十六 物語るは告天子、破滅を齎すは大魔縁
虎丸たちは八雲の自室である離れに移動し、それぞれ畳の上に座った。
「虎丸君、伊志川化鳥の筆跡に違和感がある、と言っていましたね」
タヌキのアンナを膝に乗せ、自分の座布団に正座した八雲が話を切り出す。
「ああ、はい。違和感っちゅうか、異物感? 八雲さんと化鳥は性格とか正反対なようでじつは結構似とるし、根本で同一人物なんやなーってのはわかるんですけど、あいつが書く文字だけは八雲さんと違う。なーんか第三者の感情というか、おどろおどろしいもんを感じるんですよね」
「おどろおどろしい、ですか」
「そう。呪いとか、怨念みたいな? あっ、怨念が、おんねん……」
「藍、押入から煙草盆を出してくれますか」
「はいよ」
「こういうときだけ連帯して流さんとって?」
細い煙を吐くその顔は、やはり夢で逢った伊志川化鳥と同じだ。
夭折の天才は十九で自死しているので、少々面差しに幼さが残っていたというくらいか。烈しい彼と違って涼しげな表情の八雲は言った。
「とてもいい着眼点ですね。あなたは操觚者でもないのに、他者の感情の気配に敏感なようです。彼の文字に宿るのは紛うかたなき、隠しきれない憎悪の怨念なのですから」
では──とある怨霊の物語から語りましょう。昔々の、物語。
と、青年作家は瞳を閉じる。
「以前にも説明しましたが、物の怪の成り立ちは様々です。人間や獣などの生き物はもちろんのこと、無機物や流説といった本来命の宿っていないものさえ媒体となる。感情が宿る余地があれば、なんでも物の怪となり得るのです。ところで虎丸君は、日本で三大怨霊と呼ばれる存在を知っていますか」
八雲が隠している秘密とどう繋がるのかはわからないが、とりあえず聞かれるままに答えた。
「ええと、菅原道真、平将門、あとは最も恐ろしいって言われとる崇徳院ですよね。そりゃ有名なんで知ってますけど、伝説でしょ~? 霊とかそういうの無理でーす」
「何度も闘ってきたのに、今更現実逃避をしないでください。これらの名だたる怨霊たちが本当に本人そのものなのかはわかりませんし、確かめようもありません。ですが、人々にはそれだけ信じられ、恐れられたのですよ」
誰かの強い感情が、物の怪を、怨霊を産む。
高尾姫のときも、白鬼子のときにも虎丸は耳にし、目にしてきた。
恐怖の感情が百人の武士を映しだし、絶望の感情が母親の姿をした黒鬼を作った。
「それはわかりましたけど……物の怪や怨霊が、化鳥と関係があるんです?」
「あるのです。これから話すのは、不義の子ではないかという出生の疑惑から不遇に見舞われ続けた悲運の帝、崇徳院について説話です」
落ち着きのある静かな声で、作家は物語を紡ぎだした。
どこまで本当なのか、どこまで虚構なのか、誰も知らない昔々の物語。
多くの戦が勃発し、動乱に満ちた平安の後期。
父から疎まれ続け、最終的に天皇の位から引きずり下ろされた崇徳院は、『保元の乱』で実弟の後白河天皇に破れて島流しとなりました。
そして終生の土地となる讃岐で、百九十巻にも及ぶ五部大乗経を一文字一文字、自らの血文字で写経して過ごします。
しかし、世の安寧と和解の願いを込めたはずこの行いは、またもや後白河天皇に徹底的に拒否されてしまうのです。弟に送った文箱は突き返され、中には破り裂かれた血書経が入っていました。
憎しみに身を窶した崇徳院は舌を噛み千切り、生きながら天狗の姿に変貌します。
必ずや、日本国に災いを齎す大魔縁と成らん──
そう呪詛の言葉を残し、天下の滅亡を願いながら崩御したと『保元物語』では綴られています。
この説話は史実を下地にしていますが、創作と脚色が大いに混じった軍記物語であり、どこまでが真実か現代の私たちには知りようもありません。
しかし──崇徳院の命日前後になると不吉な天災が続き、大正となった今の時代にもまだ鎮魂の儀式は行われています。厄災が偶然だとしても、人々の恐怖は増大する。後年に『椿説弓張月』や『雨月物語』が流行した影響もあって、非業の死を遂げた帝はこの国に根差す怨霊となってしまいました。
八雲は一息に話したあと、最後につけ加えた。
「歴代の帝室が祀り鎮めてきた怨霊を、その力を欲した大蔵大臣・菊小路鷹山は多大な資金と人をつぎ込んで、この世に蘇らせようと目論んだ」
ようやく、大昔の伝説が現在と繋がる。
「もしかして、それって……」
「つまり、混ざったのか。『狂人ダイアリイ』と、崇徳院の怨霊が」
藍が横から要約すると、八雲は静かにうなずいた。
「はい、崇徳院の伝説こそが、文字の力の発端。激しい憎しみの感情に呪われた血書経が媒体となって、現実を虚構に塗りかえるほどの強大な力を持つ物の怪『幻想写本』が生まれました。帝室が厳重に封じていたのですが、あなたたちも知っているように菊小路の目論見と“とある天才少年”の手によって封印は解かれてしまった。さらに私が物の怪を抑えようと自分の小説に閉じ込めたせいで、伊志川化鳥の人格と記憶が合わさり、この大正の時代で新たな姿を得てしまったのです」
話が壮大すぎてついていくのがやっとだが、要するにずっと何者かわからなかった化鳥は物の怪なのだ。
しかも帝国最凶の超危険な、である。
一応理解したつもりの虎丸は、なんとも呑気な意見を口にした。
「百九十巻分のお経を血文字で、かぁ。そら筆跡からものすごい怨念感じるはずやな……。でも人格は化鳥でしょ? あいつ、ただの寂しがりですよ。物の怪でもべつに大丈夫とちゃいます?」
「物の怪を人間の常識で計ってはいけません。問題は『幻想写本』が八百年の時をかけ、人々の恐怖と信仰によって増幅した真の災いだという事実。あれは肥大した『憎悪』そのものです。菊小路も一点勘違いしています。この厄災を掌中に収め、思い通りにできると思っている。誰よりもこの国を憎み、破滅を願って怨霊と化した説話が根源だというのに」
八雲にしては鋭い口調で、あっさりと突っぱねた。
「実際に見ればわかります。あなたたちふたりがいれば大丈夫でしょうから、今から彼を呼びますが──絶対に付け入られないでくださいね。私の、もうひとりの使い魔です」
八雲は自らの指先を噛みちぎり、空中に流麗な赤い文字を描いた。
瀬を早み 岩にせかかる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ
百人一首にも入っている崇徳院の歌だ。
その意味は『ふたつに分かれた川がひとつになるように、あなたと離れてもまた逢えますように』。
「──嗚呼。また逢つたな。虎丸」
鼻先が触れそうな至近距離に突然現れた、紅色の面。
いつのまにか化鳥がすぐ目の前に立っていた。手に持った木笏で、虎丸の頬をぺちぺちと叩いてくる。
「うおお、出たな、化鳥! あ、夢では暗くてようわからへんかったけど、その恰好ってもしかして……!」
物の怪としての化鳥がどんな姿をしていたのか、ようやく全貌が判明した。
平安時代の帝が着ている御引直衣。元は白かったようだが血に塗れ、乾いて柿色に変色している。裸足の爪先が覗き、地面から少し浮いている。
背には光を孕んで黄金に輝く、鳶の翼が生えていた。
「ええっと、天狗……!?」
衣装こそ帝っぽさに寄っているが、鳶の翼や嘴の尖った面は世間に浸透している天狗のイメージそのものである。
生きながら天狗となった帝。そして伊志川化鳥。
さきほど藍が“混ざった”と表現していたが、まさに言葉どおりだった。
「うわー、こんなに派手やったんかい! キンキラキン化鳥!」
「美意識の低い呼び名を附けるな絞めるぞ」
「じゃあ『大魔縁・伊志川化鳥』とか」
「ハッ、悪くない」
「ええんや?」
話し始めると、まるで数日ぶりにあった友人のような調子だ。
化鳥はあたりをうろうろ飛び、八雲の首に背後から腕を回したりとまとわりついている。
どちらも本体ではない、すでに亡き天才・伊志川化鳥の人形と物の怪。同じ顔のふたりが共にいる光景は、妖しくもどこか退廃的な雰囲気だった。
「ちなみにですが、『狂人ダイアリイ』が完成して完全体になれば髪も金色になる予定です」
「へえ」
と、八雲も冗談を口にしたので(本気かもしれないが)、虎丸はひそかにほっとした。
──ああ、よかった、やっぱり大丈夫や。
化鳥の機嫌もええし、なんか知らんけどオレを気に入っとるって言うとったし。構ってほしいだけなら案外仲良くやれそう……や、な……。
そのとき、プツンと。
虎丸の思考は中断した、いや、強制的にさせられた。
知らない映像が無理やり流れ込んでくる。周囲の景色がめまぐるしく変化する。
生命は死に絶え、地は割れ、草木が枯れ、空が澱み、海川は濁り、黄泉と化する。
ここは、すべてが壊れたあとの世界。
そう、彼が望む結末を見せられている。
遠くで高い笑いが聴こえる。かと思うと、すぐ耳元で蠱惑の声が囁いた。
『虎丸、貴様も共に來るか? 何人にも邪魔されぬ、誰も彼もが死に絶えた世界で、貴様“だけ”を俺の所有物として残してやらう。久遠の地で、骨まで愛でてやるぞ? 何しろ俺は、貴様を氣に入つてゐるからな』
目の前にまた、物の怪が立っている。
片手で覆うように面が外されると、よく知る端正な顔が現れた。
隠れていた瞳の色は、翼と同じ冷たい金色。
──あかん、無理や。
絶対に、わかり合えへん。人とは決定的に思考回路が違う、感覚が違う、これが、真の──
彼は滅ぼしたいのだ、自分をないがしろにしたこの国を。
彼は遊びたいのだ、自分を死にまで追い込んだその感情で。
今まで会ったどんな物の怪よりも、強く、激しい感情を内包している。
彼が、いや彼らが纏うは『憎悪』。
望んでいるのは、破滅のみ。
“真の厄災”
その意味を、虎丸はようやく理解した。
注釈
※崇徳院は本来崩御後のみの呼び名ですが、逸話として話しているため、あとごちゃごちゃになるので統一してます
※大魔縁→大魔王、大悪魔みたいな意味
仏教的にいうと第六天魔王、または魔界に堕ちて天狗になった者のこと




