第5話『審判の旋律』 ~Section 16:腐食した万年筆と、届かなかったエアメール~
皐月龍也が捨て台詞を残して去った後、図書室には再び、緩やかな放課後の時間が戻っていた。
窓の外は深い茜色に染まり、新市街のビル群が校庭に長い影を落としている。遠くから運動部の掛け声が聞こえる、ありふれた高校の夕暮れだ。
僕は、散らばった企画書の破片を箒で掃き集めながら、ぼやきを漏らした。
「あの人、勘違いも甚だしいですよ。『新市街のトップを敵に回して』とか……。ここ、ただの高校の図書室ですよ?探偵事務所でも何でもないのに」
「世間一般から見れば、死体を掘り起こし、大人の事情に土足で踏み込む高校生など、探偵以上の『異物』じゃろうがな。看板などなくとも、変なモノの方から勝手に転がり込んでくるのが、わしの因果というやつじゃ」
瑠璃は、カウンターの特等席で、アンティークの真鍮製ルーペを片手に、泥の中から回収した『九条一馬の万年筆』を解体していた。
七年間、コンクリートと泥水に浸かっていたそのペンは、金メッキが剥がれ、見る影もなく腐食している。
「しかし、不思議じゃな。九条ほどの用心深い男が、なぜこれほど重要な『証拠品』を、胸ポケットなどという無防備な場所に挿していたのか」
「え?それは……社長賞の記念品だから、大事にしてたんじゃないですか?」
「大事にするなら金庫にしまうじゃろう。肌身離さず持っていたということは、彼にとってこれは『権威の象徴』であると同時に、いつでも取り出して眺めたい『精神安定剤』のようなものだったのかもしれぬな」
瑠璃は、腐食して固着したペンの軸を、ピンセットを使って慎重に回した。
ギギギ……と、錆びついた金属が悲鳴を上げる。
普通なら、中にはインクカートリッジが入っているはずだ。だが、外れた軸の中から転がり出てきたのは、乾燥して粉になったインクの残骸と――小さな、食品用ラップで何重にも巻かれた『マイクロSDカード』だった。
「……なんだこれ。SDカード?」
「ふむ。この巻かれたラップの端……焦げておるな。ライターか何かで炙って密閉したのじゃろう。実に雑で、家庭的な防水加工じゃ」
瑠璃は、ピンセットでラップを剥がし、中から爪の先ほどの大きさしかない黒いチップを取り出すと、それを無造作に僕の方へ放り投げた。
「サクタロウ、中身を見よ」
「うわっ、投げないでくださいよ!貴重な証拠品なんでしょ!?」
僕は慌ててチップをキャッチすると、リュックから愛用のノートパソコンを取り出し、カードリーダーにセットした。
瑠璃はアナログ人間だ。彼女の五感はモノの『来歴』を見抜くが、デジタルデータの中身を見るのは僕の役目だ。
「……どうですか?読み込めますか?」
アリアが、背後から心配そうに覗き込む。
画面にドライブのアイコンが表示された。七年間の水没に耐え、データは生きているようだ。
「読み込めました。……パスワードがかかってますけど、ヒントが出てます。『My Partner』……私の相棒?」
「……ふむ。九条にとっての相棒か。……『YUNA』と打ってみよ」
僕は言われた通りに入力し、エンターキーを叩いた。
フォルダが開く。
そこに入っていたのは、企業の不正を記した裏帳簿でも、巨大な陰謀の計画書でもなかった。
入っていたのは、たった一つの音声ファイル『.mp3』だけ。ファイルの日付は、七年前の事件の前日になっている。
「……音声ファイル?『Rehearsal_Final』って書いてあります」
「再生せよ」
僕はクリックした。
図書室の静寂に、ノイズ混じりの音が流れる。
聞こえてきたのは、ピアノの音色と、二人の話し声だった。
『……九条さん。またテンポが走ってるわよ。そこはもっと優しく、泥を撫でるみたいに弾かないと』
その声を聞いた瞬間、瑠璃の手が止まった。
それは紛れもない優奈の声だった。だが、ただの無邪気な子供ではない。落ち着き払った、理知的で、どこか達観したような響き。9歳にして既に完成された、『もう一人の瑠璃』と呼ぶにふさわしい声音だ。
『……うるさいな、優奈君。私はこれでも忙しいんだ。君の完璧な耳に付き合っている暇はないんだぞ』
そして、九条の声。
だが、その声色は、僕たちが知る冷酷な支配者のものではなかった。
自分よりも遥かに才能のある『小さな相棒』に対して、畏敬と劣等感を抱きながらも、心を許している……そんな複雑な響きだった。
『でも、九条さん、このホールの施工に失敗したこと、悔やんでるんでしょ?ピアノの音が響かないのは、地盤が緩いせいだもの』
『……君には、何でもお見通しだな』
『構造欠陥は直せない。でも、私の声なら、その欠点を「演出」に変えられるわ。……このホールは音が反響しないんじゃなくて、音が吸い込まれるの。なら、その静寂を利用すればいい』
優奈は、9歳にしてホールの音響特性を完全に解析し、それをカバーする歌唱法を提案していたのだ。
『私が完璧に歌ってあげる。そうすれば、お父様も、観客も、誰もホールの欠陥には気づかない。九条さんのミスは、私が帳消しにしてあげるわ』
『……優奈君。なぜ、そこまでしてくれる?』
『さあね。強いて言うなら、九条さんの書く曲、嫌いじゃないからかな。だから、堂々と弾いてよ、相棒』
ピアノの音が再開する。
それは、九条の迷いのある伴奏を、優奈の圧倒的で、あまりにも完成された歌声がリードしていく演奏だった。
再生が終わる。
図書室には、重苦しい沈黙が流れた。
「……これが、中身のすべてですか?」
「……ああ。企業の不正データも、脅迫材料もない。ただの、天才少女と、それに救われた凡才の記録じゃ」
瑠璃は、深いため息をついた。
彼女は、空になった万年筆の軸を手に取り、窓からの夕陽に透かして見た。
「……サクタロウ。この万年筆は、九条にとって『会社への保険』などではなかったようじゃな」
「……え?保険じゃなかったら、なんのために隠し持ってたんですか?」
「彼は、これを『墓標』にしていたのじゃよ。自分の致命的なミスを見抜き、それを才能でカバーしようとしてくれた唯一の理解者を、自らの保身のために殺してしまった。その罪悪感と、音楽家としての未練を、この万年筆の中に閉じ込めておったのじゃ」
九条は、このSDカードを隠し持っていたのではない。捨てられなかったのだ。
優奈を殺した後も、彼女との『共犯関係』のような友情の証を、どうしても手放せなかった。だから、肌身離さず胸ポケットに入れていた。
そして優奈は、死の間際にそれを奪い、コンクリートに突き立てた。
『忘れるな』と。お前が殺したのは、ただの子供ではなく、お前の才能を誰よりも理解していた『共犯者』だったのだと。
「なんとも皮肉で、情けない男の物語じゃ」
瑠璃は、万年筆をコレクション棚に戻した。
だが、彼女はまだ座ろうとしない。
その手には、もう一つの『証拠品』――あの一通の手紙が握られていた。
「……さて。九条の謎は解けた。だが、まだ『最大の謎』が残っておるな」
瑠璃は、その手紙をアリアの前に突きつけた。
七年前に死んだはずの皐月優奈の筆跡で、『タスケテ』とだけ書かれた手紙。
事件が始まる前日に、僕たちの元に届いた『招待状』だ。
「アリア。この手紙を書いたのは、お主じゃな?」
アリアは、ビクリと肩を震わせ、そして観念したように小さく頷いた。
「……はい。……私です」
「……やっぱりか。でも、どうして優奈さんの筆跡なんだ?鑑定でも『本人と99.9%一致』って…」
僕の疑問に、アリアは悲しげに自身の右手をさすった。その指には、ペンダコが何度も潰れたような痕がある。
「……練習させられたんです。毎日、毎日……。来る日も来る日も、優奈ちゃんの日記や楽譜を書き写させられて……。九条さんは、声だけじゃ満足しなかった。文字の癖、筆圧、呼吸の間合いまで、優奈ちゃんを完全に再現できるまで、寝ることも許されませんでした」
九条の執念は、声だけでなく、文字というアイデンティティさえもアリアに植え付けていたのだ。
「……私は、怖かった。自分が自分でなくなっていくのが……。だから、逃げ出したかった。でも、宛先なんて知らない。誰に助けを求めればいいのかも分からなくて……」
「そこで、優奈の日記を見たのじゃな?」
瑠璃の指摘に、アリアはハッとして顔を上げた。
「優奈の日記には、こう書いてあったはずじゃ。『この世界で私と対等に話せるのは、如月瑠璃だけだ』とな」
「……はい。日記の最後のページに、あなたの名前と、この図書室の住所が書いてありました。……『いつか、瑠璃にこの曲を聴かせたい』って」
アリアは涙ぐんだ。
「……だから私、賭けたんです。優奈ちゃんが唯一認めた人なら、きっとこの『偽物の私』の声にも気づいてくれるんじゃないかって。監視の隙を見て、ポストに投函しました。私自身の言葉で、『タスケテ』って」
瑠璃は、ふんと鼻を鳴らし、手紙を丁寧に折りたたんで懐にしまった。
「賭けはお主の勝ちじゃな。お主のSOSは、優奈の筆跡を借りて、確かにわしに届いた。そしてわしは、その『違和感』に釣られて、ここへ来たというわけじゃ」
すべてのピースが嵌まった。
亡霊からの手紙などではなかった。
それは、優奈という天才の影に押しつぶされそうになっていた少女が、必死の思いで放った、最初で最後の『自分自身の叫び』だったのだ。
あの時、僕たちを混乱させた『前日の消印』は、アリアが生きてそこにいたからこそ押された、現在進行形のSOSだったのだ。
「謎はすべて解けた。ありえない手紙のルーツは、『作られた筆跡に込められた、本物の叫び』じゃ」
瑠璃は立ち上がり、スカートの埃を払った。
「これにて、真に一件落着じゃ。……サクタロウ、パソコンをしまえ。そしてアリア、茶菓子がないぞ。コンビニで買ってまいれ」
「は、はい! すぐに!」
アリアがパタパタと図書室を出ていく。その背中は、もう『優奈のコピー』ではない。自分の足で走る、一人の少女のものだ。
僕もパソコンを閉じ、リュックにしまった。
世界を救う戦いなんてなかった。
あったのは、泥の中に埋もれていた、ほんの少しの切ない才能の物語と、一通の勇気ある手紙だけ。
こうして、僕たちの長い長い一週間は終わった。
この手紙から始まった事件は、300年の借金というオチをつけて、ようやく『完』の文字を迎えたのだ。




