八 春になると、逢いにくる人
何棟もの建物が連なった、白壁の洋風建築──
一見教会のようにも見えるが、人の出入りが多く、もっと忙しい場所である。
敷地の端にある薄暗い資料室にて、ふたりの青年が息を殺し室内に潜んでいた。
周囲の様子に気を配りながらも、何かを探している最中だ。
「できるだけ手早く頼むよ~。虎丸くんたちが近くにいるとはいえ、敵の根城とそれほど距離もないからさ」
「わかっています。どの棚にあるかは年代でだいたい特定できましたから、あとは捜索するだけです」
扉の前で見張り役をしているのは十里。
そして、棚に並ぶ古びた紙束を一枚ずつ確認しているのは拓海。
「文乃さんは、本郷真虎を東京の医院で看取ったと話していた。文壇の重鎮ですし、文学関係者の縁が多いここに入院していた確率は高いはずですが……。なにしろ十年前の診断書ですから」
拓海としても、虎丸の母の証言を疑っているわけではない。だが──死亡記録を確認できれば、本郷真虎が現実として死んでいるのかどうかがはっきりする。
というわけで、彼らは現在東京帝国大学医科大付属医院に忍び込んでいるのである。
年末で学生は少ないが、医院は当然動いている。建物内のあちこちで働く人々の気配がある。扉を隔てた廊下でも、今まさに誰かの歩みが床板を軋ませている。
十里は万年筆の先に『迷妄』の文字をそっと灯らせていた。
意味は誤りと、心の迷い。
それほど強い言葉ではないので、煙のように完璧に姿を消すことはできない。だが、その文字の力は他人の意識を逸らさせ、誤認させる。
たとえ病院関係者に目撃されても、よほど怪しい動きをしていなければ、違和感は心の迷いとともにかき消されてしまう。
面識がない相手ならばバレない、普段使われない部屋に人の気配があっても疑問を抱かせないといった程度の効果だが、他者の認識を操作する力である。
同じ単語を扱っていても小説家によって意図や空気感が異なるように、同じ言葉を用いても同じ力が発現するとは限らない。
視覚的、聴覚的感覚を大事にし、自らの文学に落とし込む十里は、情報に関連する力を得意としており、新世界派でもっとも潜入に適している。
万が敵に一見つかったときを考えると、操觚者だけになるのは危険だ。しかし大人数を隠せるほどの強すぎる力を使えば、かえって感知される恐れがある。
話し合った末に、帝大の医科大生で建物内部に詳しい拓海と、十里とで動くことにした。
闘者である虎丸と藍は、いつでも駆けつけられる近辺で待機している。
紙をめくる美青年の手がとまった。
引き出した一枚を慎重に確認し、小さく声をあげる。
「──先輩、見つけました」
「あった!? どうだった!? やっぱり、亡くなってるの?」
「そのようですね。肺を中心とした全身性肉芽腫による免疫疾患と推測される。どう膜炎症による眼病変にて失明、広範囲の皮膚病変を伴う。一九〇五年四月四日零時……死亡」
独逸語で書かれた書類を素人の十里にもわかるよう簡潔に読みあげたあと、拓海はあきらめのような息を吐いた。
「偽造って可能性は?」
「残念ながら低いでしょう。めずらしい症例ですが死亡率は高くない病気です。もし俺が診断書を偽造するとしたら、結核にでもしておきますよ。十年も倉庫で寝かせておくためにわざわざこんな書類を作る意味もありません」
「そっかぁ……。少なくとも一度はちゃんと亡くなったんだろうって感じはするね。じゃあ、今現在のパパンはやっぱり……」
虎丸にとってどちらがいいのだろうか。
すでに死人ならば、息子に見せた冷酷な態度は偽物ということになる。幼い頃のあたたかい思い出の父が、本当の姿として蘇るのである。
それでもやはり、生きていたほうが嬉しいだろうか。
答えは本人に聞いてみなければわからない。
だが、片方の選択肢はこれで完全に失われてしまった。
望んでいないかもしれない結果を突きつけるしかなくなったのだ。
「ちょっと虎丸くんには伝えづらいなぁ……。亡くなってることに気づかないまま憎んでいたなんて。これ以上、あの子が悲しむことにならなきゃいいけれど」
「だとしても、あいつ自身が真実を知りたがったんです。これ、記録お願いします」
「うん、ちょっと待ってね」
十里が『念写』の固有能力で死亡診断書を読み取りはじめる。
その古びた紙に視線を落としながら、拓海はつぶやいた。
「十年間ここで安置されていた本郷真虎の真実。ならば、あの男が虚実となったのは、死亡後──」
***
東京市・浅草区。
帝都でもとくに賑やかな繁華街だが、その隅にひっそりと隠れるように、雑木林に囲まれた巨大な敷地が広がっていた。
「やあ、きたね。周姉、それから人形師の坊や」
「あ。しのぶ様だー」
「ここからは私が案内しよう」
門前で白玉と周を待っていたのは、四天王の一人であり舞台役者の天津風偲。
いつもギラギラとした派手な衣装を着ている彼女だが、今日は休日なのかシンプルな男物の長着と羽織を纏っているのみだ。ヒールの靴を履いていなくても背丈は白玉より高い。
男装の麗人に導かれ、黒い菊紋の装飾がついた鉄門をくぐった。
少年は眼鏡の位置を直しながら、ものめずらしげにあたりを見渡していた。
「ぼく、浅草は地元なのに。こんな広い場所があるなんてぜんぜん知りませんでした」
「すべてボスの私有地だからね。全方位に見張りがいて、一般人は近づけもしないさ」
木々の隙間をぬう小径をしばらく歩くと、平屋作りの木造校舎が見えてくる。
柱に『本郷塾』の看板がかかっており、教師らしき声が風にのって聴こえてくる。窓からは十代の少年少女の横顔が並んでいるのが覗き見えた。
一見したところ、ごく普通の授業風景だが──ここは身寄りのない子供たちを集め、操觚者を育てるため菊小路鷹山が造った学校である。
さらに進むと、桜の木が連なる小丘にたどり着いた。
「わー、冬なのに桜が満開だ……」
十二月の末だというのに、まさに盛りといわんばかりの花々が見事に咲いている。
「この丘は一年中そうだよ。ついでに行われている不老の実験の一環だ。古今東西、権力者というのは不老不死の妙薬を求めるものらしい」
「すごい、毎日お花見できますね!」
「私は、あまり好きじゃないけれどね」
綺麗なのになんで、と首をかしげた白玉に向かって、周が代わりに答えた。
「花は散るからこそ美しい派なのよ、しのは。お子様には難しいかしらね」
「ふうん。あ、まんなかに真っ黒の桜もある」
「あれは失敗作。でも、案外綺麗よね」
「なんだかあのひとに少し似てる気がします。なんだっけ、えらいひと……ええっと、本郷真虎さん……」
偲は驚いたように目を見開いた。
「よくわかったね。あの木には、本郷先生の灰が混ざっているんだよ」
灰、混ざる、などの不穏な言葉を聞いてなお、白玉は瞳を輝かせた。
「わかりました! この奥にあるのって……そーいう危ないことをやってる施設みたいなとこですね!?」
「まあ、そうね……。アナタは役に立ちそうだから呼ばれたのよ。黒菊の実験場にね」
小丘を抜けた先。
周が指で示したのは、医院に似た雰囲気の真っ白な建物だった。




