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四 薄雲、朧月、闇桜

 顔を憶えていないはずはないのに。

 幼き日の思い出に出てくる父の姿は、なぜだかいつも薄雲のかかった朧月のようにふわりと覆い隠されていた。


『なぁ、オトン。オレも大きくなったらオトンみたいな小説家になんねん』

『そうかぁ。虎丸だったらお父さんより有名なすごい文豪になれるかもなぁ』

『でも編集者もええなー。陰から支える感じがかっこええと思わへん?』

『そうかぁ。きっと名編集者になるだろうなぁ』


 膝に座るといつも頭を撫でてくれる大きな掌。背に感じる温もり。


『うーん、やっぱり剣豪になろかな。明治最後の侍! って捕まるわ!』

『ああ、おまえは剣術の稽古で年上にも負けないし、才能があるからなぁ』

『オトン、さっきからてきとーに答えてへん?』

『そんなことないぞー。自由に生きて、決して自分に屈することなく、大事なものは全力で守れ。そうすれば、おまえは何にでもなれる』


 自分よりずっと大きな存在に体を支えられるのは、とても心地がよく──

 突然(うしな)うのは、子供ながらに足場が崩れるような恐怖だった。


『なあ、どこ行ってたん? 今、オカンが大変やねん』

『……なんで助けてくれへんの? オカンもオレも、大事とちゃうの?』

『オトン。お父さ──』



 ***



 全身が熱い。

 自分で思っていたより、無理をしていたらしい。


 今の今まで見ていた昔の夢は現実と混ざりはじめ、遠ざかった。懐かしい記憶。ほんの幼い頃、まだ大好きだった父の思い出。

 嫌悪の感情が大きすぎて、すっかり忘れてしまっていた。父はいつから変わってしまったんだっけ?


 すぐそばでお粥のいい匂いが漂っている。

 少しずつ意識がはっきりしてきた。きっとここは現実の世界だ。



 ──ああ、もしかして、また食べさせてもらえるんかなぁ。



 先日受けた看病を思い出し、無意識に口を開けていたらしい。


「なんや、子供みたいに。ほら、あーん」

「げ、オカン……!?」


 ベッドの傍らに座って湯気の立つ茶碗を持っていたのは、母・文乃(あやの)であった。

 間の抜けた顔を見られてしまい、母親で良かったような悪かったような、複雑な気分である。


「ごめんなー、好きな女の子やのうて」

「どっちにしろ恥ずかしくて死にそうやねんけど。もぉ死のかな」

「そんな簡単に死ぬなんて言葉使うたらあかんよ?」

「まっとうなお説教が余計につらいときもあんねんで……」


 ぐったりしながらも茶碗を受け取り、匙を口に運ぶ。よく知る懐かしい味が広がった。

 実家を出たのは高等学校で寮に入ってからなので、まだ三年も経っていない。郷愁を感じるには早いが、張りつめていたものがようやく落ち着いた気がする。


「オカン、さっきのお見合いの話なんやけど」

「うん、断っとくわ」

「やっぱり断ってもろて──え?」


 思わず母親のほうを見ると、なぜかすべてを知った顔で笑っていた。


「アンタ、赤髪のちっちゃい子が好きなんやろ」

「エスパァかなんか??」

「お見合いの話をしてたときもチラチラとあの子のほうばっかり見てて、うわぁわかりやすいなぁて思うてた」

「なんそれ恥ずかし!!」

「三角関係の片想いか。女の子には意気地なしのアンタらしい役回りやなー」

「ほんまなんなん?? どこまで悟ってんねん。ほんと怖い」

「あの子もアンタのことまったく意識してへんわけちゃうと思うけど」

「ほんまに?? 信じるで!?」


 やたらと勘の鋭い母親だ。こういうときだけは神頼み的に信じたくなる。


 が、ふと疑問が湧いてきた。


「……なあ、やっぱり息子には、ああいう人と結婚してほしいもん?」


 父が蒸発してからしばらくは、母方の祖父母の援助もあって以前と変わらず暮らしていたのだが──

 子供ながらに、少しずつ生活が苦しくなってきていると気づいた。


 もっと優秀だったら第三高等学校、京都帝国大学と順調にエリートコースを歩めたのかもしれない。なんとか高校には進んだものの、アルバイトばかりで勉強はついていけず、経済的にもどんどんきつくなった。

 早々に無理だと悟り、ならばさっさと働きにでるほうが向いているだろうと虎丸自身で判断して高校を辞めたのだ。


 なにしろ母一人子一人。虎丸だって苦労はかけたくない。

 もしかすると、母親は商家の娘との結婚を望んでいるかもしれないと思って尋ねたのである。


「ああいうって? 胸の大きい子?」

「ちゃうわ!! そこ拾わんでええねん!」


 母はしばらく考えて、なんでもなさそうに答えた。


「いや、お母さんはどんな子でもええで?」

「どんなでも!? それはそれで投げやりやな」

「投げやりとちゃう。アンタはどんな子とでも幸せになるやろ? 自分で選んだなら絶対そうや。せやから口出さへんって最初から決めてんねん」


 つまり、信用されているのだろうか。

 思い返してみれば、尋ねるまでもなく母はいつも虎丸に対して条件をつけない。

 高校を辞めたときはなぜか謝られたが、自分で選んだ物事に文句を言われたことなどなかった。


「だいたい、お母さん自身が向こうのご両親にめちゃくちゃ反対されたからなぁ。自分の子にはあんましたないねん」

「え、そうなん。初耳や」

「うちのおじいちゃん……アンタのひいおじいちゃんは異国の人やってんけどな?」

「それも知らんかったけど!?」

「こんな鬼みたいな髪色した娘はあかんて、一族猛反対やったんやで。でも、お父さんは良家の娘さんとのお見合い蹴ってお母さんと結婚してん」

「ええ……なにその逸話……。あの親父が!? 詳しく聞きたいような、聞きたくないような……」


 自分の髪色が普通より明るい理由にも驚いたが、それより父親に抱いているイメージとの剥離が大きい。


 冷たく、厳しい父親。

 性格の合わなそうな両親がどのように結婚したのか不思議に思っていたのである。


「だってアンタ、お父さんの話したら嫌がるやん」

「聞きたなかったし……」

「べつに仲悪くもなかったのになんでそんな嫌うんか知らんけど、お父さんはいつでもアンタを見守っとると思うで。産まれたときもめっちゃ喜んで、抱っこしたまま近所を三周くらいしてなぁ。最期には病気のせいで目が悪うなって、アンタの成長をもう見られへんのがいちばん悔しいって言うてたわ」

「……へ? それ誰の話??」

「あ、汗拭かんと体冷えるな。台所でお湯もろてくるから」


 虎丸が頭に疑問符を浮かべているあいだに、桶を抱えて文乃は部屋を出て行った。

 すぐにノックの音が響く。入れ違いでやってきたのは、幼馴染の拓海であった。


「虎丸、解熱薬を持ってきた」

「でた~。拓様オリジナル配合の怪しい薬! やたら効くけど苦いねんな~」

「黙って飲め」

「へいへい」


 苦いのは嫌だが、早く体は治したい。

 観念して薬包紙を受け取り、水で飲み下した。


「にがいにがい」

「効きさえすれば味なんかどうでもいいだろう」

「おまえはな! それより気になることあんねん。ちょっとええか?」


 拓海は返事の代わりに、先ほどまで文乃が使っていた椅子に黙って座った。


「拓海、うちの親父のこと憶えとる? こないだ女学校でばったり会うたのは無しで、大阪での話な」

「それなら、最後に姿を見たのは八、九歳くらいか。昔はもっと柔和でのんびりした人だったように思う」

「そうそう、そんくらいに家から出て行って……年に一回、春に会いに来るだけになってん」

「会いに? おまえにか? 悪いな、あの頃は俺も自分の家の事情で頭がいっぱいだった」

「知ってるし、それはべつにええで。中学卒業するくらいまで続いたかなぁ。おらんなったくせにいきなり現れて小説家にはなるなとか、剣術はやめるなとか、いろいろ口だけ出してきて。そのくせ、初めて会いにきた日にあいつはオカンを助けてくれんかった」


 満開の桜が舞う春の夜、父・真虎(まさとら)が帰ってきた。

 突然虎丸の前からいなくなり、きっかり一年が経った頃だ。

 やっと帰ってきてくれたと、そう思ったのに。どれほど呼んでも反応してもらえず、父は遠くから悲しそうに虎丸を眺めているだけだった。


「……もしかして、文乃さんが高熱を出した日のことか。小学校の高学年くらいだったか」

「そう、結局おまえんちに駆け込んで助けてもろたんやったな。オカンに親父は死んだって言われてたけど、実際現れるもんやから、女作って出て行ったとか子供に言いにくい事情があんのかなって。死んだと思えって意味やと理解してたわ。葬式もしてへんし」


 だが、さっきの母の話と随分食い違ってしまう。


 病気? 目が悪くなった?

 いや、それよりも。大きくなってから可愛がられた記憶などない。父は虎丸と母親を捨てて出て行ったのではなかったのか?

 年に一度、義務的に様子を見にきているのだと思っていた。


「俺のいちばん知っとる親父は無口で冷たくて、要するにこないだ再会したまんまのはずなんやけどな。オカンと記憶が違いすぎてなんかこわ~」


 がちゃりと扉が開き、文乃が戻ってきた。


「ああ、拓海くん。薬ありがとぉ」

「いえ。熱はこれ以上あがりませんから、もう大丈夫です」

「やっぱり頑丈やなー」


 手ぬぐいを湯で絞って虎丸の体を手際よく拭きながら言った。


「家族やのにお葬式出られへんかった理由はな。さっき話したとおり、お母さんが結婚に反対されてたせいやねん。アンタまで巻き込んでしもうて」

「おらんかったのにぜんぶ把握した感じで話に入ってくるのやめてや。は? 葬式? 生きとるやろ?」

「はあ、お父さんの話を嫌がんのは、まだ死んだの受け止めきれてへんからか。ごめんなぁ、せめて最期に会えてればよかったのに」

「いやいや、そういうのちゃうて。オレはこないだ会うたし! てか毎年会ってたんやって」

「残念やけど人違いや。お父さんはちゃんと死んでる」

「ちゃんとって」

「看取ったから間違いないで。東京の病院で、そのあいだアンタはお母さんの田舎で預かってもらってたけど憶えてへん?」

「一ヶ月くらい世話になってた期間があったような気ィする。じいちゃんもばあちゃんも、やたら優しかったな」

「そう、そんとき。真虎さんはアンタが十歳のときに肺の病気で死んでんねん」

「十歳!?」



 では、夜桜の晩に会った父すら──



「ええ……? ほんなら、あれ誰や……」



 ずっと避けてきた父親の影が、突然の再会によって視界に入り込んできた。

 向き合おうにも、現実なのか、幻想なのか、虚構なのか。

 掠れた雲が、ぼやけた月が、闇に散る桜が、父の姿を覆い隠して。

 もう、なにもわからなかった。

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