六 送り火が連れてゆくのは、あなたの光
中尉をともなって阿比の部屋に向かうと、ちょうど世話係の女中が廊下に出てきたところだった。体を拭いていたらしく、湯をはった桶と手ぬぐいを抱えている。
さして気にもせず横を通りすぎて戸に手をかけた瞬間、いつも感情を押し殺したように仏頂面の女中が露骨に迷惑そうな顔をした。
「お嬢様はもうお休みになられています。それに、若旦那のお客様といえども殿方の入室はご遠慮いただきたく……」
「自分は医師です。起こしたりしませんので、少し具合を診せてもらいますね」
口調は柔らかいが、笑った顔に『問答無用』と書いてある。
公爵家の嫡男である永鷲見万里中尉を無下に扱うわけにはいかないため、女中はぐっと声を詰まらせて返答を迷っていた。
家の中に流れる空気で藍はだいたい察していたが、阿比の病が外に漏れないよう使用人はきつく口止めされているのだろう。もともとの命令と公爵家の客人の要求、どちらを優先するべきかを考えていたようだ。結局、黙って引き下がった。
音を立てないように気を遣いながら、ゆっくり室内に足を踏み入れる。
湿気の滞った部屋の片隅で、阿比は静かに眠っていた。
「永鷲見中尉殿、意外と威圧感ありますよねぇ。俺、勤務中も中尉殿に叱られるのがいちばん怖かったですもん」
「これでも、華族の社交場で笑顔を張りつけてバチバチと渡り合ってますから。ところであの女中、宴の席でも気になりましたが少し挙動不審ですね。一応注意していたほうがいいかもしれません」
「あー、なんか、雲雀がいうには俺に惚れてるらしいすよ。なのに中尉殿の共寝相手にあてがわれそうになって、焦ってたんじゃねえかなー」
「雲雀くんの証言なら、貴公の自信過剰ではなさそうです」
藍の軽口に冗談交じりの皮肉で返し、重たげな鞄を畳の上に置く。
薄暗闇ですら浮いて見えるような朱に金糸の刺繍が入った豪奢な絹布団が、かえって姉の顔色を悪く見せていた。
「では失礼して、少し触れます。藍くんとお姉さんはあまり似ていないんですね。すっとした目尻と鼻梁、白い肌は雲雀くんが受け継いでいるようですが」
淡々と眼球や口腔内を確認しながらメモを取っている様子を、藍が後ろから覗き込む。
「心の病の診察って、話したり反応を見たりするもんじゃないんですか? 眠ってるし明日また出直します?」
「いえ、この症状は……」
なにかを言いかけて、中尉はすぐに口を噤んだ。
──作為的、かもしれない。
確信を得ないうちに下手なことは言えないが……。まして、この家は火種を抱えすぎている。
このとき中尉が心の中に留めたのは配慮からだと、藍はあとで知ることになる。
しばらく押し黙っていたが急に振り返り、小声だがはっきりとした厳しい声で言った。
「藍くん、早急に母子ともども移動させましょう。自分は金沢市内の病院にツテがありますから、紹介状を書きます。設備の整った場所で一度ちゃんと診るべきです。そのあとは東京でもどこでも、離れた土地に移ったほうがいい」
「……? はい、中尉殿がそういうなら……」
***
中尉のために用意された客間で、ふたりは向かい合っていた。眠るための酒を軽く酌み交わしながら、虫の鳴き声に耳を傾ける。
さきほどまで何かを考え込んでいた中尉に、ようやく普段どおりの穏やかさが戻っていた。「すべては明日、はっきりわかったあとで伝えます」と藍に言ったきり、姉を診た結果をこの場で話すつもりはないようだ。
まるで何事もなかったように、夏の夜を肴に盃を傾けている。
「会ったことはないのですが、自分にも甥っ子がいるんです。今年はじめて弟が写真を送ってくれました」
「ああ、仏蘭西人と駆け落ちしたっていう弟さんの子ですか。おー、金髪碧眼? 顔立ちとか雰囲気が中尉殿にそっくりですね」
差し出された写真を見ると、雲雀よりも年少の子供が写っていた。モノクロームだが、あきらかに日本人よりも色素の薄い髪色と瞳だ。
枠外に『Juri』と名が走り書きされている。
「手紙にもそう書かれていました。なぜか父親より叔父である自分に似ていると。反対にうちの倅は、喧嘩っぱやくて腕白だった弟に似ています」
「国境を超えてスワッピングでもしたんです?」
「藍くん、鞣しますよ☆」
盃を手に持ったまま、中尉は柔らかい語調を変えずにさらっと言った。
「血縁は不思議なものだ、という話です。直系ではなくとも、幾人もの血が混じり合って子へと繋がっていく。いつか途切れることはあっても、血の繋がりなくして生まれてくる人間はどこにもいません。この際──意地を張るのはやめて、貴公がこの家を継いでみたらどうですか?」
仏蘭西の甥や弟の話はただの雑談かと思えば、本題はここに繋がるらしい。
「うへー、うちの状況を知ったうえで言ってるんですよね?」
「もちろん。貴公が当主になって絶対的な力を持てば、すべてを守れる可能性だってあります。一族の長とは、本来そういう存在です。どちら側が継ぐかの揉め事を一蹴するなら、あの子を養子に迎えることだってできますし」
「養子……」
周囲に言われるまま当主になるのは、この家のやり方に迎合することだと思っていた。
一族の長とは、本来家を守るもの。
反抗や逃げ道を考えてばかりで、藍が完全に忘れていた視点だ。
由緒ある公爵家を継がねばならない中尉の言葉だからこそ、なおさら説得力がある。
「分かれた一族を一本にしちまうのか。悪くない案っすね。全然悪くない。それなら俺が選ばれても、姉上や雲雀の立場はこれ以上悪くならないはず」
「そう、背負う覚悟があるのなら、パパにでもなればいいんですよ」
「パパって」
「どちらにしろ、今の環境は一刻も早く脱するべきです。大人でも子供でも、取り返しのつかない深い傷を心に負います。それではすべてが遅いんです。明朝、知り合いの病院へ一度話をつけに行ってきます。午後には戻れると思いますので、ふたりの移動の準備を秘密裏に進めておいてください」
そう言って、中尉は残った酒を静かに飲み干した。
「はい、色々とありがとうございます。中尉殿」
「子供はすぐに大きくなります。今しかないあの子の成長のひとつひとつを、ちゃんと見守ることができたら楽しいですよ。自分も倅とはたまにしか会えないのでよけいにそう思うんです。あと、休暇中ですから名前でどうぞ」
「万里さんって、俺と十も離れてないのにすげえ大人に見えますね。妻子持ちだからかな?」
「まだ十八のきみと比べたら、というだけです。藍くんは斜に構えているようで、結構実直で不器用でしょう。この先も、いつでも頼ってください」
徳利を満たしていた酒の最後の一滴が、音も立てず盃に落ちた。
開け放した障子戸からは夜の庭や空を見渡すことができるが、ずっと遠くの山あたりに鬼火のような光がぽつぽつと浮かんでいるのを見て中尉が尋ねた。
「あの灯りは?」
「ああ、山の中腹に墓地があるんで、キリコです。墓にそなえる燈籠みたいなもん。金沢の盆は七月なんすよ」
「なるほど。とても、儚げな火ですね」
明治に入り、新暦が一般的となって盆を八月とする地域が増えた。だが金沢ではひと月早く送り火が焚かれている。
遠くのキリコと、庭に放されていた蛍の淡い黄色が点々と闇に映える。
水に触れたみたいに柔らかくそよぐ風、ぬるい酒の味とともに見たこの景色は、藍にとって生涯忘れられないものとなった。
なぜなら、翌日の早朝に九社花邸を発った馬車が事故に遭い、永鷲見中尉は二度と帰らぬ人になったからだ。
遺体は一旦近隣の病院に運ばれた。しかし、家柄が家柄なので貨物列車ですぐ帝都に戻された。検死は公爵家のお抱えに任せなければならなかったらしい。
藍が事故のことを知ったのは、病院と永鷲見家とですべてのやり取りが終わった夕方近くになってからだった。




