一 二つの日常
青い空、眩い太陽、涼やかな風。
薫る芝生、跳ねるゴム球、はためく白いワンピースの裾──。
「なーんで、こんなに平和なんやろ……」
山麓にひっそりと建つ白亜の洋館。西洋風の庭にはこの季節、花弁の縁を薄桃色に染めたシクラメンが咲き誇る。
独り言をつぶやきながら木陰でぼけっと座っているのは、シャツにサスペンダー付きの細いズボン、頭に鳥打帽、革靴という装いの若者。
本郷虎丸、十九歳。
大阪からやってきた出版社の新人編集者である。
「ちょっと、お紅! 手加減なさいよ! あたしは貴女みたいに脳髄まで筋肉でできた体育会系じゃなくってよ!?」
「はあぁ? すでにしてやってるっつーの。今の球落とすのかよ、とろくせーなー」
「まあまあ、ふたりとも。せっかくの庭球日和なんだから、仲良くしましょ?」
芝生に設営された、ローンテニス用のコートに娘が三人──正確には、娘がふたりと女姿の男子がひとり。
プロの女子選手のような純白のワンピースと釣鐘帽子をお揃いで着用している。おそらく女主人の趣味だろう。
キャッキャとラケットを振り、球を打ち合う姿はなんとも微笑ましいものである。
「まぁ、球速はぜんぜん微笑ましくないんやけど……。ウヰンブルドン選手権でも目指すんかな?」
おみつはともかく、赤髪姉弟の打つ球は遊戯の範疇を完全に超えている。
茜は中学校の庭球部に所属しているらしいが、紅の場合は薙刀の有段者だけあって鍛錬の賜物だろうか。なんにせよ、身体能力に秀でた姉弟である。
「おっ、アンナ。球拾ってこれるんや。えらいえらい。って、くれへんのかーい」
コートの端で、タヌキのアンナ・カレヱニナがゴムボールを咥えて歩いている。手を叩いて呼んでみたものの、肥ったタヌキは虎丸のほうを見向きもせずどこかへ去っていった。
ひゅるっと冷たい風が、虎丸の正面を流れていく。
手持ち無沙汰になってしまった手を引っ込めて木の幹にもたれかかると、おみつが悪態をつきながら木陰に入ってきた。
「んもう、お紅に付き合っていたら、庭球が戸外遊戯じゃなくて果たし合いになってしまってよ」
虎丸の隣に腰を下ろし、帽子を脱いで手鏡で髪を整え始める。
「ねえ。このリボン、ずっと仕舞っていたのだけど……デエトのときに初めてつけたの。もしかすると、あたしが自分で思っていたより似合うんじゃないかと思って。似合うわよね?」
と、少女が指をさしたのは、敵が襲撃してきた日に虎丸が山に落ちていたのを拾った青いリボンである。
よくよく見るとデパートメントで売っていそうな高価な生地の髪飾りだ。女学校に通っていただけあって、白玉とおみつの家は裕福だったらしい。
長い髪が短く見えるように後ろに流してリボンで飾った耳隠しスタイルは、女子のファッションに明るくない虎丸から見ても可愛らしかった。
「うん、黒髪にもぴったりでええと思うで」
「でしょう。女の子の色といえばやっぱり青ですもの。慎みと貞淑の象徴だわ。お紅は赤髪だから、鮮やかな青なんて全然合わないのよね」
「紅ちゃんには黒いリボンが似合うてるし、どっちの髪色も違う良さが……」
一応フォローを入れようとしたのだが、陰口を耳にしたらしい赤髪娘がいつのまにか虎丸たちの前に立ちはだかっていた。
まずい、また喧嘩が始まる。
そう思い、虎丸は心の準備をしたのだが──。
「おいこら。前から思ってたんだけどさぁ、おみつとかお紅とか、今時名前に『お』をつけて呼んでるヤツなんかいねーだろ。江戸生まれの年寄りか、オマエは」
「そ、そうなの……!?」
おみつは言い返すのも忘れるくらい、愕然としたらしい。
初めて会った日に得意顔で「おみつとお呼びになって」と指定されたことを思い出したが、少女があまりに驚いているので黙っていた。
数秒間おたおたしたあと、なぜか虎丸のほうをキッと見据えて尋ねてきた。
「大正の女学生の間では、どんな愛称が流行っているのかしら!?」
「えっ、オレに聞く!? せやなぁ、うちの会社で出版しとる少女雑誌の投稿欄で読んだ知識やけど……今は『子』って名前多いし、もともとついてなくても、遊びでつけて呼び合ったりするみたいやな」
少女はさらに驚きを隠せない顔をして、完全に固まっている。
江戸からくり人形師という伝統工芸を継ぐ家に生まれたせいで古風なのか、はたまた単純に流行に疎かったのか、虎丸には知る由もない。
「なんてことかしら……。今日からあたしのことは『みつ子』とお呼びになって?」
「おみつ、無理すんな。時代遅れ。江戸女」
「キィ!!」
そしてまた、紅と猫のような喧嘩が始まった。
「平和や……。なんでや……」
ほんの数日前に地下室で聞いた話が、まるで嘘みたいだ。
空は青すぎるし、太陽は明るすぎる。
相当重い話を聞いた気がするのだが、こんなに何事もなく、平和な日常に戻っていいのだろうか。
「っていうてもなぁ、なんとなーく不安が募るだけで。さりとて騒ぐ理由もないし、オレがセンチメンタルなだけかな……」
あくる朝、おみつは人間の姿に戻ってごく普通にメイド仕事をしていた。不穏な発言をしていた気がする十里も、あれほど危うく見えた白玉も普段どおり。
さてどうしたものかと思いながらも、娘たちの戸外遊戯を見守っていた虎丸である。
流れる雲を見つめてぼけっとしていると、芝生を踏む心地よい蹄の音が響いた。
裏庭のほうから二頭の馬を引き連れやってきたのは、タカオ邸の女主人・九社花阿比だ。
西洋の女優のようにばっちりと決まった乗馬服と断髪。
お揃いの真っ白なユニフォームを着た娘たちを眺め、満足そうにレースの手袋をはめた指を自身の頬に添えた。
「まあ、わたくしの可愛いお人形さんたち。とてもよく似合っていますわ」
おみつに対してその比喩ははたしてセーフなのか、と虎丸はつっこみたくなるのだが。
ともあれ、洋館に住む若者たちを着せ替え人形にするのは主の趣味らしい。時折り十里や拓海の服もいじっているが、女子のほうが装飾の種類が多いので楽しいようだ。
九社花家は元呉服屋の貿易商だけあって、洋服や装飾品には事欠かない。タカオ邸にも丸々衣装で埋まった部屋がある。
虎丸が今身につけている帽子とサスペンダーも、朝食の席で阿比に頭からつま先まで観察されたあと、無言で足されたのである。
休日とはいえ、ファッションに気を抜いてはいけないのだ。
──でも、この人もまだようわからへんなぁ。
八雲さんら新世界派の事情に、どこまで関わっとるんやろ。
そんなことを考えていると、主人から虎丸に初めての指名が入った。
「虎丸。貴方、馬には乗れて?」
「いやぁ、学校の授業でやったくらいで」
「ほほ、武術も馬術も似たようなものですから問題ないでしょう。護衛がてら遠乗りについて来てちょうだいな」
語感が似とるだけやん!!
と、心の中で叫ぶがやはり口には出さない。なんといっても相手は日本有数の財閥、九社花家の女当主である。
ただ金持ちの権力者だからという理由だけではない。
虎丸は女手一つで自分を育ててくれた母親に、一切頭があがらない。そのため女性全般、とくに母と同年代の女性には無条件で逆らえない習性が染みついているのだった。
***
東京市浅草区・吉原遊廓。
「ねー、ばくちん。獏ちーん」
あでやかな花魁の衣装がひるがえる。色香を含んだ、低い声が響いた。
「獏ちん、アタシの話、聞いてるー!?」
「ぐぐぐぐ……。妙な・呼び方を・すんじゃねァ!?」
「どうどうどう。ほら、ゼリビンズあげるから」
「くっ……! 買収とは、卑怯也ィ!!」
「つまり、ほしいのね。はい、あーん」
「やめろァ!!」
「カワイイー♡」
花魁の恰好をした長身の男は、異色の怪奇文学作家・古城周。大阪で虎丸たちと闘ったときは髷のかつらを被っていたが、地毛は肩より短く、朱色がかった茶髪である。
遊ばれている書生風の若者が、恐怖小説の名手・名刃里獏。
そして、ふたりのやり取りをジトッとした目で眺めているのは、退廃的な作風で人気の作家・金木憂。
「周ちゃんってさ、ほんとに若い男が好きだよね……。久しぶりに東京に帰ってきたのに、獏ばっかり構ってさぁ……、俺の愚痴は聞いてくんないし……。てか、なんで今日呼び出されたの? 俺、文芸誌で書いてる連載の〆切前なんだけど。売れっ子だから暇じゃないんだけど。はあ、早く帰りたい……。せめて休日出勤手当ほしい……。ねえ、ジョセフー」
こちらは軍人の仮装をした長髪の派手な男である。相も変わらず、腕に巻いた小さな白蛇に向かってぼやいている。
吉原遊廓は大蔵大臣・菊小路鷹山をトップとした組織『黒菊』の根城だ。
新世界派が乗り込んだ巨大妓楼はすでに引き払っていたが、同じように吉原でも最高級の部類に入る大見世だった。
帝都に集結せよ──。
幹部から命令を下された黒菊四天王が、すでに三人集まっていた。




