十九 昨日こそ、君は在りしか
八雲は傷だらけになった白鬼の少年を抱きかかえていた。真っ白な肌と衣装は、あちこちが鮮血で染まっている。
「気配が、消えた。間に合わなかった──?」
今にも途切れそうだった餡蜜の魂は、完全に失われてしまった。
「いえ、違いますね。本当に条件を守る気があったなら、あなたはあの子が消えるのをこれほどすんなりと無視しなかったはず。申し訳ありません、銀雪。どうやら化鳥にだまされたようです」
使い魔の体をそっと下に横たえると、右手をかざして形容化を解除する。
『八雲。我、不眠不休可……』
そう言い残しながらも、銀雪は命令どおり八雲が保管している原稿用紙へと戻った。言葉の使い方は相変わらずずれているが、鬼の少年なりに「八雲のためならまだ頑張れる」と言いたかったのである。
はあ、と息を吐いて、八雲自身も地面に膝をつける。
使い魔を一度に二体出し、しかも全力で闘わせるのはかなりの消耗だ。
「助けられないなら、最初からそう教えてください。詐欺ではないですか」
無駄とわかっていながら、文句を口にする。
「ふん、俺は出來るとも出來ないとも云つてゐないぞ。貴様が勝手に頼みに來て早合点したんだ。未完成の俺に、世間から忘れ去られた娘の存在を持ち直す程の力は無い」
闘っている間だけ出ていた羽のようなものを背に仕舞うと、『狂人ダイアリイ』から形容化された伊志川化鳥は勝ち誇って鼻を鳴らした。
「何道、白鬼の童では俺に勝てなかつた。だから、結果は同じだらう? 貴様に出來るのは一刻も早く感情を戻して、完全な俺を使ひ魔にすることだけだ。あとは老獪極まる蔵相の爺から守らないとな」
かすれた月を見あげ、化鳥は五つの結晶を頭上に浮かべる。新世界派の部員が集めている感情、小さな白い文字の塊である。
中でも乳白色に薄紅を差したような可憐な色合いの結晶を手に取り、恍惚の表情で言った。
「気づいたか? たつた今『恋慕』が満ちたぞ。余計な感情まで一緒に届いたが。めづらしく粗野な娘が泣いてゐるな。友人の感情など吸ひたくなかつただらうに、貴様の中で生きて呉れた方が嬉しいから、だと。大事にしてゐるのは素振りだけで、仲間に何の真実も告げず、貴様は本當に酷い男だ」
「そうですか。ならば、あなたへの用はもう済みました」
八雲はそれだけ伝えて立ち上がると、『新世界』を閉じて縁側から直接自室に戻ろうとする。
その背中に、化鳥が慌てて声をかけた。
「眞逆、此のまま行く気か!? 俺を本に戻していけ。外は寒いだらうが!」
少しだけ振り向き、八雲は冷たく口の端をあげる。
「私の形容化はそれほど保ちませんので、時間が経てば勝手に解除されて帰れるでしょう?」
「地味な厭がらせをするな! 寒いのは嫌ひなんだ。貴様、一寸性格が悪くないか!? どうして然う捻くれたんだ」
「あなたがそれを言いますか。私が捻くれている理由は自分の胸に聞いてください。銀雪の修復をするので、それでは」
「なんだと、俺とて怪我をしてゐる。使ひ魔差別をするとはなんて奴だ。拗ねるぞ。池に飛び込むぞ!」
「膝下までしかありませんが、どうぞ。鯉に傷をつけないでくださいね」
最後にそう言って、障子戸をぴったりと閉めた。
「おい、かう云ふ条件はどうだ! もうひとり存在が消えさうな男が居るから、そいつだけは呼び戻してやつても好い──くそ、奴め。涼しい顔をして、憤怒の感情はわりに残つてゐるよな」
もう何を訴えても無駄だと悟り、かつての天才作家は庭石の上にぽつんと浮かび、白く染まった息を眺める。
「姉と弟か。俺には無いからよく判らんが、兄弟と云ふのは不思議だ。若し兄弟がゐれば、俺が入水した時、助けに來ただらうか。感傷的に愚痴をこぼしても、今更仕方ないが」
そして、宣言どおり浅い庭池に飛び込むと、仰向けに空を見あげた。
彼が死んだのは、明治も終わる少し前。
後に語り継がれるほど寒さの厳しかった冬のことだった。
──なんだ、中々楽しいぢやないか、身投げと云ふものは。楽しくなつてきたぞ。
水が綺麗だから浸かつた。文句は有るか。
此の寒さは本當に死にさうな気がするのだが、走馬燈とやらは出ないのか? 仕方ない、自分で思ひ出すか。何か、在つたか?
母は、話したことなど殆ど無いしな。叔父貴はまた戦争に行つたか。文壇にゐる間はなにやら周囲が騒がしかつたな。然し、誰の顔も憶えてゐない。
嗚呼、寒いな。寒いのは嫌ひだ──
***
東の空に、明けの明星が止まる頃。
吉原はまだ眠らない。ちょうど宿泊客が帰りはじめる時間で、大通りには灯りが点々と光っていた。
中心に建つ巨大な妓楼から、かすかに歌が聴こえている。
寒空の下を歩く客、遊女、番頭。誰もが少し足を止め、振り返って聞き惚れる。
声の出処は、庶民では手の届かぬ高級店。
さぞ高名な花魁が歌っているのだろうと、期待を膨らませて聴衆は散っていく。
「あら、いい曲ね」
「やあ、ひさしぶり。いつも私から逃げ回ってる周姉じゃないか」
格子窓から通りを見下ろし、透きとおる低めの声で歌を奏でていたのは天津風偲だ。
ここは黒菊四天王が根城としている妓楼。帝国劇場での公演を終え、夜のうちに馬車で帰ってきたのである。
「嫌味言わないでよねー。アタシ疲れてるのよ。憂ちゃんと獏ちんが潰れたから、介抱して部屋まで連れてったの。まったく世話が焼けるったら」
部屋に入ってくるなり憤慨しているのは、しのぶが姉と慕う四天王のひとり、古城周。艶やかな花魁の衣装をまとっているが、そこらの男よりずっと背も高くたくましい。
「獏坊はいつものことだが、ウワバミの憂兄まで酔うなんて希少だね」
「招集でいろいろ命令があったでしょ。ストレス溜まってんのよ。三倍増しでぐちぐち言ってたわよ」
周は酒で火照っているのか、窓の外からそよぐ十二月の涼風を気持ちよさそうに浴びている。
「アナタは面倒だから会いたくないけど、歌声だけは好きよ。いつも外国の曲なのに、今時の歌謡曲を歌ってるなんてめずらしいわね。舞台『その前夜』の劇中歌だっけ? 若い女の子向けの恋の歌ね」
「そう。私は、恋する乙女が好きなんだ」
「ほんと、きれいな声。あーあ、アナタが本物の男だったらよかったのに」
「姉さんのために、男になったんだけどな」
「なによ、何か言った?」
周はすでに窓を離れ、高価な打掛を慎重に脱いで衣桁にかけているところだった。
「別に、何も言わないさ」
「アナタを拾ったのも、こんな彼誰時だったわねぇ。あれからもう二十年、吉原も随分空気が変わったわ」
かはたれ時──近くにいる人の姿さえ見えない時分、彼れは誰、と尋ねるほど闇の濃い明け方をいう。
まだ外は薄暗いが、遠くの空では濃紺が一瞬で朝に変化しようとしている。格子の隙間からそれを眺めながら、男装の麗人は追悼歌の続きを歌った。
いのち短し 恋せよ乙女
黒髪の色 あせぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
第十一幕【かはたれ時の追悼歌】 了




