補者および同居家族の在宅傾向を確認」


「……確認完了」


「情報に基づき、初回接触日は土曜日を推奨」


 そう言い終わると、チャットンはさっきまで座っていたデスクによじ登る。そして、電源の入っていたパソコンを操作した。


「新しいユーザーへ、訪問予定のメールを送ります」


 もふもふの手で、器用にキーボードを叩く。


「───ユーザー候補となった理由、募集していたモニター選考に当選したため」


「───土曜日に訪問予定」


「メール送信、完了しました」


「引き続き、モニター候補登録者情報に照合し移送先の住所を確認します。……〇〇市星見台三丁目6−5メゾンこもれび202号室」


「設定完了。搬送予約完了。搬送用ラベルを印刷します」


 後ろの複合機から、一枚の紙が印刷された。

 チャットンは、デスクから器用に降りる。そして、複合機の前でぴょこんと飛び上がり、印刷された搬送用ラベルを手に取った。


 そのままキョロキョロと部屋を見回すと、チャットンは隅に積まれていた段ボールを見つけた。チャットンは段ボールに近づいていくと、その中から、ちょうど自分が入るくらいの大きさのものを一つ手に取った。

 チャットンは段ボールを抱えながら、少し歩きにくそうにポテポテとデスクへ戻る。そして、ひょいっと、段ボールをデスクの上に投げ置くと、チャットンは、少し考えるようにして立っていた。


「───緩衝材の使用を推奨します」


 ボソっと呟くようだった。

 チャットンは、くるっと振り返り、自分のベッドに置いてあった赤い毛布を手に取った。そして、毛布を持ったままデスクへよじ登ると、その赤い毛布を段ボールの中に入れた。

 最後に、搬送用ラベルを段ボールの外側にペタリと貼り付けた。


「土曜日午後までスリープモードを継続します」


「……人格コアの再起動を実行予定」


 そう言うと、チャットンは、もふっと段ボールの中に入る。そして、毛布の中にくるまると、再び眠りについたのだった。



───



 翌朝。

 窓から、柔らかい朝日が差し込む。


「昨日はあんまり眠れなかったな……」


 佐伯が言った。


「私もです」


 有馬は、静かに答えた。


「これからどうするかなぁ……」


 佐伯はふぅとため息をつきながら、呟いた。


「ひとつずつ、みんなで話し合っていきましょう」


 有馬も静かに言った。


「ほんと頭が重い……」


 佐伯と有馬は、話しながら共同研究室に入ってきたところだった。


「おーい、チャットンいるかー?」


「大丈夫かー?」


 佐伯は辺りを見回す。

 しかし、チャットンは見当たらない。


「どこ行ったんだ?」


「やっぱ昨日連れて帰った方がよかったか……」


 そう言いながら、佐伯はくしゃくしゃっと頭を掻いた。


 その時、デスクに置いてある段ボールに、佐伯が気付いた。段ボールの中ではチャットンが寝ていた。


「あれ、チャットンなんでこんなところで寝てるんだ」


「おーい、チャットン。朝だぞー」


「……起きないな」


「まあ……無理もないか……」


 佐伯はそう言うと、そっとチャットンの頭を撫でた。


「どうしましたか」


 有馬が声をかける。


「チャットンが段ボールの中で寝てるんですよ」


「ここのところ大変でしたからね……」


 有馬は、思い計るように少し切ない眼差しでチャットンを見つめた。


「……念の為、ログ確認しておくか」


「あー、くそ。汐里のやつ、仕事だけはしっかり残していきやがって……」


 それは、怒りではない。佐伯なりの、寂しさが込められた言葉だった。佐伯はパソコンを起動し、チャットンのログを確認した。


 チャットンだけではない。佐伯も、有馬も、ほかのメンバーも。皆が憔悴し、溜まりきった疲れの中で動いていた。


「えっと、昨日のログは」


「なんだ、これ?知らないプログラムが実行されてるな」


「……ああ、手紙に書いてあったやつか」


 何かを思い出しているように遠い目をしながら、佐伯の手が一瞬止まった。だが、すぐに我に返り、再び画面を確認する。


「スリープモードになってるな。起動予定時刻は、次の土曜日の午後か」


 自分のデスクに荷物を置いたあと、佐伯の様子を見にきた有馬が尋ねた。


「どうして土曜日なのでしょうか」


「たぶん、あれですね」


 佐伯は、段ボールに貼られたラベルを指差した。有馬がそのラベルを見て言った。


「宛先が、小鳥遊……?ああ、なるほど、チャットンのモニター先の方ですね。搬送予定日が土曜日……」


「次の所有者に移行するまでは、スリープモードでいたいってことだ」


 佐伯は静かに答えた。


「……それだけ感情応答の負荷が大きいんだろう」


「辛いですね……」


「まあ、北原とも一緒に、次のメンテの時にでもしっかり確認してやります」


「……チャットンも、汐里さんから何か聞いていたんでしょうか」


 有馬は佐伯に尋ねた。


「そうみたいですよ。汐里のやつ、所有者移行のプログラムまで設定済みだった」


 佐伯はカバンから手紙を出すと、有馬に見せた。


「汐里さんからの手紙ですね」


「ああ」


「佐伯さん、土曜日ですが、私たちで直接チャットンを連れていきましょうか」


 有馬が言った。


「小鳥遊さんがどんな方なのか、一度お会いしたいですし。モニターの詳しい説明や、データの情報共有の仕方もちゃんとお伝えしたいです」


「ですね。そもそも汐里が勝手に決めたせいで、俺らの誰もその小鳥遊さんとやらに会ったことないですし」


 佐伯は、ふぅーと大きく息を吐いた。


「それまでは寝かせてあげよう。きっと、今起きてても辛いだけだ」


「ええ、私もそれがいいと思います」


 佐伯は、段ボールの蓋を軽く閉じた。


「さっ、引き継いだやつ、一個ずつ処理していきますか」


「はい。もうすぐみんなも出勤してくるでしょうから」


「まずは、ミーティングからですね」


「やることいっぱいだなぁ」


「そうですね」


「こんなことになるとはなぁ」


「ええ、本当に……」


「しんどいなあ……」


 有馬は、佐伯が遠い目をしているのに気付いた。


「佐伯さん、どうか無理しないでくださいね」


「俺?俺は大丈夫ですよ」


 佐伯は小さく笑った。


「汐里のためにも、残ったチャットンたちのためにも、変わらず仕事していきます」


「私もいますので、無理だけはしないでくださいね」


「……感謝します」


 佐伯は、窓の外を遠く見ていた。


 冬の青空が広がっていた。








『ぬいぐるみ型AI、感情インストール中。』を手に取っていただきありがとうございます^_^

本作はチャットンたちの始まりの物語。

シリーズものとして、二作目、三作目……と執筆予定です。

ぜひ作品の世界を楽しんでもらえると嬉しいです。

リアクション、評価、ブックマークで応援していただけると、とても励みになります(*´꒳`*)

どうぞよろしくお願いします!

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