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第4話『忘却の残響』 ~Section 1:止まった秒針と、亡霊の筆跡~

 旧校舎の図書室。そこは僕にとって、理不尽な命令と難解な謎解き、そして管理社会の無味乾燥さを忘れさせる高級な茶葉の香りが混ざり合う、この街で最も『不純』で、かつ落ち着く場所のはずだった。

 だが、その日の図書室を支配していたのは、いつもの優雅な静寂ではなかった。肌を刺すような、張り詰めた『拒絶』の空気。そして、新市街のクリーンな空気清浄システムでは決して除去できない、古びた紙の死臭と、微かな『鉄の匂い』が室内に充満していた。


「……如月さん?」


 おずおずと扉を開けた僕の目に飛び込んできたのは、窓際で逆光を背負い、石像のように立ち尽くす瑠璃の背中だった。

 テーブルの上では、アンティークのティーカップから、淹れたてのはずのアールグレイの湯気が、(あるじ)に忘れ去られたように空虚に立ち上り、そのまま冷え切った大気に溶けていく。

 驚いたのは、その瑠璃の肩が、微かに、しかし目に見えるほど激しく震えていたことだ。

 無機質なほど完璧で、どんな不条理や怪事件を前にしても『不敵な笑み』と『毒舌』を崩さなかったあの如月瑠璃が、今、全細胞で隠しきれない動動(どうどう)――いや、怯えのようなものを晒している。


「……サクタロウ。……遅いぞ。お主のその鈍重で無粋な足音が、この部屋に七年間溜まった『過去の澱』を、無造作にかき回してしまったではないか。……わしの視界に、余計なノイズを混ぜるなと言っておるのじゃ」


 振り返った彼女の顔は、幽霊のように蒼白だった。

 彼女が机の上に、まるで呪物を放り出すような忌々しさで投げ出したのは、一通の黄ばんだ封筒。そして、それに乱暴な手つきで――あたかも誰かが力任せに引き千切ったかのような無作法さで――麻紐によって括り付けられていた、真鍮製の『オルゴールのハンドル』だった。


「……その手紙、どうしたんですか?そんなに古そうなもの、どこに隠してあったんですか。まさか、また九条からの嫌がらせ……?」


「……九条であれば、まだ救いがあった。……この書架の奥、わし以外に誰も触れぬはずの『如月家家系図・別巻』の背表紙の裏じゃ。……毒を仕込むような巧妙さ、あるいは、誰かに見つけられるのを七年間じっと待ち続けていたような執念で、そこに潜んでおった。……差出人の名は、ない。だが……」


 瑠璃は、手帳をめくる時よりも遥かに慎重に、震える指で手紙の最後の一行を指差した。

 そこには、子供が書いたような拙さと、しかし並外れた切実さを感じさせる、ペン先が紙を突き破らんばかりの強い筆致で、たった一言だけ、殴り書きにされていた。


 ――『タスケテ』。


「この筆跡を、わしが忘れるはずがない。……たとえこの世界が管理AIによって書き換えられ、すべての記録が抹消されたとしても。……この文字は、かつてわしの隣におった唯一の『友』……皐月優奈(さつき ゆな)のものじゃ」


 瑠璃の瞳に、深い、底の見えない暗い絶望の色が宿る。


 皐月優奈。

 その名を聞いた瞬間、僕の脳裏に古いニュースの断片が蘇った。

 かつてクラシック音楽界を席巻した老舗『Satsuki-classic』の令嬢。家系は代表・皐月淳之助(さつき あつのすけ)の汚職スキャンダルによって没落し、そして七年前の夏――瑠璃が九歳の頃、避暑に訪れていた『不知火湖(しらぬいこ)』のほとりで、彼女は変わり果てた姿で発見された。


「……事故死だったはずですよね?捜査の結果、泳いでいる最中に溺れた、悲しい不運だと。新市街のデータベースでも、彼女の記録はそこで途絶えている。……今さら、彼女から手紙が届くなんて、物理的にありえない」


「左様。管理AIは、一人の少女の死を『確率論的な不幸』として処理し、そのファイルを閉じた。……だが、見よ。この封筒の消印を。……日付は『昨日』。……そして、このオルゴールのハンドルじゃ。……お主、これが何を意味するか、その足りぬ脳髄で考えてみるが良い」


 瑠璃は、麻紐を解き、ハンドルを銀の皿の上に置いた。

 それは単なる部品ではなかった。ハンドルの真鍮製の軸の部分には、微かな、しかし決定的な『血痕』が、まるで刻印のように付着しており、さらに新市街のクリーンな工場では決して使われない、あの旧式の重厚なエンジンオイルの臭いが染み付いていた。


「……昨日、誰かがこれを投函した。……死んだはずの優奈が、今のこの瞬間に、助けを求めて声を上げたのか。……あるいは、わしの過去を解体しようとする何者かの悪意か。……どちらにせよ、このハンドルを回さねば、わしの時間は、あの九歳の夏、不知火湖のほとりから一秒も進まぬようじゃ」


 瑠璃は、震える自分の指を隠すように強く握り締め、窓の外を見据えた。

 そこには、新市街の光に照らされて、不自然なほど静まり返った月見坂市の景色が広がっている。だが、彼女の視線はもっと遠い、この街が造られる前の、泥臭くて美しい時間を追っているようだった。


「……如月さん。その、皐月優奈さんって……どんな子だったんですか?」


 僕の問いに、瑠璃はしばらく沈黙した。

 アールグレイの香りがすっかり消えた後、彼女は絞り出すように口を開いた。


「……わしという名の騒がしい『観測者』を、唯一、黙らせる(すべ)を知っておる娘じゃった。……わしがこの街の綻びを突いて得意げに持論を展開しておると、彼女はただ隣で『それは論理的ではないわね、瑠璃』と、品のある言葉で優しく切り捨ててくれるのじゃ。……盲従もせず、拒絶もせず、ただ対等な視座から、わしが見落とした死角に、そっと指を差してくれる……。わしにとって、世界を正しく観測するための、もう一つの『レンズ』だったのじゃよ」


 瑠璃の言葉に、僕は喉の奥が熱くなるのを感じた。

 彼女がなぜ、僕のような『凡庸の極み』である人間を側に置いているのか。

 それは、失われた『知的な半身』の代わりを求めているのではなく、むしろその埋めようのない喪失感という名の不純物を、僕という全く異質の『ノイズ』で紛らわそうとしていたのではないか。

 優奈が生きていれば、僕が今立っているこの場所は、きっと彼女のものだったはずだ。


「……それが、あの不知火湖の冷たい底に沈んだ時、わしの世界の一部もまた、永遠に凍結されたのじゃ。……わしがこの街の『不純物』を拾い集めるようになったのは、あの夏、彼女の死という最大の『不条理』に、何の納得も得られなかったからかもしれぬな」


 瑠璃の告白は、新市街の完璧なセキュリティのどこにも保存されていない、彼女だけの傷跡だった。


「……分かりました。やりましょう。如月さんの時間が止まったままなら、僕が力任せにでもゼンマイを巻いてみせますよ。……たとえそれが、九条の仕掛けた罠だとしても。……まずは、そのハンドルからですよね」


 僕は、彼女の手からオルゴールのハンドルを受け取った。

 真鍮の冷たさが、僕の掌に刺さる。


 S-Musicコーポレーション。没落した『Satsuki-classic』の跡地に建てられた、今の音楽業界の支配者。 そして、不知火湖という禁忌の場所。

 すべてを管理する如月コンツェルンの闇と、九条一馬の嘲笑が、この一通の手紙の裏側に透けて見える。


「……行こう。七年前の夏を、今、この街の真ん中で終わらせるために。……如月さん、あなたの目に映る『不純物』、僕が全部拾い上げますから。……それが、あなたの相棒の仕事でしょう?」


 僕は、蒼白な顔のままの瑠璃を促し、図書室を後にした。

 背後で、図書室の扉が重く閉まる。その音は、僕たちの日常が二度と元には戻らないことを告げる、終わりの合図のように響いた。


 新市街の完璧な管理システムの裏側で、七年間凍結されていた『音楽家一族の悲劇』が、今、一通の手紙をトリガーにして、激しく、残酷に溶け出し始めていた。

 その背後に、ニヤニヤと笑いながらこちらを見つめる九条一馬の、あの不快な視線を感じながら。



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