三 すごく好きになってくれる誰かに
その頃、虎丸のいなくなった食堂では──
風呂敷包みから米と野菜を取り出しながら、虎丸の母・文乃が言った。
「さて、コロッケは重たいやろうからお粥作ったろかな。台所借りてもええ?」
「あ、はい! 西洋風の竈ですけど大丈夫かしら」
青年三人の会話をどことなくむすっとしながら聞いていた茜が、我に返って答えた。
「竈は竈やし、なんとかなるやろー」
「なんとかしそうだわ……」
虎丸のどこでも生きていける適応能力の高さは、母譲りらしい。
文乃を台所に案内してから戻ってきた茜は、テーブルで和菓子を食べている紅の真正面に座った。
食堂にはもう仲間しか残っていない。我慢の限界といった勢いで姉を問いつめた。
「紅ちゃん、どうしてずっと黙ってるの。なにか言うことはない?」
「え、すげーうまいけど。芥子餅」
「お土産じゃなくて! お見合いの話よ」
「おれには関係ねーもん。べつにいいんじゃね?」
「なんでよ。だって、虎丸さんは──」
思わず口を滑らせそうになったところで、十里から『それは本人が言わないとダメ』と身振りでストップが入る。
途中で言葉をつまらせた茜に向かって、紅は口の周りについた芥子の実を拭いながら抑揚のない口調で言った。
「オマエはやたらとおれに虎丸を推してくるけどさ。アイツは惚れっぽいし誰にでも優しいから、結婚したらだいたいの相手とうまくいくよ。だったら条件がいい娘のほうがいーじゃん」
「条件なんて……。結婚は好きな人とするものじゃないの?」
「フツーの家に嫁ぐのは、まともな家の娘じゃないと無理。ただでさえ遊廓生まれで両親ともいないのに。ついでに美女でもなけりゃ、性格が従順なわけでもないし、料理も裁縫もできない。あと巨乳じゃない」
「む、卑屈」
「卑屈じゃない、ただの現実。八雲部長はそもそも戸籍とかないから考えたことすらなかったけど、世間一般の嫁入りってそーいうもんだよ」
ものすごく虎丸たちの会話を意識しているようにも聞こえたが、それはそれとして。
色街で生まれ育ち、早くに親を亡くした姉弟が生きていくのは決して楽ではなかった。遊女だった母が死んだあとは、アル中の父親と幼い弟、そして父が作った借金を抱えて、紅は尋常小学校にもろくに行けず働いていたのだ。
現在の生活も、自分が中学校に通えているのも、すべて阿比の援助のおかげだと茜だって理解している。だがそれは青天の霹靂のような幸運で、借金を返すためには母と同じ遊女になる道しかないと思っていた、と紅はよく話していた。
しかし、女主人に頼りきりで平気な性格でもない。自身で返済は続けており、茜がもっと上の学校に行くための費用もこつこつと貯めている。
茜は、姉がなによりも弟である自分の将来を優先してきたのを知っている。
そのせいで、最初から普通の幸せは諦めているようなところがあるのも。
「……でも、虎丸さんはいつも紅ちゃんのこと可愛いって言ってるもの。お母さんだって、さっきそう褒めてた」
「無関係なよその娘だから気軽に言えるわけ。嫁にするとなると違う。あとアイツは誰にでも言うだろうから真に受けるな」
「そんなこと、ないのにな」
「とにかく、べつにおれは立派な嫁になるために生きてきたわけじゃねーからいいんだよ。アイツが誰と見合いしようとおれには関係ないし、オマエらにもないだろー。茜もジュリィも世話焼きすぎ。じゃ、暗くなるまで庭で稽古してるから」
それだけ言うと、長い髪をなびかせてさっさと出ていってしまった。
軽快な足音の残響が消えてしばらくしたあと、茜は室内に残っていた十里と拓海に向かって寂しそうな声でつぶやいた。
「ぼくはね、定職についてるからとか浮気しなさそうだとかいろいろ言ったけれど、ほんとはそんな理由じゃなくて。虎丸さんは、紅ちゃんのことをちゃんと好きだから。だから八雲さんじゃなくて虎丸さんがいいんだよ」
今はメイド服姿だが、本来の少年口調に戻っている。
「すごく好きになってくれる誰かに、そばにいてほしい。こんなふうに思うのは、ぼくの押しつけなのかな」
「僕だって同じ気持ちだよ。虎丸くんの愛が試されるねえ」
十里とともにしんみりしていたところで──
突然、拓海が口を挟んだ。
「あの、俺にはまったくわからないんですが、十里先輩と茜は何をそんなに焦っているんです?」
「えええ。拓海、今までの話聞いてた?」
「聞いていたから言ってるんです」
冷たく感じるくらいの冷静な声で、美青年は言い放った。
「見合いが成立するのを心配しているなら無意味です。何故なら、虎丸は確実に断りますから。あいつは惚れっぽいけど一度本気になったら引きませんよ。恋愛だけでなく何事も。新世界派の問題に首を突っ込み始めてからもそうでしょう」
「え〜、でも、さっき悩んでたよ?」
「あれは一応悩まないと相手に悪いという意味です。本当は最初から心が決まっていたはず。俺は無駄な配慮だと思いますが、虎丸なので」
「かえって修羅場を起こすタイプの優しさか~。たしかに、虎丸くんらしいかも」
「拓様が言うとすごい説得力……」
ここ数年のあいだ離れていたとはいえ、物心つく前からともにいた幼馴染だ。
互いに一番遠慮なく言いたいことを言い合える間柄でもある。
「それに、楽に進むよりも難しい相手のほうが好きですからね。生い立ちが複雑で性格も器用じゃない紅さんをあっさり諦めて、いきなり降ってきた玉の輿に乗るとは思えません」
「障害に燃えるってことかい? ただのマゾヒストなんじゃ?」
「まあそうです」
根も葉もない言い方だが、うまくいかないからといって簡単に諦めたり、見捨てたりする青年ではないと茜も十里も知っている。
ひょこっと台所から母・文乃が顔を覗かせて、真剣に虎丸談義をしていた青年らに言った。
「やっぱり拓海くんは虎丸をようわかっとる」
「あれ? 今までの会話ぜんぶ筒抜け?」
「昔から地獄耳なんです、文乃さんは」
母親にこんな会話を聞かせたと知ったら虎丸は絶望しそうだが、後の祭りだ。
「手遅れですし、どうせ数日ここで過ごしたら気づきます。虎丸はわかりやすいので。むしろ初見ですでに勘付いたんじゃないですか」
「超能力使えそうなママンだねえ。じゃ、いっか〜」
と、十里たちは勝手に切り替えて話を続けた。
「どうしたらもうちょっと進展してくれるかなぁ。だってさ、さっき紅の言葉を聞いてて思った。虎丸くん、誰でもいいんじゃないかって思われてない?」
「思われてますね。見合いで無駄に悩んでいるふりをしたせいで余計に」
「みんなに誠実で優しいのは事実だけれど、その弊害で気持ちが全然伝わってなかったんだね〜。そろそろはっきり言っちゃえばいいのに」
しかし──伝えたところで、進展しない可能性も高い。
だから、虎丸本人も躊躇っている。自身が失恋するのを恐れているというより、今の状況で一方的な気持ちを押しつけたくないのだろう。
「まあ、最終的にいちばん高い壁は、八雲部長の存在だからねえ〜」
「紅さんが自然に心変わりするのは有り得ないですね。でも、あれは恋愛感情を超えて忠義でしょう。初めて会ったときに交わした約束とかいうのを律儀に守っているだけで」
「う~ん、やっぱり、外野がこれ以上ああだこうだ言ってもどうにもならないんだよ〜。僕たちにできるのは、見守ることと……賭けることくらい」
「俺は虎丸が振られるほうに二十銭でお願いします」
「結局そっちなんだ!?」
「先輩たちが騒いでいたので、必要ないと根拠を示しただけです。誰と誰がくっつこうが実際は興味ありません」
「ほんとは虎丸くんを心配してるくせに〜。じゃあ僕は成就するほうに、期待を込めて三十五銭~☆」
「ふたりとも遊ばないで」
姉の話題になると茜は存外冗談が通じない。
穏やかに微笑むメイド少年から発せられた思わぬ低い声に、青年ふたりは戦慄して黙ったのだった。
***
しばらくして、お粥の香りが立つ土鍋を持った文乃が台所から出てきた。
「わ~美味しそう。卵とほうれん草が入ってるんだ。ママンの手料理はいいよね~」
「ありがとぉ。作りながらさっきの話、聞いてたんやけどな?」
「台所からわりと距離あるのにね?」
立派なテーブルセットと複数のソファが鎮座する洋館の食堂は広く、隣り合っているといっても台所はかなり奥にある。
が、この母に関して仲間たちは疑問を持つのをやめた。
「細かい事情はわからへんけど、みんなうちの息子のこと真剣に考えてくれてるんやなぁって伝わってきて、ええ友達ができたみたいで嬉しいわ。片親やから経済的な事情で高校辞めることになってしもたし、愚痴とかはなんもなかったけど同級生と会われへんようなって残念そうやったから」
「でも僕、ちょっと怒らせちゃったかも」
「大丈夫やで。今は発熱のせいで駄々こねとるだけで、あの子は世話焼くのも焼かれるのも好きやから。ほんま、死んだお父さんにそっくりやわ」
「うんうん、そうなんだ~。死んだパパに似て……。えっ?」
「は?」
十里と文乃の会話に割って入るように、拓海が聞き返した。
「それは、書類上ですか。失踪扱いとか」
「いやいや、ちゃうよ。拓海くんもまだ子供やったから覚えてへんか。うちは向こうの実家に大反対されて結婚したから、葬儀も大阪ではできへんかったしなー」
「本郷真虎先生……文壇からは姿を消して著書の発表はしなくなりましたが、文芸誌も創刊しているし、現在もあの名前で活動してますよね」
虎丸の父・真虎について。
世間的にはもともと家族も経歴もほとんど伏せられていた人物ではあったのだが。
死んだという話は、大阪で近くに住んでいたはずの拓海も聞いたことがない。
女学校で父子が再会したとき──たしか、虎丸は『あのクソ親父、平然と生きとるやんけ!』と言っていた。
そもそも、だ。
ここにいる仲間は三人とも本人に会っている。
黒菊のボス、菊小路鷹山に付き従う本郷真虎に。
拓海の困惑も知らず、文乃は話を続けた。
「文学の世界のことはよう知らんねん。名義だけ引き継いだ別の人ちゃう? 世間には一切公表されてへんしなぁ。でも、うちの人は虎丸が小学生のときに肺の病気で亡くなってるで」




