十八 西から来たる人は太陽のように
「藍ちゃんは静かやったな。化鳥に逢いたそうやったのに、意外とあっさりっちゅうか。やっぱり中身が違うからなんかなぁ」
まだ体調は万全ではなく、頬が火照っていた。自分の部屋へ戻る前に冷たい水で顔を洗っていこうと、虎丸は井戸に向かう。
裏庭に回ると、いつかおみつとふたりで話をした赤い布敷きの長椅子に人影を見つけた。
「あ、紅ちゃん」
「おー」
「ジュリィさんの怪我は? 大丈夫やった?」
「拓海が手当したからだいじょーぶだよ。めずらしくすげー叱られてたな、後輩に」
そう答えた横顔に憂いは感じられない。おそらく十里ももう落ち着いたのだろう。
両手を後ろについて、どこかぼうっとした様子で洋館の周りにそびえる山々を眺めていた。
「寒ない? 暗くなってきたし、からだ冷やすで」
「鍛えてるからへーき、へーき」
「ならええけ、ど──」
話している途中で急に眩暈が起こり、視界が揺れた。
どうにか地面に手をついて倒れるのを逃れる。起きあがるのも久々だというのに、無理しすぎてしまったようだ。
「おいおい、人の心配してる場合じゃねーだろ。部屋戻れる?」
「んーちょっと休めば歩ける、と思う」
「こっち座れよ。あ、膝貸してやろーか?」
「へっ!?」
一瞬聞き間違いかと思ったが、紅は自分の膝をぽんぽんと叩いている。
そこを貸すとは、つまり。
「膝枕……!? あの伝説の……!? えっ、そんなこと起こる?? また偽者!?」
「ニセモノだった事実は一度たりともねーから。いらないならいーけど」
「いるいる、いります! もう限界で今にも死にそうなんでぜひ!!」
「や、そんな状態でうろつくなよ」
ツッコミはもっともだが、この機会は逃したくない。
気が変わって拒否されないうちにと背もたれのない長椅子に座り、隣にいる紅の膝に頭を乗せた。
「し、失礼します? うおお、なんやこれ。なんやこれ……」
「んーまだちょっと熱高いな」
頬にあたる感触ですら未知の世界なのに、次は額に柔らかい手のひらが落ちてきた。
具合が悪いおかげでこうなっているはずだが、緊張しすぎてもはや本当に悪いのかどうかすら不明である。
「あかん、とめどなく鼻血がでそうや」
「じゃあ出血多量で死ぬ前に下りろ」
「十秒で終わり!? そんな殺生な!!」
必死に懇願すると、冗談だったらしく下ろされたりはしなかった。相変わらず口は悪いが、病みあがりだからか普段の何倍も優しい。
塩対応に慣れきった虎丸からすれば、今の状況は奇跡そのものだ。
「極楽浄土……? 明日死ぬんかな……。しかもめっちゃええ香りする……」
「この匂い、今日はコロツケだなー。いっぱいあるかなー」
台所からほのかに夕飯の支度の匂いが届いている。虎丸が言ったのは娘の長い髪から漂う香油のことだったのだが、変態扱いされかねない発言なので黙っておく。
「これさ、桜の木なんだけど」
と、ふいに紅が話しだした。
指を差した真上には、大きな枝が伸びている。正面ではなく裏庭にあるのがもったいなく感じるほど見事な桜だ。
「四年前、ここで初めて八雲部長と出会った」
「へえ?? なぜに裏庭……」
「桜の花びらが舞ってる中に立ってて、夢みたいに綺麗な男だと思った。もしかしたらほんとうに人間じゃないんじゃないかって」
虎丸は紅(の膝枕)で頭がいっぱいでも、彼女が思い浮かべるのはやはり八雲のことか。
膝に寝転んだまま姿勢を変え、虎丸も空を見あげる。だが、冬なので無論花は咲いていない。
自身の恋慕を馳せるように、紅は濃紺に変化していく吸い込まれそうな空を眺めていた。
「もう四年も一緒にいるのに、今でもぶちょーがぜんぶ夢だったみたいにふっと消えるんじゃないかって思うときがある。なんでかな。出会った日の記憶が非現実的すぎたのかも……。でも、そのとき主とも初めて会って、約束したんだ。ずうっとあの人を守ってみせるって。絶対に、ひとりにしたりしない」
冷たい色をした白い月が、枝の間隙にはっきりと浮かんでいる。
娘の切り揃えられた前髪の先が、光をとおして赤く透ける。
「そーだ、そうだった。もう、迷うのはやめる。ジュリィだって仲間がいなくなるのが嫌なだけなんだよ。話せばわかってくれる。八雲部長を敵から守って、感情を戻して、望みを叶える。だいじょーぶ、きっと元通り、またみんなで暮らせるからさ。だから、オマエも心配しなくていいよ」
報われなくてもいい、自分は幸せになれなくてもいいと紅は以前言い切ったが、虎丸が聞いた八雲の本音をもし知ることができたら。
誰よりも体を張っているこの娘が、一番報われるに違いない。しかし、同時に八雲がいなくなる未来も知ってしまう。
「──って、寝るのかよ! 聞けよ!」
なにも言えず、心地よい声を聴くうちに、虎丸はいつのまにか目を閉じていた。
「もお、風邪ひくだろー。オマエが悪化したらおれまで拓海に怒られるっての」
紅が首元に巻いていたショールが体にかかる。体温が移っていてほんのりとあたたかかった。
熱が上がってきたのも相まって、意識は朦朧としていた。
赤髪の娘が青年の頬を伝うものに気づく。
「ん、なんで泣いてんだ……?」
細い指先が、涙の跡をぬぐった。
***
若い男女の逢瀬を陰から見守るは、ふたりの人物。
「声をかけたいんだけれど、ものすごーく邪魔しづらいねえ……。虎丸くんにとっては千載一遇の幸運だよね、今」
本館の裏口から顔を出して盗み見しているのは、さきほどまで八雲と喧嘩して仲間を騒がせていた十里である。
茜の用意した清潔な着物に着替えており、首から右肩にかけて白い繃帯に覆われている。怪我をした場所が場所だけに見た目は痛々しいが、利き手とは逆なので日常生活に支障はなさそうだ。
そして隣にいるのはメイド姿の茜。わなわなと震えながら、ヒビが入りそうなほどの力でお盆を握りしめていた。
「ねえ十里さん、あの空間に蛇を投げ入れてきていいかしら……」
「え。茜は八雲部長より虎丸くん派だと思ってた。応援してたんじゃないの?」
「そりゃあ弟として姉には幸せになってほしいけど、いざ目の当たりにすると悔しさがこみあげてきて……。紅ちゃんの膝枕は子供の頃からぼくだけの特権だったのに……!」
「男口調に戻ってるよ? シスコンは大変だねえ〜」
茜は以前も虎丸がおみつの手首を掴んだとき、さりげなく引き離したりしていた。
しっかりしているようで、最年少だけあって子供っぽい面もある。意外と嫉妬深いのである。
「先輩、虎丸いました?」
館の中から、もうひとりの声。
十里と手分けして虎丸を探していた拓海だ。
「あ〜、今はちょっと……」
「拓様、虎丸さんはあそこよ?」
「なんだ、いるじゃないですか」
「茜、邪魔者をわざと派遣しないで」
紅の膝で眠っている虎丸の姿を見つけて、美青年はためらいもせず裏庭に出ていった。
「行っちゃった。さすがはうちで一番強靭なメンタルの持ち主~」
「拓様、空気を読まないところも素敵……」
拓海は鈍いわけではないので、非常にわかりやすい幼馴染が赤髪の娘に想いを寄せているのは気づいている。自身が色恋沙汰に興味がないせいでとくに意に介さないだけだ。
「虎丸、話がある」
「んっ、拓海?? あ~なんかいつのまにか寝とった。……このままでも?」
「大事な話だから起きろ」
「ですよねー」
至福の時間は終わりだ。虎丸はしぶしぶと起きあがった。
拓海に続いて、十里と茜も出てきた。
「紅、ごめんね、あとでまたしてあげて」
「いやもう大丈夫ならしねーけど。そんで、どーした? 聞かないほうがいいなら席はずすか?」
「それは虎丸くんに決めてもらうよ。僕と拓海しかまだ知らないからさ。もう同じ失敗はしたくないから、ちゃんと話したいんだ」
座っている虎丸に合わせて、十里は椅子の前で少しかがんで体勢を低くした。
視線の高さが揃うと、翡翠色の瞳はまっすぐ虎丸を射した。
「さっきのケンカの話ですか?」
「いいや、部長の件とはまったく別。きみのお父さんのことだよ」
父の話。
まさか十里の口からそうくるとは思わず、反射的に体がこわばる。
「悪い報せを隠そうとするのは、僕の悪い癖だ。知らないのがいつでも幸せなわけじゃないのにね。紅と茜には席を外してもらう?」
「いや〜、べつに知られたくない理由もないんで大丈夫です。むしろ一緒に聞いてもらったほうが、気が楽かも」
悪い報せ、と聞いて。だからこそ皆にいてほしかった。
今までは危なっかしい作家たちを助ける側に回る機会のほうが多かったが、父の存在は虎丸にとってただひとつの消えないしこりのようなものだ。
自然と仲間に頼れる、今の関係性が嬉しかった。
「このあいだ、小石川の女学校で本郷真虎に会ったよね。きみのお父さん。あのとき拓海が『診察』の能力で気づいたんだけれど……」
赤髪姉弟は、吉原遊廓で会った大作家が虎丸の父だということさえ初耳だ。驚いていたが、話は遮らなかった。
十里が視線を送ると、話し手が拓海に代わった。
「本郷真虎は……肺を病んでいる。もう長くないどころか、常人だったらとっくに臥せっているか死んでいるような状態だ。目もほとんど見えていない」
「……病気?」
ぼそっと繰り返した虎丸に、十里が心配げな声をかける。
「虎丸くん、大丈夫?」
「平気やけど、どういう感情を抱いていいのやら……」
悲しむには思い出が足りず、興味がないと捨て置くには憧憬と怒りが強い。
ただ、戸惑った。それが虎丸の素直な感想だ。
「僕たちでよかったら、聞かせてくれないかな? 虎丸くんがパパとどういう関係だったのか。話すだけでも、気持ちの整理になるかもしれないし」
「ん〜、パパ……パパなぁ〜。なんやろ、ちっちゃい頃は親父のことすごい好きで、せやからオレは文学にも小説家にも憧れて……」
そのときだ。
「ごめんください」と正面玄関のほうから声がした。裏庭にも聞こえるほどのよく通る女性の声である。
「あら? お客様かしら」
「馬車の音はしなかったよな。まさかバス停から徒歩か? こんな探さないとたどり着けない洋館にわざわざ歩いてくるなんて、どこかのむっつり編集者・虎丸じゃあるまいし」
紅と茜が顔を見合わせて首をかしげる。
「やっと見つけたわぁ。すっかり暗なってもうたなぁ〜」
続いて、関西訛りの独り言が聴こえてきた。
──ん? この声、まさか。
思いきり覚えのあるのんびりとした口調に、拓海も反応した。
「虎丸、もしかして文乃さんじゃないか?」
返事をしようとした矢先、ものすごい勢いで十里が横槍を入れてきた。
「えっ、誰だい、その女の人!? まさか将来を約束してる相手を大阪に残してきたわけじゃないよね!? 虎丸くんが東京ではっちゃけて浮気してないか確認しにきたとか!? もう、隅に置けないね〜☆」
「紅さん、あの人はこの世で唯一虎丸に手料理を振る舞ったり、繕い物をしたりしてくれる人です」
「へえ、甲斐甲斐しいな。べつにおれには関係ないしどうでもいーけど」
「虎丸さん……? そういう事情なら二度と紅ちゃんに触らないでもらえるかしら? 定職に就いてるのと、モテないから浮気できないところだけが取り柄だと思って応援してたのに……」
「いやいやいや、まった、全員ちょっとまった!」
完全に混沌と化した場を収めようと、大慌てで叫んだ。
「ジュリィさんは絶対わざとやし余計なこと言わんといて? 拓海は印象操作やめろ! 紅ちゃん、ちゃうねん、誤解や。茜ちゃんはオレのことそんなふうに思ってたん!?」
文乃さんとは。本郷文乃、四十歳。
大阪に残してきた、将来を約束した相手──などいるわけがなく、虎丸の母である。
第十二幕【雲雀あがり、心悲しも】 了




