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狂人ダイアリー ~大正浪漫幻想活劇~  作者: アザミユメコ@書籍発売中
第十二幕【雲雀あがり、心悲しも】
111/143

一 伽藍鳥と座敷牢の子

──暗い。


──真っ暗な湖に、独りで沈んでいくみたいや。


──冷たいけど、ただの水とちゃう。今までに何度も見た(うご)めく小さな文字の集合体。文字の亡霊。


──流れ込んでくる感情。最後に聴こえた声は、なつかしい誰かの……。




 おま

   え  は 誰も

           救

えない




 なつかしくて、こころがざわつく、父のこえ。

 虎丸の意識ごと、文字の闇に沈んでいく。



──暗い。冷たい。悲しい。憎い?

 化鳥(かちょう)も入水したとき、こんな景色を見てたんかなぁ。



 父との再会。

 あれから幾日か経っても虎丸は目を覚ますことなく、黒い湖を彷徨(さまよ)っていた。

 闇の文字を使う操觚者(そうこしゃ)、あの男の能力の渦中である。


 随分と長い時間が経った頃、突然だ。

 暗い視界に、ぼんやりと光る姿が現れた。



『ほーう、土壇場で俺を思ひ出すとは、感心、感心。襃美(ほうび)に助けてやつても()いぞ。俺が死の間際、何を見てゐたか? さうさな、貴様が端然(ちやんと)起きるまで、むかしむかしの話でも聞かせてやらう』



 水面に立つ裸足の爪先。着物は初めて見る柿色(かきいろ)

 なぜか面で顔を隠しているが、その声と口調はまぎれもなく。



──伊志川(いしかわ)化鳥(かちょう)



 いつか共に旅をした、もうこの世にいるはずのない男。



 ***



 明治三十年・金沢。

 

 この頃の九社花(くしゃげ)財閥は、建坪千坪を超える広大な敷地に邸宅を構えていた。

 徳川幕府の時代には将軍家と帝室の呉服御用を勤め、加賀藩の貿易を一手に握り、明治以降も生き残った数少ない豪商の一族である。


 使用人の数も百を超え、家というよりまるでひとつの集落のようだ。

 しかし、人の出入りが多いはずの大屋敷はいつもどこか暗く、寂しげであった。


 馬車が門前に到着すると、待ち構えていた使用人たちが降りてきた青年に向かって一斉に頭を下げた。


「若様、おかえりなさいませ。進級祝いの席が整っておりますよ」

「はぁ、勘弁してくれよ。祝いっつっても、俺は自分の意志で軍人になったわけじゃねえし。上から妙に手厚く扱われてる若造が、居心地良いわけないんだよ。母上が裏で金積んでるせいだろ? 嫌になるねぇ、まったく……」


 やれやれと帽子を脱ぎ、遠征の間に伸びた髪を掻きあげる。


 陸軍幼年学校と実地勤務の間ずっと故郷を離れており、約三年ぶりの帰省となる。

 すでにあちこち綻びた軍服を着ているこの青年は──


「ま、絡まれても一発殴り合って腕っぷしを見せりゃ収まるだけ、この家にいるよりはなんぼかマシだけどな」


 当主の長男・九社花(くしゃげ)(あい)である。

 後に出家し、(しゃく)藍鳥(らんてう)を名乗るようになる男だ。


 居心地の悪さは、軍よりむしろ実家のほうが上だった。母屋の表口を素通りし、裏庭に直行しようとした藍を使用人が慌てて止める。


「まずは御母堂様にお顔を見せて差し上げてください。若様に大事なお話がおありになるそうで」

「やだね。どーせ華族の娘と見合いしろって話だよ。うちを継ぐのは優秀な姉上にまかせたほうが一族安泰だって。俺は将来僧にでもなるから放っといてくれ」

「また、そのようなことを」


 使用人は冗談として流し、藍の耳元で声をややひそめた。


「それに、阿比(あび)お嬢様はまだお体の調子が……」

「姉上、家に戻ってるんだよな?」

「はい。療養されていた山荘のほうは、若様が家を出てすぐの頃に引き払いました。とにかく母堂様へご挨拶を……」


 酒保(ばいてん)で買った安い煙草を()み、空を見あげてため息とともに煙をふうっと吐く。


「ああ、もう。なにもかも煩わしくて仕方ねえなぁ。先に姉上の様子を見てくるか」


 乱暴にぼやきながら、使用人の忠告を無視して城のように広い庭の裏手にまわる。

 このとき藍はまだ十八、血気盛んで反発心の強い若者であった。



 当時、九社花家当主にはふたりの妻がいた。

 正妻の子が阿比(あび)、妾の子が(あい)。どちらも息子であれば財閥の跡取りは自動的に正妻の子となるが、姉と弟だ。

 順番としては藍がやや優勢。だが、男でも庶子に過ぎないので姉が婿(むこ)を取れば簡単に覆る程度の差だった。


 それぞれの親族は藍が物心ついた頃から、常に争っていた。表立ってではなく、あくまでも相手の影をこっそりと踏むように、冷ややかにである。


 帝国陸軍に入隊したのも自分の意志ではない。母親に命じられたから、それだけだ。

 日清戦争の直後で、多くの軍人が爵位を授かっていた時代である。虚栄のためだとしても、軍人になるのは栄誉なのだ。


 実家から手紙を受け取るたび、華族令嬢との見合い話が添えられているのも同じ理由だった。

 九社花家も例外ではないが、金があるだけの商家は特権階級との繋がりを持ちたがる。生活が困窮して爵位返上寸前の華族は意外と多く、家の存続のため資産を持つ家に娘を嫁がせようとする。互いの利害は一致していた。


 なんとしてでも次期当主にしようと、優位になりそうなあらゆる飾りつけをされるだけの人生。

 要は一族のため都合のいい操り人形にされており、藍は心底うんざりしていたのだ。



──次にでかい戦が起こったら、俺を嫌ってる叩き上げの上官らの決定で最前線に送られんだろうな。軍内で目をつけられるってのがどういうことか、うちの親族は理解してんのかねぇ。

 わかっててさっさと見合いさせようとしてんのかもしれねえけど。



 自分ではなくても、この身に流れる血さえ繋がっていれば構わないのだろう。

 姉である阿比がどんな仕打ちを受けたか、嫌というほど見てきたからわかっていた。



「……姉上、入っても?」



 同じ敷地内だが、家屋は分かれている。幼い頃は勝手に行き来をしてよく叱られたものだ。

 母同士の不仲で普通の姉弟のようには一緒に過ごせなかったが、藍は腹違いの姉が昔から嫌いではなかった。賢く、落ち着いていて、静かな立ち姿が柳のように儚げで美しい、自慢の姉であった。


 声をかけても中から返事はない。

 花鳥風月が描かれた板絵戸を黙って引く。


 阿比は起きていた。しかし、布団から出ていたというだけだ。姉の心はここにはなく、反応はない。

 誰かに着せられた華美な寝間着が浮いて見えるほど顔は青白く、長い黒髪は手入れもされていなかった。


 何も言わず、どこも見ていない。膝を揃えて畳に正座した背筋だけが、以前と変わらずまっすぐに伸びている。

 藍は無言で後ろへ回り、鏡台にあった(くし)と椿油で姉の髪を梳きはじめた。袖から覗く痩せた手首には、縄の跡がある。


 あの事件から、すでに六、七年が経った。

 女学生だった姉とまだ子供だった自分。社交界かなにかだったと思うが、めずらしく共に出かける機会があって喜んでいたのを憶えている。

 出発は父母と別々だった。姉弟を乗せた馬車は、道中で野盗に襲われた。そして、凌辱された阿比はあろうことか、子を孕んでしまった。


 あのあと、せめて誰かが阿比を救おうとしていれば。

 この家では、誰も傷ついた娘の気持ちなど頭になかった。それどころか傷物として責め、最終的には『子が男児であれば正妻の血を引く正統な跡取りだ』と主張しはじめたのだ。

 阿比は療養の名目で、山奥の別荘に隔離された。手首の跡はその間に何度も身投げ騒ぎを起こしたため、拘束されてついたものだ。


 姉はまだ二十二である。すべてを忘れ、遠い土地へ嫁入りするにも遅くはない。

 しかし、男児さえ産まれればあとは用済みとばかりに、豪華なだけの部屋に放置されている。



──つーことは、あのときの子供は無事に育ってんだな。

 山荘を出てからは分家に引き取られたと聞いたが、折を見て跡取り候補としてこの家に戻す予定なんだろう。



 少し艶の出た髪をまとめてひとつに結わえると、首筋にも赤味が差したような気がした。櫛を仕舞い、痩せた肩に羽織をかける。



「まあ、ガキに関しちゃ俺には関係ねえな。こんな家は丸ごとくれてやるよ」



 そう口にしたものの──本当は、すっきりしなかった。

 目の前で起こったあの事件から、藍自身も姉を見ていられなくなって距離を置いていたのだ。

 出家でもするから放っておいてくれと口にしながらも、跡取り争いに巻き込まれているのを理由に家から完全に離れず、かといって姉をずっと独りきりにしている。今のままでは、姉に手を差し伸べなかった他の親族と同類だ。


 立ち上がって、そっと部屋から出る。


「……とりあえず、蔵から高い酒でもかっぱらってくるか。呑んでないと母上の話なんかまともに聞く気にもならねえ」


 あちこちにいる使用人の目をかいくぐって、一番近い土蔵へと向かった。



「甘酸っぱいにおいがすると思ったら、葡萄酒(ワイン)火酒(ウヰスキイ)か。貯蔵に洋酒が増えてきたな。あんまり好きじゃねえんだよな。久々に帰ってきたし、地元の酒にしとくかねぇ」


 と、一升瓶を一本ずつ両手で掴む。軍人になってから呑まされる機会が多く、酒を本格的に覚えてしまった。


 棚を漁っていると、足元よりずっと下で物音が立った。

 蔵には地下がある。藍の記憶ではただの食糧庫で、ときどき使用人の折檻(せっかん)に使用していたくらいだ。誰かが盗みでもやらかしたのだろうかと、灯りを持って狭い階段に向かう。



「げ、まじかよ……」


 

 いつの間に、これほど頑丈なものが作られていたのか。

 地下へ足を踏み入れるとすぐ木製の格子が見えた。


 どこかで甘やかされて育っているとばかり思っていたのに──


 冷えきった座敷牢の奥には、姉の面影を目元に残す子供がいた。

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