第3話 鴨とサイと彼女の理論
聡が柚を連れて店を出ると、朝、聡が自宅を出た時よりは幾分気温も上がっていた。
それでも、隣を歩く柚は初期支給品らしい薄いコートではやや心許ないのか、ふるりと身を震わせて自身の腕を撫でている。
不動産屋だけでなく、身の回りのものを揃えられる店にも連れて行ってやったほうがいいかもしれない。
聡がこの後の段取りを考えていると、「あの」と柚が口を開いた。
「お店のお会計って……」
「プランのパック料金に含まれている」
「はあ、なるほど……」
わかったような、わからないような顔で、それでも飲み込むように頷く。
本当に少しも説明を受けていないらしい。
「何も知らずによく三百万も払ったな」
「まあ……そうですね。なんか、いろいろ混乱してしまって」
聡自身が初めてこちらの世界に来た時のことを思い返す。
自分が死んだなどとサポートセンターの人間──柚と同じ、担当は三途だった──に言われて、なんてくだらない冗談を言うのかと鼻で笑った。
実業家として顔が売れ出したせいで、くだらないどっきり動画にでも巻き込まれたか、夢を見ているのだと思った。
あれから三年経つ。
今でも、なんで自分がホストなどをしているのかよくわからなくなる日もあるにはあるが、聡は徳が高くないため、行動できる範囲と選べる職には、まだ限りがある。その中で、今更人に頭を下げて愛想笑いを浮かべる仕事に就くよりは、多少偉そうにしていても、そういう男を好む客を相手にすればいいぶんホストはマシな部類だった。
「でも、三途さんが、私ならこのくらいすぐ取り返せるから大丈夫ですよって言ってくれたので」
「……三百万を? すぐに?」
聡は柚を見下ろして、まじまじと見つめる。
美人というよりも愛嬌がある顔立ちだ。特別に目を惹くほどでもない。
ただ、受け答えはきちんとしており、例えば彼女がバイトをしたいと面接にきたら、真面目に仕事をしてくれそうだと判断して採用するだろう。
だからといって、高い能力があるようにも見えない。むしろ、契約書を読まずに印鑑を押してしまいそうなタイプに見えて、心配にもなる。
「株や投資ですら元本は保証されてない。ましてやホストを買うなんて、食い物を買うも同然だ。戻ってこないぞ」
今更契約は解除されない。それでも、三途の言葉を鵜呑みにして、その金額を簡単に取りもどせると考えているならば、早々に改めた方がいい。
そう考えて言ってやると、柚はきょとんとした目をこちらに向けた。
「食べ物は、食べておいしいって幸せが味わえるから、問題ないです。それより、あの、内海さん」
そういうことじゃない、と言ってやりたい気もしたが、本人が納得しているのならまあいいかと、息を吐き「聡」と訂正する。
「はい?」
「恋人なんだから下の名前で呼べ」
「はあ、じゃあ、さ、聡さん」
下の名前を呼ぶだけで恥ずかしそうに目を伏せた柚は、言いにくそうに言葉を続けた。
「あの……偏見だったら本当に申し訳ないんですけど、ホストってもっとこうお客さんを姫って呼んだり、ちやほやしたりする感じじゃないんですか?」
「……そういうほうが好みなら。姫の仰せのままに」
「あ、いえ、いいんです、そうしてほしいってことじゃなくて、そういうものだと思ってたからギャップがあったんです。お店も、もっとこう、いかにもな雰囲気を想像してたので」
「薄暗い店内で、シャンパンタワーで盛り上がり、女がホストに傅かれて、といったところか?」
現世でのホストクラブの様相を挙げ連ねれば、「ですです!」とすかさず柚が頷いた。
たしかに、そのイメージで店を訪れれば、老舗の喫茶店かホテルのラウンジにしか見えないあの店内では、ギャップが大きかったに違いない。
「あるぞ? 二階はそういうコンセプトになってる」
「あれ? じゃあ私やっぱりお店間違えましたか?」
「間違ってはいない。両方用意されていて、好みの店で遊べるというだけだ。そっちがよかったか?」
「いえ、それは全然。……あの、一個教えて欲しいんですけど。この世界って、貨幣価値どうなってますか?」
「価値?」
「さっき三百万が大金みたいなリアクションでしたけど、家賃相場とかどうなってますか? 例えば月の家賃が百万とか」
「は?」
タワーマンションや高級住宅街に住みたいという話だろうか。
ヒガントンホテルを最初の仮住まいにできるということは、それなりの預徳残高だったはずだ。
「え、すみません。もしかして、一千万が普通とかですか?」
あれ、それだと三百万が安すぎるってなっちゃう? などとぶつぶつと呟く柚を見下ろす。
「賃貸ではなく購入したいという話か?」
「え? あ、いえ、えーとですね……一億って、この世界ではどのくらいの価値ですか?」
柚の言葉に聡は足を止めた。
一億。今、そう言ったか?
「徳残高が一億七千万とか言われて……むぐっ」
思わず咄嗟に彼女の口を掌で押さえる。
徳残高が一億七千万。
聡がこの世界に住んで三年。そう耳にしない額だ。
羽振りのいい客は店にも来るが、この世界で最初に手にしている額で一億七千万はかなり高い。
それを、この女が?
現世の頃ならば、聡も資産の総額はそのくらいあった。年商ならばもっと大きな額を動かしていた。
けれど、この世界で最初に提示された預徳残高は微々たるものだった。
思わず机を叩いて抗議をしたが、訂正されるどころか却って徳が減って理不尽な思いを味わった。
それなのに、こいつが?
聡はそっと周囲の耳目を確認してから、「声を抑えろ」と言ってから掌をはずしてやる。
「なにか、まずかったですか?」
「高額な預徳があると知られていいことなんかなにもない」
そうでなくても、この世界は居住エリアだけである程度の徳残高が可視化される。
大きく分けて、高徳エリア、中徳エリア、低徳エリア。
鴨として目を付けられるのが嫌で、敢えて中徳エリアに住む高徳者もいるくらいだ。
「でも、徳はお金と違って盗めないから安心ですって聞きましたよ?」
雑な説明をした方にも、それを鵜呑みにしている柚にも、聡は内心舌を打つ。
確かに徳は盗めない。
けれど。
「盗まなくても使わせることはできる。……お前が死んだのは西暦何年だ?」
「2025年です」
現世の時間とこちらの時間の流れは、時々齟齬がある。聡はこちらに来てから三年経つが、柚は同じ2025年に死んだらしい。
「なら物価は、それより低いくらいだと思えばいい。三千万出せば、大きな庭付きの屋敷が買える。この世界には固定資産税だのはないから、いいんじゃないか」
今の聡には買えないものを、柚はよりどりみどりで買うことができる。
なんとなく面白くない心地でそういうと、柚は「それはいらないです」と即答した。
「屋敷なんて、掃除が大変じゃないですか。草むしりも面倒そうだし」
「そんなもの、人を雇えばいい」
実際生前の聡はハウスキーパーを雇い、家事の一切を外注していた。
今では到底手の届かない生活だ。
「そこまでして住みたくないですよ。他人が入ってくるのって落ち着かないですし、呼べる友達もいないですし。広い家に何かを置きたいわけでも……あ……」
言葉を切った柚は、何かを思い出したように小さく笑った。
「なんだ?」
「いえ、子どもの頃は、家でサイを飼いたかったなって。そんな広い庭ないでしょって母に笑われましたけど」
「は? サイってあの動物園の?」
「野生にもいます」
大真面目な顔で言う柚に、聡はまともに答えた自分が馬鹿らしくなりながら「知ってる」と投げやりに答えた。
そんな聡の態度を気にも留めず、柚は楽しそうに続けた。
「サイって恐竜っぽくないですか? トリケラトプスみがあるっていうか。格好いいなって思って、保育園の頃にクリスマスプレゼントにサイが欲しいってサンタさんにお願いしたんですよ。そしたら、クリスマスの朝、枕元にサイのぬいぐるみが置かれていて号泣したことがあります」
懐かしむように言ってくすりと笑う柚に、「よかったな」と声を掛ける。
「え?」
「この世界でその予算があれば、サイでも象でも飼えるだろ」
いっそ動物園でも始めたらいいんじゃないかと適当に言うと、「聡さん」と真剣な声が返った。
「サイが一日どのくらい食べるか知ってますか?」
「知るか」
「私も知りませんけど、あの体じゃ絶対すごく食べます。庭に草を生やしたって足りませんよ。しかも二頭は必要です」
「二頭? 一頭いれば充分じゃないか?」
「……一頭じゃ、寂しいじゃないですか」
寂しいのはサイのはずなのに、そう言って一瞬目を伏せた柚の方がよほど寂しそうに見えた。
柚はこの世界に来て、まだ三日しか経っていない。
知り合いもいないとなれば、それは寂しいだろう。聡が慰めの言葉を口にしようとしたその時、柚は聡をまっすぐ見て口を開いた。
「だいたい、サイだって死後の世界を満喫してるかもしれないのに、飼うなんて可哀想ですよ。飼ってほしいってサイがいれば話は別ですけど」
うんうんと自分で納得するように頷く柚を前に、聡は笑いがこみ上げてくる。
サイを飼いたいなんて聞いたこともないし、食べる量も、一頭では寂しいだなんて考えたこともない。
それなのに、彼女は真剣にそう考えているのだ。
「別なのか」
「飼ってほしいなら、そこは需要と供給の一致です」
「ふはっ、需要と供給ときたか」
ついに聡は声をあげて笑った。
馬鹿ではないのだろう。彼女なりの理屈で物を言っている。ただ、その内容が、少し変わっているだけだ。
「なら、サイが飼える家にしておくのがいいな」
「それは、そんなサイと出逢ってから考えます。私は、1DK風呂トイレ別くらいの家で充分です」
掃除面倒ですし、と笑う柚に、聡もそれは同感だ、と口の端を引き上げた。
不動産屋の前に差し掛かり、聡は「念のため言っておくが」と柚に向き直った。
「預徳残高は言うなよ?」
「はい。言いません」
「それから、相手の言い値で頷くな。スーパーの野菜じゃないんだ。いくら金があっても、交渉はしろ」
「なるほど。勉強になります」
大真面目に頷く姿に、恋人以前に誰かがついていなければ、この女はあっという間によってたかって手持ちの徳をむしり取られるのではないかと心配になる。
同時に、専属契約など退屈でしかないのではと考えていた聡は、これからの一ヶ月、その心配はなさそうだと喉の奥で小さく笑って不動産屋に足を踏み入れた。




