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五 幻想が消えるまえに、時が進むまえに

 翌日目を覚ました虎丸は、体が随分楽になっていることに気がついた。

 汗もほとんど引いている。もう起き上がってもふらついたりしない。朝晩と飲まされ続けた、拓海特製の解熱薬がてきめんに効いたらしい。


 枕元に置いてある懐中時計を確認すると、時刻はすでに正午過ぎだ。

 ひさしぶりにきちんと洋装に着替え、一階に降りていった。



「薬のせいかな、めっちゃぐっすり寝た……。ん? なんか静かやな」



 思わず耳を澄ましたほど、本館は静まり返っていた。


 学生組が休みに入ったのもあり、普段ならば誰かしらが食堂に集ってわいわいと話しているはずであった。だが、中を覗いても整えられたテーブルが鎮座しているのみで人影はない。

 少しウロウロして、ようやく正面玄関前で掃除をしている茜の姿を見つけた。


「茜ちゃん、お疲れ」

「あら、虎丸さん。おはよう、体調はどう?」


 箒を握ったメイド少年が、穏やかな笑顔で虎丸を見上げた。


「おかげさまでもうすっかり。他のみんなは?」

「八雲さんは自室に篭りきり。(コウ)ちゃんは庭で鍛練中。あとの人たちは車で(あるじ)のお迎えに行ってるわ」

「おー、阿比(あび)さん帰ってくるんや」


 玄関を見渡せば、庭で摘まれた花が飾られ、絨毯の毛は美しく揃い、いつもより入念に手入れされている。


「掃除に手いっぱいで、支度を手伝えなかったから心配だわ。みんなちゃんと正装に着替えたかしら。とくに(あい)さんは窮屈だって嫌がるから。十里(じゅうり)さんも一緒だし大丈夫と思うけれど」

「正装? なんで?」

鹿鳴館(ろくめいかん)に行ってるんだもの。当然よ。今晩の夜会に同伴するの」

「ろ、鹿鳴館……」


 皇族、華族、名だたる金持ちがパーティーをひらくという、あの鹿鳴館。

 阿比は財界で一目置かれている重要人物だ。いつ誰に見られてもいいよう、付き添いにも完璧なドレスコードが必須らしい。


「大変やな……。あ、うちのオカンどこおるか知っとる?」

「まだキッチンにいるはずよ。お昼を作ってもらっちゃった。虎丸さんも病み上がりなんだからちゃんと食べないと」

「わかった。ありがとぉ」


 茜に礼を言って、その場を去る。

 台所に顔を出すと、文乃(あやの)は朝昼の片づけをしていた。


「あら、やっと起きたん? アンタの分もお昼あるけど食べる?」

「うん。体調良くなったら急に腹減ったわ」

「すぐ用意するからちゃっちゃと食べて、元気なら片づけも手伝ってやー」

「はいよ。何日も寝とった分、働かせてもらいます~」


 テーブルに置かれた煮物のにおいが、ふわっとあたりに漂う。

 一口食べれば懐かしい実家の味だ。タカオ邸の食事は洋食がメインなので、なおさら久しぶりに感じる。

 

「ここの主、今晩帰ってくるらしいで」

「さっき茜ちゃんから聞いたわ。えらいモダンな女の人らしいやん」

「きらびやかっちゅうか、いっつも舞台で照明が当たっとるみたいな人やなぁ」

「うちはこんな普段着で大丈夫やろか」


 と、自分の姿を見下ろしている。着物に割烹着という、ごく庶民の母親である。

 はたしてあの女主人と反りが合うかどうか。少々心配になる虎丸であった。



 ***



 洋館に残っていた者たちが夕食を済ませた頃、庭にエンジンの音が響いた。

 主人に紹介するため母を連れ、玄関の外まで出迎えにいく。


 優雅に足を滑らせて車から降りた阿比は、比喩でなく本当に全身が輝いていた。

 無地の白に見えたセットアップのスーツには銀糸が織り込んであるらしく、外灯の光をきらきらと反射している。靴と羽根つき帽子もエナメル素材の銀だ。


 本人のゴージャスさもさることながら、主人のために車のドアを開けたり、手を差し伸べたりと、傍らに控えている取り巻きの派手さに驚く。



「うわ~。目立つの侍らせて登場したなぁ……。よりにもよって社交界映えトリオやん」



 虎丸が勝手に命名した『社交界映えトリオ』とは──


 着飾って連れ歩くと目立ちまくり、上流階級のマダムたちから羨望の視線を浴びるというタカオ邸の御三家。藍、十里、拓海の三人である。



「イケオジ、金髪ハーフ、正統派美青年をこれみよがしに……」



 系統の異なる三者に揃いのブラックタイを着せ、社交界などの集まりに引き連れて行くのは阿比の趣味だ。

 楽しそうでなによりだが、一般人の感覚を持つ虎丸の母親はどう思うのだろうか。


「うわぁ、えらい豪華な感じで登場しはったで」


 文乃は物珍しそうに、しげしげと彼らを眺めていた。


「あ、やっぱ引く?」

「めっちゃ楽しそうやな。やってみたいわー」

「やってみたいんや!?」

「あんなの絶対にいっぺんやってみたいやろ」


 虎丸にはよくわからないが、社交界映えトリオには抗いがたい魅力があるらしい。


「引いたわけちゃうし、まあええか……」


 と、無理やり呑みこむのであった。


 食事の前に挨拶を、というわけで。

 タカオ邸でもっとも広い応接間(サロン)に移動し、阿比と文乃は瀟洒(しょうしゃ)な丸テーブルにて向かい合っていた。

 

「主、文乃さん。お茶が入りました」

「…………」

「主?」


 ティーセットのワゴンを運んだのは、作家たちの中でも阿比が特別自慢にしている拓海である。


「……わたくしの可愛い拓海。ちょっと名前で呼んでみて頂戴」

「はい、阿比さん」


 文乃は本人の希望により下の名で呼ばせているのだが、それを耳にした女主人もうらやましくなったらしい。


「ええやろ?」

「悪くないわ」


 と、なぜか文乃が得意げにしている。


 話が噛み合わないのではないかという虎丸の心配は杞憂だったようで、思いのほか和やかにお茶会は進んでいた。


「楽しいわね。女学校を中退して以来、同世代のかたと親しくした経験があまりなかったの」

「ほんなら今度拓海くんのお母さんも誘って、三人で遊びに行きましょ?」

「ええ。わたくしも息子がひとりいるのよ。父親はいないけれど」

「みんな同じ。シングルママ友会やなぁ」


 少し離れたソファでなんとなく様子を窺っていた虎丸は、なるほど母子家庭という共通点があったかと納得した。

 ちなみに、仲間内で一人っ子は虎丸と八雲だけである。拓海の家は離縁しているが腹違いの兄姉が七人いる末っ子、十里も仏蘭西(ふらんす)に弟妹がいると言っていた。


「まあ、父親がおらんでも案外立派に成長するもんやで」

「虎丸は、たくましくて良い子ね。ほんとうに良い子。ねえ、わたくしの可愛い虎丸?」

「は、はい!? どうも~?」


 初めてその呼び方をされ、いよいよタカオ邸ファミリーに入ったという気分だ。

 ともすれば主人の愛人(ツバメ)なのではと誤解されかねない発言だが、そこはさすが母というべきか。阿比の人柄はすぐに把握したようで、誇らしいというよりは嬉しそうに笑い返した。

 


 ──はよ一人前の編集者になって、嫁さん見つけて、髭生やそ。



 そんな母の表情を見て、一刻も早くもっと立派な大人になろうと虎丸は決心するのだった。


 サロンでのお茶会は夜遅くまで続き、そろそろお開きにしようかという時刻になって八雲が姿を現した。

 食堂に誰もいないので、にぎやかなこちらの部屋を確認しにきたらしい。


「あらぁ、綺麗な男の子やな。こんばんは」

「──こんばんは」


 十里と口論した日からずっと自室に引きこもっていたため、虎丸の母とは初対面である。

 

「声ちっさ! 人見知り発動しとるなぁ」


 かろうじて挨拶は返したものの、消え入りそうな声である。

 が、多少警戒されたところで引く母親ではない。


「ここのご主人の息子さん?」

「はい」


 息子がいることはたしかに阿比が今しがた話していたが、なぜこうも鋭いのだろうか。


「せやからなんで一目でわかんの??」

「目元とか鼻筋がよう似てはるやん」

「えー? 一緒に生活してもまったく気づかんかったオレはいったい……」


 知らない人間がいるからか、八雲は気配を消してそそくさと引き返そうとしていた。

 しかし、その袖を文乃がしっかりと捕まえる。


「よかったら夕ご飯食べへん? 昼も夜も部屋から出てきてないやろ。ハイカラなもんは作られへんし和食で悪いねんけど、まだ一人分くらい残ってるから」

「では、いただきます。うちは洋食ばかりでどうにも合わなくて」


 絶対に断るだろうと思った虎丸の予想ははずれ、八雲はあっさりと承諾した。


「あ……八雲さんがご飯で落ちた」

「そんな方法あんの!? くそー、茜に料理習っときゃよかったかな」


 阿比のお土産であるお菓子を黙々と食べていた紅が、驚愕の顔でやり取りを眺めていた。

 その態度で悟ったらしい。文乃は何度か八雲と虎丸を交互に見て、同情に満ちた視線を送ってきた。


「ふうん、あの子が恋敵なんや。あーあー、こらあかんわ……。見た目が綺麗すぎてなぁ。しかもアンタと全然タイプちゃうやん」

「ほっといてや!?」

「ふふふ、まあ、頑張りや。そうだ。お母さん明日大阪帰るわ。体調はもう大丈夫そうやし、ご主人にも挨拶できたから。アンタも受け持ちの原稿もらったら戻るんやろ?」

「ああ……。せやなぁ……」


 ここは時の停まった幻想の場所。消えてしまった人形の少女とそう話をしたのはいつ頃だったか。

 まるで何年もいたかのように感じる一ヶ月半であった。


 当初の目的だった八来町八雲の原稿はすでに受け取っており、編集長の好意で延長させてもらっているだけだ。

 いつまでもここの仲間たちと一緒にいられるような気がしていたが、自分の仕事が終われば帰らなければならないのだ。


 だが、その前に──幻想が消える前に。時が刻まれる前に。

 なにがなんでも、やり遂げなければならないことがあった。

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