12.その子と二人で行くん? ほんまに?
梅雨入りしたばかりらしく、空は明るいのに湿気がまとわりついてくる。教室の窓は半分ほど開いていて、ぬるい風がカーテンをゆらゆら揺らしていた。
そんな朝。
俺――桐谷湊が教室に入ると、斜め前の席からすぐに視線が飛んできた。
「おはよ、湊くん」
白銀ルナ。いつものように頬杖をつきながら、でも今日は少しだけ機嫌がよさそうな顔でこっちを見ている。
「おはよう」
「今日、ちょっと遅かったな」
「靴箱のとこで先生に捕まった」
「怒られた?」
「プリント運ぶの手伝わされた」
「それは災難やなあ」
そう言いながら、白銀さんは少しだけ目を細める。
「でも、ちゃんと来てくれてよかったわ」
「学校だからね」
「そこはもうちょい気の利いた返しないん?」
「例えば」
「『白銀さんがおるから』とか」
「朝から難易度高いな」
「そこをさらっと言うんが大事やろ」
言ったあと、自分で少しだけ照れたみたいに目を逸らす。
相変わらず、攻めてきた側が先に赤くなる。
俺が席に着こうとした、そのときだった。
教室の前のドアが開く。
「すみません」
静かな声だった。
クラスの何人かがそっちを見る。俺もなんとなく目を向けて、少しだけ止まった。
女子だ。
細いフレームのメガネ。肩より少し下で揺れる黒髪。落ち着いた雰囲気で、派手さはないのに妙に目を引く。制服は同じ高校のものだから、一年か二年のどこかのクラスなんだろうけど、少なくとも見覚えはなかった。
その女子は教室の中を見渡してから、まっすぐ俺を見た。
「桐谷湊くん、いる?」
そこで完全に教室の空気が変わった。
なんで俺。
そんな視線が周りから一斉に集まるのが分かる。
「……俺だけど」
席から立つと、その女子は少しだけ安心したように笑った。
「やっぱり」
「少しだけ話せる?」
断る理由もない。俺は教室の前まで歩いていく。
そこで、女子は少しだけメガネを押し上げてから俺を見た。
「急にごめん」
「いや、それは別に」
「単刀直入に聞くね」
「うん」
「今度の土曜、空いてる?」
「土曜?」
「うん」
一拍おいて、女子ははっきり言った。
「二人で出かけない?」
朝の教室の前で言う台詞じゃない。
ざわ、っと後ろの空気が揺れたのが分かった。
俺も少しだけ黙る。
「……なんで」
「話したいことがあるから」
「それと」
女子は少しだけ目を細めた。
「久しぶりだし」
その一言だけ、妙に引っかかった。
「……久しぶり?」
「うん」
「私のこと、分からない?」
言われて、改めて顔を見る。
メガネの奥の目。黒髪。落ち着いた声。どこか懐かしいような気もする。
でも、決定的には分からない。
「……ごめん」
正直にそう言うと、その女子は少しだけ困ったように笑った。
「そっか」
「まあ、そうだよね」
その言い方が、何かを諦めているみたいで少し気になった。
「じゃあ、土曜に思い出してもらおうかな」
「え」
「駅前で十一時。大丈夫?」
流れが自然すぎて、断るタイミングが見つからない。
「……予定はないけど」
「じゃあ決まり」
そう言って、女子は自分のスマホを取り出した。
「連絡先、交換していい?」
「うん」
交換を終えると、彼女は少しだけ柔らかく笑う。
「ありがとう」
「倉持美羅李」
「名前だけでも覚えておいて」
その名前にもやっぱり聞き覚えがなかった。
でも、どこかだけ引っかかる。
「じゃあまた土曜」
倉持美羅李はそう言って去っていった。
その背中が見えなくなるまで見送ってから教室に戻る。
戻った瞬間、教室の空気が妙に静かだった。
いや、静かというより、待っていたというほうが近い。
特に。
「……」
白銀さんの視線が真っすぐすぎた。
「何」
「何、やない」
静かな声だった。
「今の誰なん?」
第一声がそれだった。
◇
席に座ると同時に、前の席から土井海斗まで振り返ってきた。
なんでこのタイミングだけ勘がいいんだこいつは。
「湊」
「何」
「朝から強いイベント起きてるじゃん」
「イベントって言うな」
「だって、どう見てもそうだろ」
海斗は楽しそうに笑う。
「で? 誰?」
「分からない」
「は?」
海斗が素で間の抜けた声を出した。
「いやいや、向こうめっちゃ知ってる感じだったじゃん」
「“久しぶり”って言うてたやん」
白銀さんもすぐに続ける。
「なのに湊くん分からへんの?」
「分からない」
「ほんまに?」
「ほんとに」
「それはそれでひどない?」
白銀さんは呆れた顔をする。
「十年ぶりとか、そんなんちゃう?」
海斗が適当に言う。
その言葉に、なぜか白銀さんが一瞬だけ止まった。
「……十年ぶり」
「知らないけど」
俺が言うと、白銀さんは小さく息をついた。
「でも、向こうは絶対覚えてる感じやった」
「そうだね」
「で、土曜に行くん?」
「約束したし」
「……」
「……」
「何?」
白銀さんは少しだけ視線を逸らした。
「いや」
「普通に気になるやん」
その言い方が妙にまっすぐで、俺は少しだけ黙る。
「どこが」
「全部や」
白銀さんは小さく机を指で叩いた。
「急に知らん美人来て」
「“久しぶり”言われて」
「二人で出かける約束して」
「しかも湊くんは覚えてへん」
「……恋愛もののドラマみたいやん」
「他人事だね」
「今はまだ他人事やし」
言い切ったあと、ほんの少しだけ赤くなる。
そこへ海斗がにやっとする。
「白銀さん、だいぶ気になってるじゃん」
「気になってへん!」
即答だった。
でも速すぎる。
「気になってない人は朝からそんな顔しませんって」
「どんな顔?」
「今の顔」
「意味分からん!」
白銀さんがむっとした顔で返すと、余計に分かりやすかった。
◇
一時間目の授業が始まっても、白銀さんは明らかに落ち着いていなかった。
前を向いているのに、たまにこっちを見る。
何かを考えている顔をしている。
そして現代文の途中、袖を小さく引かれた。
「なあ」
「何」
「ほんまに思い出せへんの?」
「思い出せない」
「幼なじみとかちゃうん?」
「それならもっと覚えてると思うけど」
「男の人って昔のこと変に忘れてたりするやん」
「一括りにしないで」
「でもありそうやで?」
少し間が空く。
「……なあ」
「何」
「その子、可愛かったな」
急にそこへ行くのか。
「まあ」
「へえ」
白銀さんの返事がちょっと低い。
「何」
「別に」
「でもメガネ似合ってた」
「細かいところ見てるんだね」
「見えるもんは見えるやろ」
白銀さんはむっとしたまま前を向く。
でも数秒後、また振り返る。
「……なあ湊くん」
「何」
「うちがメガネかけたらどうなん」
「なんでその発想になるの」
「比較」
「何の」
「その子と」
思ったよりはっきり言う。
俺は少しだけ考えた。
「白銀さんは、そのままのほうがいいと思う」
「……っ」
一瞬で赤くなる。
「そういう返しずるい!」
「思ったことだけど」
「その“思ったこと”が毎回強いねん!」
小声で抗議してから、白銀さんは教科書で口元を隠した。
でも耳まで赤い。
◇
昼休みになると、白銀さんはいつも通り弁当箱を持って後ろまで来た。
「ここで食べる」
「どうぞ」
「最近それしか言わへんな」
「他に何て言えば」
「“待ってた”とか」
「言わないよ」
「やろうな」
そう言いながら、白銀さんは少しだけ笑う。
でも、そのあとすぐ真面目な顔になった。
「なあ」
「何」
「土曜、行くんやろ?」
「たぶん」
「たぶん好きやな」
「まだ相手のこと分からないし」
「それで二人で行くん?」
「約束したし」
「……そっか」
そこだけ静かだった。
卵焼きを箸でつつきながら、白銀さんは少しだけ目を伏せる。
「気になる?」
そう聞くと、白銀さんは一拍遅れて顔を上げた。
「……」
「……」
「ちょっとだけ」
かなり小さい声だった。
「なんで?」
「なんでって」
白銀さんは少しだけ視線を泳がせた。
「急に知らん女の子出てきて」
「湊くんのこと昔から知ってるっぽくて」
「しかも二人で出かける約束してたら」
「……そら、ちょっとは気になるやん」
言い終わったあと、自分で少し恥ずかしくなったのか、白銀さんはふいっと横を向いた。
「でも別に、変な意味ちゃうからな?」
「どういう意味」
「……説明できへん」
そこへ海斗がまた振り返ってくる。
「白銀さん、それ完全にドキドキするやつですよ」
「海斗くんうるさい」
「はい」
「でもたしかに今のはうるさい」
「湊、お前もなかなかイベント持ってくるよな」
「持ってきてないよ」
「向こうから来てたから余計に強いんだって」
それは少しだけ納得したくなかった。
◇
放課後。
帰り支度をしながら、俺は朝交換した連絡先を見ていた。
登録名はもう「倉持美羅李」になっている。
メッセージも一通だけ来ていた。
『土曜、十一時に駅前で。逃げないでね』
その文面が妙に意味深で、少しだけ考え込む。
「……なあ」
声がして顔を上げる。
白銀さんだった。
「何」
「今、その子のこと考えてた?」
「少し」
「……へえ」
その“へえ”は、明らかに何か含んでいた。
「白銀さん」
「何」
「顔に出てる」
「出てへん」
「出てる」
「出てへん!」
でも、頬は少し赤かった。
「一緒に帰る?」
俺が聞くと、白銀さんは少しだけ目を見開いた。
「……うん」
即答だった。
校門を出て、六月の少し湿った夕方の中を並んで歩く。
最初は少し沈黙があった。
でも、それに耐えられなくなったのは白銀さんのほうだった。
「なあ湊くん」
「何」
「土曜、その子に会ったら」
「うん」
「ちゃんと思い出すん?」
「たぶん」
「また“たぶん”や」
「今のところはわからない」
「でも向こう、絶対意味ありげやったやん」
「そうだね」
「……もしほんまに幼なじみとかやったら」
「うん」
「それ、ちょっと強いな」
「何に対して」
「……知らん」
でもその言い方は、どこか拗ねているみたいだった。
しばらく歩いてから、白銀さんは少しだけ声を落とした。
「……ちゃんと戻ってきてな」
「どこに」
「……知らん」
またそれだ。
でも、今度はそのあとすぐに言い直さなかった。
「白銀さん」
「何」
「今の、ちょっとドキドキする台詞だった」
「っ……!」
白銀さんが足を止める。
「何言うてんの!?」
「思ったこと」
「その思ったことを今言うなや!」
顔を真っ赤にして抗議してくる。
でも、その反応があまりにも分かりやすくて、少しだけ笑いそうになる。
「また明日な」
白銀さんが言う。
「ああ、また明日」
「……土曜の話、月曜にちゃんとするんやで」
「覚えてたらね」
「覚えとけ!」
最後にまた赤くなって、白銀さんは少し早足で去っていった。
六月の風が、その銀色の髪を揺らす。
土曜の約束が何なのかは、まだ分からない。
でも、それを気にしている白銀さんのほうが、今は少しだけ気になっていた。




