五 籠の中の鳥はいつ出やる
虎丸は相変わらず、黒い湖の水面をぷかぷかと漂っている。
文字の塊に手足を取られて沈まなくなったのは、この男のおかげなのだろうか。
「なー、その話……」
「なんだ、貴様。折角聞かせてやつてゐるのに、文句有るのか」
なぜか仮面を被っているので表情は見えないが、声でわかった。
いたく上機嫌だ。
もっともこの男は、過度に上機嫌か不機嫌か、大別すればどちらしかないほど情緒不安定なのだが。
湖面にいるのに柿色の着物はまったく濡れていない。夢にも似た怪しげな場所にいるとはいえ、本当に不思議な男だ。
──伊志川化鳥……。
ここでは時間の感覚がほとんどない。ときどき零れる水の音のような調子でぽたりぽたりと語られているのは、この天才作家本人の幼少期の話である。
「文句っちゅうか、化鳥の子供時代が可愛すぎるんやけど、ほんま? だいぶ盛ってへん?」
「失礼な奴め。すべて事実だ。とは云へ、幼い時分の出來事を此れほど細部まで憶えてゐる訳ないだらう。後から叔父貴に聞いた話で補完してゐる」
「ほーん、つまり藍ちゃんから見たら、そうやったんやろなぁ。なんでこんなに荒んでしもたんや……」
「知るか。俺は十年以上もの間、『あの頃は可愛かったのに』とぼやかれ続けたんだぞ」
可愛がっていただけに、嘆きもひとしおだったのだろう。
化鳥の話をするたびにげんなりとしていた藍を思い出して、虎丸は少し同情してしまった。
「心中お察しするで……。で、阿比さんはその信頼できそうな軍医さんに診てもらえたん? いいひとっぽいやん?」
「彼の男は死んだ。──殺されてしまつた」
低くささやいた声には、悲しさよりも寂しさが強く滲んでいた。
誰に対しても尊大な物言いの化鳥が、『あのひと』と呼んだことからもわかる。
憎悪の具現のような遺作をのこして死んだ作家にとって、きっと数少ない『好きなひと』だったのだ。
「蘇つたもうひとりの八雲の喋り方は、あれに少し似てゐる。真似の積りだつたのかもな。若しもう一度生きるなら、どんな人間になりたいかと願つた末の」
仮初めの肉体は、死人の理想が反映された虚構の姿。
それが、僕の創った活人形です──と、白玉が虎丸に言った言葉を思い出した。
***
公爵家の次期当主が避暑にやって来る──
帝都よりお連れして参りますので、丁重な御迎を願上奉候。
夏の休暇が始まる少し前、藍は九社花家にそう手紙を送っておいた。
士官学校が始まって以来、数か月ぶりの帰郷となる。
当然伏せていたが、本来の目的は避暑ではない。永鷲見中尉に姉を診てもらうためである。
「このような天上の御方とお近づきになるなんて、やはりお前を帝国陸軍にやって正解でしたね」
庶民の出身である藍の母親は、傍で聞いていて情けない気持ちになるほど浮足立っていた。
「永鷲見様、妹君なんかはおられませんの? できれば未婚の」
「残念ながら弟だけです。現在は渡欧していますし。ああ、この刺身は喉黒ですか。金沢の魚は美味いですね」
わざとらしい愛想笑いで下心あふれる質問をする母に対し、中尉はにこにこと笑顔で躱している。
いくら中尉がおっとりしていて寛容な気質だといっても、上官なのだ。貴重な休暇中にわざわざ東京から足を伸ばしてもらった恩義もある。
盛大に準備された宴の席で家の者が失礼をしやしないかと、普段は遠慮のない藍がひやひやしながらやり取りを聞くはめになったのだった。
「長旅でお疲れでしょう。客間にお床の支度ができております。よろしければ、世話係もおつけしますわ」
宴もたけなわ。なんとか乗り切ったかと安心しそうになった矢先に、母がとんでもない提案をし始めた。
好きな夜伽相手を選べと言わんばかりに若い女中をずらっと五人も並べ、しかも全員が母の故郷から奉公に出された遠縁の娘たちである。
この中では年長だが、座敷牢の食事係をしている例の女中の姿もあった。
「母上……。中尉殿は妻帯者で、愛妻家なんです。よけいなことしないでくださいよ」
あの手この手でなんとか中尉に取り入ろうと、必死さを隠そうともしない。
はああ、と藍はうんざりして目頭を押さえた。
「あらまあ、お酌の相手ですよ。それに永鷲見家の次期当主ともあろう御方であれば、妾のひとりやふたり……」
「申し訳ありません、今夜は藍くんとふたりきりで酒を酌み交わしたいのです。会うのは春以来ですからね。部外者がいては話せない軍の機密もありますし、お嬢さんがたのお酌はまたの機会に」
何を言っても無駄そうな母のごり押しをあっさりと退けた中尉に、藍は「おお、さすが……」と感嘆の声を漏らしたのだった。
客間へ案内するふりをして、藍は中尉を連れて人気のない裏庭に出た。
生温い夏の夜風が剪定された背の低い木々をゆっくりと撫でている。休暇らしく紺絣の着流し姿で向かい合ったふたりは、しばしの酔い覚ましのあと苦笑いを交わした。
「あーもう、ウチの親族はどこにでも入り込んで増殖しようとする。ゴキブリじゃねえんだからさぁ。九社花財閥に押しかけて成功したせいで味をしめちまったんです。気を悪くしてたらすみませんねぇ、中尉殿」
「自分も慣れていますよ。華族だからといって商家より上品とは限りませんから。それより──この蔵ですか?」
中尉の問いに無言でうなずき、あたりに人がいないのを確認してから三重構造の扉を順番に開いていく。
「随分と厳重ですね」
「商家の蔵は元々こんなもんです。耐火と盗難防止のための土蔵造りですからね。ここには酒と保存食くらいしかありませんが、漆喰で壁を固めてるんで夏は母屋より涼しいのが救いですよ」
中に入ると蒸し暑い外よりもひんやりとしており、湿度も低い。
閉ざされているので空気は良くないが、この分なら暑さで死ぬことはないだろうと藍は少しほっとした。
「あいつ、怒ってんだろうなぁ。結構無理やり説得して出てきたからなー」
灯りを掲げ、狭く急な階段を下りる。奥の座敷牢にいる子供は足音にすぐ気づいたらしく、木格子をがたがたと鳴らしていた。
「叔父貴!! 遅いぞ、おれは毎日待つてたのに!!」
「戻るのは夏だって言ったろー? ところで、今日はお客さんがいるんだが」
「──新しい人間だ!!」
藍に続いて下りてきた中尉の姿を発見して、甲高い声が地下にこだまする。
「なんつー反応するんだ。物の怪か」
「この子にとっては自然な反応なんでしょう。つまりそれだけ、環境が異常なんですよ」
中尉は子供と同じ目線になるよう、座敷牢の前で腰を落とした。縁なし眼鏡の両端を繋ぐ細い金色のチェーンが薄暗闇の灯りで反射し、しゃらっと光る。
「本官は永鷲見万里中尉であります。きみの叔父、藍くんと一緒にお仕事をしている仲間です。よろしく、雲雀くん」
少し冗談めかして上半身だけで敬礼をする。無帽なので本来は手を挙げずに頭を下げるのが本式だ。子供向けのサービスだろう。
雲雀は世俗を知らないのでどちらにしろ通用しないだろうが、軍人は子供たちのヒーローなのだ。自分の子にもよくせがまれているのか、慣れた仕草だった。
いきなり人を連れて行って怯えやしないかと不安はあったが、未知すぎて警戒心すら起こらなかったようだ。かえって興味津々といった瞳で見上げている。
中尉の物腰がとても柔らかく、同じ年頃の息子を持つ父親だけあって子供慣れしているのも理由だろう。初めて会った彼に、雲雀はすぐ懐いた。
「貴様も俺が見えるか!?」
「はい、勿論。きみは、ちゃんとここにいますから。藍くんが見つけるまでずっと独りで、誰かと話をしたかったでしょう。寂しい思いをしましたね」
「寂しい? 言葉は知つてゐるが、よく判らない」
「わからなくてもいいんです。ですが、いつかきみがその感情を理解したときは……すでに今が過去となっていますように」
中尉が手を伸ばして頭を撫でると、雲雀は猫のように目をつぶってされるがままになっていた。
その様子を後ろで眺めながら──
雲雀に対する愛着や同情心はもちろんあるが、実家に対する反発心は大きく、それゆえにひとりで突っ走っている自覚はある。
信頼できる人間が知人にいて、協力を仰ぐことができてよかったと藍は胸を撫で下ろしていた。
「軍の階級なら本で読んだ。中尉どのは上官だらう? 叔父貴はサボつたりしてないか? しつかり働いてるか?」
「ふっ、心配されていますよ、九社花軍曹」
「お前なー、俺がそんなにダメそうに見えるのか?」
「みえる」
「ふ、ふふふ、失礼」
「中尉殿、笑いすぎです。むせてるし。てか、紙増えてんな。なんだこりゃ?」
字を練習するため道具と紙は渡していたが、書き込みすぎて裏も表も墨で真っ黒になっている。
食事係の女中と会話を交わすことはないのでどうやって入手したのかと思えば、本の白紙ページを千切り取って使っていたようだ。
「毎晩、お話を書いてゐた。叔父貴に聞かせてやろうと思つたのに、なかなか來なかつたからおれは怒つてるんだ。すごく面白いのに。人生の半分くらゐ損したな」
「言うねぇ……。で、どんな話なんだ?」
「ええと、一日目に書いたのは此の紙だ。或る酒呑みの男がいつものやうに酒を呑んでゐると、徳利の中から女の聲が聴こえてきた。逆さまにして振ると女が出てきて、『一生酒を断つなら毎日猪口一杯の砂金をやる』と云ふんだ。酒呑みはどうしたと思ふ? どうだ、氣になるだらう?」
「わりと気になる。どうなるんだよ」
「明日の夜もちやんと來たら続きを教へてやる」
「暴夜物語のシェヘラザードか、お前は」
すました顔でぷいっと横を向いた雲雀の頬を両手で挟み、むにむにと揉む。
暴夜物語とは、のちに『千一夜物語』や『アラビヤンナイト』などの題で数多く翻訳されるようになる異国の民話集である。
毎晩続きの気になるような話を語り、憎悪に塗れた狂王の興味を引いて自らの命を繋いだ少女のように。
必死に藍を引き留めようとしているのだとしたら、申し訳なくなるくらい健気だ。
叔父と甥がじゃれ合っているあいだに中尉は格子の中に手を伸ばし、何枚も書き潰された紙を拾って読んでいた。
「奇談や、幻想的な物語が多いですね。素晴らしい、将来は有名な幻想文学作家になるかもしれませんよ」
「中尉殿~、褒めすぎじゃないです?」
「子供は褒めて伸ばすんです。それに、称えるべき偉業です。外を知らないこの子が、自分自身の言葉と想像力で広げた世界なんですから。聞いていたとおり──」
と、中尉は立ち上がって着物の合わせを直した。
「心身ともに、問題のない子ですね。あと四、五年もすればかなりの美少年に育ちそうです。また明日ちゃんと来ますので、待っていてくれますか? はい、これはお土産です」
「──銀座木村屋の桜あんぱん!!」
「おやおや、よく知っていますね。何を持って行こうか迷いましたが、うちの倅が好きなんです」
「ふおおあお」
「すげえ興奮してる……。喉に詰まらすなよー」
「気に入ってもらえてよかった。さて、藍くん、次です」
次──すなわち姉・阿比の診察である。




