十一 ちゃんとここで生きて、それから
「虎丸、はい、あーん」
「は!? だれ!? 偽者!?」
重湯を掬ったスプーンをまじまじと注視したあと、虎丸は思わず叫んだ。
場所はタカオ邸に滞在中ずっと借りている自分の部屋。
ベッド脇に座っているのは、小柄な赤髪の娘。
まさか紅からこんな看病を受けられるとは、夢にも思っていなかったのである。
「だれがニセモノだ。さっさと食わねーとぶっ煞すぞ」
「あ、やっぱり本物……」
「こうしたら食欲出るかもって茜が言ってたんだよ」
「逆に警戒するわなぁ」
「なんでもいいから食えって。一週間も寝てたのに、水しか飲んでねーじゃん、オマエ」
一週間か、と虎丸はぼうっと遠くを見る。
まだ頭は働かず、体も重い。目覚めてから体感で一時間ほど経っていたが、紅の言うように口にしたのは水だけだ。薄い塩味のきいた一匙をどうにか飲み下した。
「手作りご飯とか、もはや新婚やん……。にせもんやったとしてもこれで既成事実が……」
「だからニセモノじゃねーし、作ったのは茜だっての」
そのときちょうど扉が開き、茜が入ってきた。湯を張った木桶と手拭いを抱えている。仕事中ではないようで、メイド服ではなく男物の着物姿だ。
「虎丸さん、具合どう? 少しは食べられた?」
「うん、ありがとうなぁ」
「まだ一口だろ。もっと食え。ほれ」
紅がスプーンを持ってぐいぐいと迫ってくる。半ば強制的に、器に入っていた重湯がなくなるまで次々口に押し込まれた。
「ぜんぶ食った? ちゃんと飲み込んだ?」
「食べた、ちゃんと食べました!」
完食したのを確認すると、紅は布団の上から虎丸の腿あたりの位置にぼすっと顔をうずめた。
「こここ紅ちゃん!?」
「オマエまでいなくなるなよ、絶対に。ちゃんとここで生きてろ」
「それって……つまりオレと結婚したいとかそういう」
「そういうのじゃない全然」
「あ、はい、すんません」
「すげー不安だったんだよ、オマエがあのまま起きないんじゃないかと思った」
ぬるま湯に浸した手拭いを絞りながら、茜が言った。
「虎丸さん、替えの浴衣を持ってきたから汗拭こうか。紅ちゃんは少し出ててくれる?」
「ん、わかった……」
紅は顔をあげるが、まだ気落ちした表情だ。茜も察したのか一言つけ加えた。
「じゃあ、台所から林檎持ってきてよ。食べられるならもっと栄養取らないとね」
「よし、まかせろ! 薙刀でなら斬れる気がする」
「えっと、ぼくがやるからナイフといっしょに持ってきてもらっていい?」
「もしくは包丁を使った武道だと思えば、案外いけんじゃねーかなぁ」
不穏な台詞を言い残して出ていったが、少しは元気を取り戻したようだ。
脱いだ浴衣は重たく湿っていた。眠っているあいだに相当な汗をかいていたらしい。茜に身体を拭いてもらうと、徐々に思考も明瞭になってきた。
「ほんまにちょっと回復してきた気ィする。無理やりやったけど、栄養は大事なんやなー」
「あんなに必死だったのは、拓海さんが食事を取れたら大丈夫だって言ってたからだよ。すごい心配してたんだよ。虎丸さんが全然目を覚まさないから、毎日泣きそうだった」
「……紅ちゃんが? そんなことある?」
「あるよ! ぼくの姉をなんだと思ってるの。ぼくも、ほかのみんなももちろん心配してたよ。でも、不思議だね。眠っているあいだ、幸せそうというか……なんだか安らいだ顔に見えたよ」
こうして目覚めることができたのは、おそらくあの男のおかげなのだ。
夢の中で伊志川化鳥に会ったと仲間に話しても疑われはしないだろうが、事情を勝手に覗き見したようでやや気まずい。
しかも、化鳥は虎丸を気に入っていると言っていた。またしても幽霊や物の怪に構うなというルールを無視したせいで懐かれたのかと怒られそうだ。
幽霊なのか、物の怪なのか、はたまた別物なのかはわからないが。
「あの話、八雲さんと藍ちゃん……あとジュリィさんにも、いきなりは切り出しづらいよなぁ。うーん、こんなときはとりあえず拓海やな。拓海は?」
「今、十里さんと出かけてるよ」
「そうかぁ。って、あれ? オレなんで寝てたんやったっけ?」
一週間も目覚めなかったのはすでに聞いた。
が、眠りに落ちる前はどこにいただろうか。
小石川の女学校で、敵と闘った。それから、十年近く会っていなかった父親と再会した。
そもそも、女学校に行った理由は──
「あ。おみつちゃんは? 仕事中?」
もし紅が台所で薙刀だか包丁を振り回したりしたら、またケンカになっていそうだ。夢では静かな暗い場所にいたためか、娘たちの騒がしい声さえも聴きたい気分だった。
虎丸の着替えを手伝っていた茜が、動きをとめた。
そして、紅がしたのとまったく同じ格好で布団にぼすっと顔を埋める。
「おーい、茜?」
「おみつちゃんは、消えちゃった」
一瞬、呼吸を忘れる。
「間に合わへんかったってこと……?」
「どっちにしろ、無理だったんだって。人ひとりをこの世に留めるにはすごくたくさんの想いが必要だから、一般人なんていなくなったらすぐ忘れられちゃうって」
「でも、オレは忘れてへん。茜も、タカオ邸のみんなも」
「それでも、それだけじゃ、無理だった。だから、日に日に存在感の薄くなっていくおみつちゃんを見ていなきゃならなかったから、白玉はずっと苦しんでいて──」
数秒言いよどんだあと、茜は顔を伏せたままで言った。
「白玉も、いなくなっちゃった」
「……え?」
目覚めれば、大事な仲間がふたりも消えていた。
『オマエまでいなくなるなよ』
さっきまで頭が働いておらず反応できなかったが、紅の言葉が後頭部を殴られたようにいまさら届いた。
『おまえは誰も救えない』
もうひとつ、声が降りかかる。夢で見た湖でも、呪いのように幾度となくこだましていた声。
なぜ、女学校に現れたのだろう。
なぜ、いつから、蔵相率いる組織『黒菊』にいるのか。
自分の大切な仲間の問題に、どう関わりがあるというのだろう。
なぜ、父が。
***
敵の根城、吉原遊廓の巨大妓楼。
地下に隠された豪華な一室の前に、三白眼の青年が立っている。
「失礼し……まァす。名刃里……じゃねェ……永鷲見獏で、す」
敬語がやや苦手なこの若者は、恐怖小説の名手として人気のある作家『名刃里 獏』。本名を『永鷲見 獏』という。
木製の車椅子を脇目に見ながら、襖を開ける。
黒い菊の家紋が入った金屏風の前に座っているのは、大蔵大臣の菊小路鷹山。眼帯を片目につけた、隻眼の老人だ。
隣に元伝説の遊女と呼ばれる胡蝶太夫もいる。
文芸誌『黒菊』の出資者だが、このボスが自分たちの作家活動にまったく興味はないと獏は知っている。
だからこそ、獏は筆名ではなく本名で名乗るようにしているのだ。
「永鷲見公爵家の遺子か。君も一杯呑むかね?」
「いえ、小生……自分、酒はあまり呑めません。報告に来ま、した」
菊小路は盃をぐいと傾け、黙って続きを待っていた。
この老人は、下の者に勧めを断られても気に留めない。だが決して寛容ではなく、体面やメンツという無駄な物事に感情を割かないだけである。
「召集をかけられていた黒菊四天王および、新世代実験体の四名……『鬱金香』『海石榴』『藤』『茉莉花』。計八名、全員吉原に揃いまし、た」
「追って指示を出す。待機しておけ」
「……承知」
短く返事をして一歩下がった獏を、菊小路は呼び止めた。
「待て、君だけまだ仕事がある。新しいリストだ」
渡された紙は、菊小路にとって邪魔となり得る権力者の一覧だ。
抹消命令だと見なくともわかっていたが、蔵相の手前、一応目を通すふりだけした。
これまで、獏が暗躍して葬ってきた数は十人を超える。
最初はひとり、ふたり。しかし『政治家の神隠し』の報道が広まってから、噂に乗じるように仕事が増えた。新しいリストには五人の名がある。
沈黙している獏に、老人は冷たく語りかける。
感情はこもっていないが妙な圧力と説得力を持つ、民衆を動かせる者特有の声だ。
「君が行っているのは謀略の一部だ。そう、君の父上が死んだ理由も同じ。そこに精神性など介在しない。だからこそ、気に病む必要はないのだ。苦しみなどという無駄なものから逃れろ」
父と聞こえた瞬間に体が硬直したが、耐えた。直情的で粗暴なこの若者が、逆らえずにいる相手はこの老人くらいのものだ。
無言で頭を下げ、今度こそ退室した。
「はあ~~~~あァ。なんかわかんねェけど、うざってェ……」
長い廊下を戻りながら、盛大にぼやく。
複雑な思いを抱えているが、深く考えるのは苦手だ。獏自身も自分の気持ちを処理できていない。
だからこそ、すべては復讐のために。
ほかのことには、気を取られないようにしていた。
ばたばたと階段を下りてくる足音が響く。見あげると、華やかな着物の柄が視界に入ってきた。
「獏ちゃん!!」
「あァ? なんだ、茉莉花か……って、ぐォ!?」
黒菊四天王は、それぞれひとりずつお付き兼弟子を抱えている。周には海石榴、偲には藤である。
獏のお付きは、茉莉花という。
見るからに高価な振袖を着た少女が、階段を蹴って上空から獏に飛びついた。




