三 閉ざされた物語の中で、怪鳥はうつくしく
蔵の座敷牢で姉の子・雲雀を発見した藍が、その後どうしたかというと──
「叔父貴。此の本で福沢諭吉が書いてゐるコルリと云ふのは旨いのか?」
「ん? ああ、英吉利料理のライスカレエのことか。陸軍幼年学校の食堂にあったぞ。俺はあまり匂いが好きじゃねえかなー」
「へんな香りなのか。おれも食べてみたい」
「おーよしよし。俺はなぁ、今甥っ子可愛いスイッチ入ってるから。何でも食わしてやりたい気分だ」
すっかりと甥を、溺愛していた。
「ぢやあ、コロツケとポオクカツレツとあいすくりんも食べたい」
「前言撤回。もうちょっと遠慮しろ。実家は大金持ちでも俺はまだ薄給なんだよ」
「『武士に二言なし』ぢやないのか。叔父貴は情ない男なのか?」
「いらん言葉ばっかり覚えやがって……。何読んでんだ、今度は」
実家に帰ってきてから、はや一週間。
藍はあれからほとんどの時間を雲雀のために使い、ともに過ごしていた。
家の者からは、茶屋街で毎日呑み歩いていると思われているようだ。
久々の長期休暇であり、帰省である。まして商家の長男であれば街で遊んで人脈を広げるのも立派なお役目。そんな口実もあって、咎められないのをいいことに放蕩のふりを続けている。
母親が持ってくる見合い話から逃げるついでに、じつは敷地内の蔵に通っていたのであった。
「なになに、銀座のハイカラ洋食店特集? 高級料理にばっか興味を示すと思ったら、風俗画報の影響か……」
「食べてみたい。食べてみたいぞー」
「わかった、わかった。いつか西洋レストランに連れてってやるって。埃がたつから転がるな」
自分で畳の上をゴロゴロと転がっておいて、咳き込みはじめた雲雀の背中をさすった。
「とりあえず今日はこれをやろう。台所にあった林檎だ」
「りんご!? 旨いのか!?」
「まあ食ってみろ。皮ごといけっから」
「甘い。こんなに甘い食べ物、初めてだ。紅くてつやつやで、旨いな」
渡してやった果物を夢中で齧っている姿を眺め、藍はしみじみと呟く。
「うーん、甥っ子すげえ可愛い……。俺、意外と面倒見よかったんだな」
自分の一族が共謀し、監禁していた子供である。
最初は事実として飲み込むのに抵抗があったが、一度存在を受け入れてしまえば愛着が湧くのはすぐだった。
下に弟妹がいない分、初めてできた弟のようなものだ。
最初に感じたとおり、雲雀は何の問題もないどころか非常に賢い子供だった。
人と接した経験があまりに少ないゆえの会話のずれは、すぐに修正された。座敷牢の扉は塞がれたままなので格子越しではあるが、朝から夜までずっと藍とともに過ごし、話し続けているうちに少しずつ外の世界や他人を認識しはじめた。
まだ元気だった頃の阿比に読み聞かせをしてもらったのは、唯一の幸せな思い出のようだ。
だから、とにかく本が好きだった。座敷牢にあった数冊はボロボロになるほど読み込まれており、藍が持ってくる本もどんな内容だろうと片っぱしから読破していった。
そのおかげか、言葉を通しての理解が早い。何も経験していないのに想像力も豊かだ。
「俺はあまり読書家じゃねえし、流行りの雑誌くらいしか持ってこれなくて悪いな。今度うちの書架から見繕ってくるよ。もうちょいと子供向けの本がありゃいいが」
「こども向きぢやなくとも読めるぞ。昨日呉れた文芸雑誌と云ふのは面白かつた」
と、昨日の今日で読んでしまったらしい雑誌を顔の前に掲げる。
「ん、帰ってきたときに金沢駅で買った『新著月刊』か。小説は教育に悪いかと迷ったんだが、この環境じゃ娯楽も大事だよなー」
「小説とは、蔵の外でほんとうに起こつた出來事なのか?」
「いいや、みな作家の頭の中でできた架空の物語だ」
「さうなのか。頭の中だけでも、いろんな楽しい事が起こるんだな。おれは此のお話がいちばん好きだ。本なのに、目の前で喋つてゐるみたいにさらさらしてて心地が好い」
ページをめくって雲雀が見せたのは、泉鏡花の短編『化鳥』だった。
「此の題名、どう云ふ意味だ?」
「化鳥は、怪の鳥とも書く。要するに、鳥のバケモンってこと」
「鳥のばけもの……。此の小説に出てくるばけものは、すごく綺麗なんだ。天に住まううつくしい女のひとで、五色の大きな翼が生えてゐて、主人公が川で溺れたところを助けて呉れる。でも、其れは主人公の母様だつたんだ。なあ、母様はだれにでも在るのか? おれにも在るか?」
「え」
雲雀は目を輝かせて、小説に出てくる母親について話し続けている。
これまで、母については一言も聞かれなかった。無理に問いただすのも良くないだろうと藍からは触れなかったのだが、まさか阿比がそうだと認識すらしていなかったとは。
──これは、逆にいいのか?
変に嫌ったり拒否しているより、記憶がまっさらなほうが。
病が治り、昔の聡明で優しかった姉に戻れば普通の親子のように暮らせるかもしれない。
今後雲雀をどうしようかと、この一週間ずっと考えていた。
外で今すぐ完璧にやっていけるとは断言できないが、まだ年齢も幼い。一度出してしまえばすぐに馴染んでいくはずだ。
そのためには、邪魔が入ってはややこしくなる。
なるべく穏便に、確実な方法で外に出そうと藍は決意を固めていた。
「もちろん、お前にもいるぞ。母上がいないやつなんかいないんだ。ここに来る前はどんな風に過ごしていたか、どのくらい憶えている?」
「山の家か? 彼処は、何時もけむたかつた」
「煙たかった? 姉上と女中数人しかいなかったはずだが……。女中で煙草を喫むやつでもいたかな」
「本を読んで呉れたひとが、煙管と云ふ道具を使ってゐたぞ。氣を鎮めるためださうだ。楽しみにしてゐたのに、たばこを始めてから読んで呉れなくなつてしまつた。だからおれはあれが嫌ひだ」
「……姉上が?」
姉が煙草を嗜んでいる姿など見たことない。
しかし、事件の前は姉もまだ女学生だった。つらい日々を送っていたのだろうし、その間に喫むようになってもおかしくはない。
──とにかく姉上に元気になってもらうのが、こいつにとっても一番なんだ。
医師は呼んでいるようだが、九社花財閥のお抱えじゃあ容態を尋ねても都合悪けりゃ黙ってるだろうな。一度俺のツテで診てもらうか。
衛生部の軍医に親しい中尉がいる。心の病は専門ではないだろうが、藍を敵視する者の多い軍内で唯一信頼している先輩だ。帝都に戻ったらとりあえず姉の症状について訊いてみようと決めた。
「そうだ、俺は来月になったら一旦帝都に戻るからな。隊付勤務が終わったから陸軍士官学校に通わなきゃなんねえの。わかりやすく言や、実地で訓練したから次はえらい人になるための学校に行くんだよ。めんどくせえ」
「──いなくなるのか!? もう、來ないか!?」
軽く報告したつもりが、予想した以上に激しい反応だった。
勢いよく木格子に飛びついたせいで、額を打ちつける大きな音が響いた。
「まて、落ち着け。一旦だって言ったろ。父上……お前から見たら、お祖父上だな。今は仕事で異邦にいる一族の当主が、来年の頭に帰ってくるんだ。そしたら俺が話をつけて蔵から出してやる」
「叔父貴があそびに來て呉れるなら、おれはずつと此処でも可い」
「や、そうもいかんだろ。いいから待ってろ」
「うぐぐぐぐぐ」
納得していない表情だったが、相手は子供だ。
打った頭を撫でて無理やり言い聞かせた。
「な? 少しだけの辛抱だから。良い子にしてたら約束したとおり、レストランにも連れてってやるし。武士に二言はない。別に武士じゃねえけど」
本当は賢い子供だとわかれば、閉じ込めておく理由などないのだ。父を説得できれば、誰も文句は言えないはず。
このときは妥当な計画だと思っていた。
だが、思い返すたびに一族の意向など無視して、さっさと出しておけばよかったと後悔することになる。結局は家のやり方に従っており、抗えていなかったのだ。




