九 黒菊の母
実験場という呼び名から、もっと禍々しい様子をイメージしていたのだが──間近で見ると、その施設はやはり医院によく似ていた。
複数のベッドが並んだ部屋がいくつもあり、広い食堂と図書室がある。庭に吊るされたたくさんの洗濯物からは石鹸の匂いが漂っている。大勢が共同生活を営む宿舎のようだ。
学校にいた子供たちはみなここで暮らしているのだろう、と白玉は想像した。
そして周が『故郷』と呼んでいたことから、すでに作家として独立し、それぞれ名を馳せている四天王たちもここで育ったのだろう。元々新世界派にいた獏を除いてだが。
とはいえ、彼らの生い立ちに興味を抱いたわけではない。ついでに観察しただけだ。
もっと別の楽しそうなことが待っている。長い廊下を歩きながら、眼鏡の少年は心をはずませていた。
この施設、いや、この土地全体からは異様な文字の力の気配がする。
きっと彼らの言っていた『実験』に関わりがある、なにかだ。
──黒菊が抱える未知の技術や方法があれば、もしかしたら。
いまよりずっと、理想に近い姉が造れるかもしれない。
にこにこと機嫌よくついてくる少年をふり返り、四天王の一員である偲は困ったような表情で微笑んだ。周はちらりと見やっただけで、なにも言わなかった。
三人で地下への階段を下りる。周がいちばん手前の部屋の扉を引いた。
「ママ、きたわよ」
本棚に膨大な量の資料が詰め込まれ、簡易的な机と椅子、そして医科手術用の台座がある。そこら中に書き損じの紙やよくわからない道具が散らばっている。当然窓はなく、書き物用の洋燈がごく小さな範囲を照らしているのみ。
まるでタカオ邸の地下、白玉の秘密基地のような無秩序さだ。
白衣を着た人物が机に突っ伏して寝ていた。天井の白熱球が点灯されると、むくりと上半身を起こし、眩しそうに目を細めて訪問者を眺める。
ママ、と周に呼ばれたのは。
いつも菊小路鷹山の隣に寄り添っているはずの女性。
「あれれ? 胡蝶太夫さん、でしたっけ。ついさっき吉原の蔵相さんのところにいませんでした?」
ここへ来る前に、白玉は彼女を見かけたばかり。
間違いなく同一人物なのだが──まったく違う人のようでもある。
菊小路に付き従う、いかにも元最高級の遊女といった見た目の胡蝶太夫とは印象がまるきり正反対なのだ。
無地のそっけない着物に男袴、その上に白衣を羽織っている。化粧っ気はなく、背にかかる長さの髪もざっくばらんに切っておろしているだけだ。しかも、その頭髪は見事なまでに真っ白である。
首筋から鎖骨にかけての肌に、黒い蝶々の刻印が覗く。
年齢もかなり違った。あちらのほうは五十路前後だったが、彼女はせいぜい二十代前半といったところだ。
「なぁにぃ、昨日徹夜してて、あたし眠いんだけど」
「ママが夜中以外に起きていることなんて、ほとんどないじゃないか」
「あ、偲じゃん。珈琲淹れてよー。あんたのがいっとう美味いから。淹れてくれたら用事聞いたげる」
「呼び出されたのは私たちなんだが……? もう、しかたないな」
偲は肩をすくめ、棚から道具を取り出して豆を挽きはじめた。
白髪の女性は椅子の背もたれを抱きかかえるようにして、子供みたいに足をぶらつかせて待っている。
吉原遊廓にいた胡蝶太夫は、いつでも能面のように微笑を張りつかせていた。こちらの彼女はころころと表情豊かで、眠そうに目をこすったり、欠伸をしたりと自然体である。
いったい何者なのかと白玉が疑問を抱いていると、可動式の椅子を遠心力でぐるっと回して向き直り、ようやく少年の質問に答えた。
「あっちは胡蝶弐號。見た目は綺麗だけど、たいして自我を持ってなくてただのボスのお飾り。あたしが壱號です、イエ~!」
「わあ。思ってた感じとキャラ違いすぎてちょっと怖いです。でもお若いほうの顔立ち、もっと昔にどっかで見たような……」
白玉は腕を組み、倒れそうなほど前かがみの姿勢で考え込んだ。そして突如、顔をあげた。
「あー、そうだ。思い出した。父と祖父が生きてたとき、このひとをモデルにした尾山人形を作ってました。飛ぶように売れてたんですよね。実家の貴重な財源!」
「絵にも文学にも沢山登場してるわよ。伝説と呼ばれた太夫だもの」
と、足を組んで手術台に座っていた周が、女持の煙管を傾けながら言った。
まだ江戸に太夫という称号が存在していた頃。
吉原遊廓の最盛とともにその役目を終えた、六代目・胡蝶太夫。
「ご本人が生きていたとしたら百八十歳くらいですかね? さすがに一回は死んでますよね?」
「二十三のとき然るお大名に身請けされ引退、享年の五十五まで静かに暮らしたらしいわ。それが現在の菊小路家に繋がるってワケ。丁重に改葬され、代々受け継がれていた胡蝶太夫の遺灰を使って蘇ったのが──」
「はいはーい、あたしです! 黒菊初の試作品として、なんかてきとうに形容化してできたのがあたしでーす」
「うう、やっぱり怖いです。ぶるぶる」
周や偲にはママと呼ばれているが、目の前にいる女性は身請けされたときか、もう少し前くらいの年齢に見える。
しかし傀儡は向こうで、『花柳の女帝・胡蝶太夫』はこちら側が司令塔らしい。
「年は人々の記憶が強い時期で固定されちゃったんでしょうかね」
「現役時代の浮世絵がとくに有名だからねー。あたしはずっと若いままだし、髪のせいで遊女感薄いし、花柳界を牛耳る女帝には見えないっしょ。だから表に出るのは弐號に任せてんの。ボスのお気に入りは死ぬ直前の姿を映したあっちだしね。まー外苦手で地下にいたいから正直助かる」
やがて偲が人数分の洋風茶碗を銀トレイに乗せて持ってきた。
蒸れた珈琲の芳ばしい香りが手狭な部屋に充満していく。
「ほら、ママ。そろそろ本題にはいるよ。この坊やが例の、新世界派の操觚者だよ。連れてこいと命じたのはママだろう」
「女の子がいいって言ったのにー」
「初めは私の公演によくきていた赤髪の子を狙っていたんだが、想定外に忠誠心が強くて取り込みに失敗した。あの子は死んでも八来町を裏切らないだろうな。彼女の固有能力は惜しいが……。ともかく、我々としては『裏切者』はひとりいればじゅうぶんだ。どちらでもいいさ」
本来は白玉に聞かせるような話ではないが、偲はあえて気に留めなかった。少年の関心は、いまやかつての仲間には向けられていないからだ。
案の定、彼らの会話には興味を示さず、自分の前に置かれた飲み物の匂いをめずらしそうに嗅いでいる。
「この坊やの力は新世界派のなかでも飛びぬけて強力なうえに、『幻想写本』の解除者だ。褒めてほしいくらいだよ」
胡蝶は淹れたての珈琲を受け取り、幸せそうな顔で飲みながら言った。
「それはいろいろ出来そうでありがたいけど、素体と素体で子供を作ったらどうなるか実験したかったんだよねー。もし操觚者の素質が遺伝するなら、生産が一気に楽になるしさ。うちの女の子は偲しかいないのに、嫌だって言うから」
「私には無理だよ、申し訳ないけど」
「相手が周でも嫌なの? あんた子どもの頃から周、周ってうるさいじゃん」
周が煙を吐き出しながら、うげ、という顔をする。
偲はその反応をとくに気にもせず、ふたたび顔を横に振った。
「嫌とは違うが、私にそういう役割はできない」
「うーん、性別と精神の齟齬……。いや、偲の場合は幼い頃に受けた心的外傷による拒絶反応といったほうが近いか。荒療治でなんとかならないかなー」
眉間に皺を寄せた周が抗議の口を挟む。
「ちょっとぉ、アタシだって乙女なのよ。変な話を勝手に進めないでよ」
「周の性別は女じゃなくて周っしょ。あんたたち、せっかく操觚者の素体として優秀に育ったのに、変なERRORが出るもんだねえ。実験って難しい。ま、なんでもいいよ。最終目的は生殖を伴わない『人間』の量産なんだから」
それで、と。
白髪の胡蝶は血色の瞳を鈍く光らせ、白玉を見据えて楽しげに言った。
「天才少年、あんたはここでなにして実験したい?」




