十八 ぼくのところにお嫁に来て
──八王子・タカオ邸。
東京市内の空とは違い、こちらは月が薄雲で隠れて朧に浮かぶのみだ。
今晩の洋館は人が少ない。
行き先も告げず連れ立って出かけ、まだ戻らない十里、拓海、虎丸。
劇場へ舞台を観に行った白玉、紅、茜、おみつ。
女主人はおそらく自室で、すでに灯りは消えている。活版所所長の藍の部屋は離れ屋の奥側だが、どこかで酒でも呑んでいるのか蛻の殻だ。
静まりかえった土地の片隅。離れに造られた小さな日本庭園に、いつぞやの夜を思い起こさせる姿で立っているのは八雲であった。
同人雑誌『新世界』を片手に持ち、うっすらと落ちる月明りの下に佇む。傍では鹿威しの乾いた音が鳴っている。
風もないのに自然にページはめくられ、文字がばらばらと冊子から溢れ出た。地面に伸びた八雲の影の上で、文字は真っ黒な集合体となって形を作っていく。
あの日はいきなり虎丸に声をかけられたため、途中で失敗してしまった。
端切れとなって分かれた文字は、剣術の心得があるらしい編集者の青年の腕を見たかったのもあって、彼に倒してもらったのだ。
今、八雲が『形容化』しようと試みているのは、あのときと同じ──。
元は『狂人九想図』と題がついていた。ひとりの男が狂人となって死にさらばえ、朽ちるまでの観察記録の体裁をとった物語。
いまでも愛読者のあいだで語り継がれる、夭折の天才・伊志川化鳥が遺した未完の小説である。
かの遺作は視点を変え、題名を変え、作者名を変え、無名の同人雑誌でひそかに続きが綴られていた。
憎悪によって狂ってしまった或る男の手記、八来町八雲の代表作『狂人ダイアリイ』だ。
文字の集合体は八雲の影と同化したかと思うと、まるで金型からまったく同じ物を作るように、輪郭に沿って、操觚者とそっくりな姿で地面から現れた。
髪は短く、黒い着物を着た無表情の八雲。
腰までの長い髪を揺らし、白い着物を着た、つねに薄く笑っている化鳥。
顔立ちは同じだが、ほんの少しだけ異なるふたりが向き合い、視線を交わす。
先に口を開いたのは八雲だった。
「餡蜜の気配が、途切れそうになっています。まだ、早すぎる」
「ふうん、判るのか。まあ、同じ操觚者に創られた人形だものな。貴様も、あの娘も」
化鳥の肉体は地面を離れ、浮いている。
くるっと飛ぶように後ろに宙返りして、空中であぐらをかいていた。
「あなたなら──。あなたであれば、あの子を助けられるのではないですか。化鳥」
八雲に時折起こっていた不調。仲間たちは拒否反応と呼んでいたが、その際は生前の人格・化鳥に入れ替わっていた。強制的に眠らせたりせず放置した結果、判明した事実だ。
しかし、生前と死後というだけでふたりは同一人物のはずである。
なぜ人格が替わるのか、創り出した白玉さえも知らなかった答えを八雲本人は最初からわかっていた。
ずっと、中にいたのだ。伊志川化鳥は『狂人ダイアリイ』の中にいた。
だから死後、八雲と名乗り始めてからの事情も出来事も知っている。記憶を共有しているわけではなく、傍で見ていたからだ。
『あれは私の小説から出てきたのです。小説に封じ込められた、私の人格を模したモノです』
金沢旅行のとき虎丸にはちらっとそう漏らしたが、彼はあまり意味を理解していないようだった。ただ「八雲と化鳥は別々だ」と、それだけは直感で気づいていた。
入れ替わったというより、化鳥に体を乗っ取られていたのである。
「ハッ、八雲め。どの面下げて俺に頼む積りだ? 使ひ魔の契約は未締結だ。俺に命令したくば、早速と遺作を完成させろ。感情の抜け落ちた今の貴様に、かつての俺のやうな小説は書けないだらうがな」
「ええ。ですから、仲間に協力してもらい感情を集めているのです。すべては遺作を完成させ、あなたを手に入れるために。ですが、未完の状態では従わせることはできません。知らないうちに意識を取られていたくらいですからね」
何がそれほどおかしいのか、化鳥は両手で腹を押さえて咳き込みそうなほど笑い転げている。
「其れで、のこのこお願ひにやつて來たのか。だが、断る。俺が氣に入つた奴──然うさな、例へば編輯者の小僧であれば、考へてやつたかもしれないが。興味のない人間迄助ける義理はないな」
性質がかつての自分であることに間違いはない。断られるのは織り込み済みだ。
この男がどうしたら耳を貸すか、それも知っている。
八雲は懐からペンを出し、空中に軌道を描いた。
「では、条件付きで。私が勝ったら、頼みを聞いてください」
「ふん、世渡り上手に成つたものだ。まあ好いだらう。貴様がめづらしくやる気なのは面白い。感情を喰らう化け狸も、もう中身はゐないしな。あの獣は一時的とは云へ、俺の力を縮小させるから厭なんだ」
意外なほどにすんなりと承諾して、化鳥もよく似た仕草でペンを持つ。
「──銀雪。力の差は酷かもしれませんが、お願いします」
「せめて、叔父貴でも連れて來るんだったな。詰らんものを見せるなよ。貴様もろとも即消滅させるぞ」
***
夜にひらひらと落ちる魂の光。
赤髪の娘に抱きしめられて気が緩んだのか、おみつは堰を切ったように泣き出した。
「本当はかっこつけて、潔く散りたかった。でも、そんな柄じゃないのよ。見苦しくてもいいから、もっと生きたかった。せっかくリボンが似合う、まっすぐの髪になったの。同級生の子たちみたいに、もっと綺麗になりたかった。見た目がよくて優しくて優秀で自分のことは自分でできる、将来有望なお金持ちの人のところにお嫁にいきたかった」
「本音となると、どこまでも贅沢なやつだな……。でも、そういうやつだよな、オマエ」
呆れつつも柔らかい声で、紅は少女の背を叩く。
「でも、本当は、わたしが一番生きたかった理由は……。わたしの弟はね、頭がとびきりよくて手先が器用で。自慢の弟だったのよ。いつも優しくて、誰にでも穏やかで、人の気持ちに繊細で。お祖父様もお父様も、みんながあの子が跡継ぎなら安心だって言ってたわ。他になにもいらないから……弟が立派になるのを、もっと見守っていたかった」
背後に伸びる影。
立っていたのは白玉と茜だ。晴れた夜、局所的に降りだした雪に気づいてやってきた。
「ねえさま……」
「玉ちゃん」
紅はそっと体を離して一歩下がり、白玉に場所を譲った。
「ひとりにして、ごめんね」
おみつが白玉の頬に手を添える。その途端、少女の体は透きとおって一層光を放ち始めた。人形の本体と、形容化されたおみつの姿が重なって見える。舞う魂が、少しずつ暗闇に溶けて消え始めている。
随分長い間、少女は弟の癖毛を撫でていた。
「……最期です。茜、よかったら話してあげてくれませんか」
後ろで黙って見ていた茜は頷き、おみつの前に立った。
「手、繋いでもいい?」
「えっ。う、うん」
正面から両手を取って、そのまま話を続ける。
「ねえ、おみつちゃん、来世ってあると思う?」
「どうかしら。あればいいなぁって、思うだけで……」
「ぼくもわかんないけど、頑張って生まれ変わろうかな。ね、もし来世で会ったらさ。おみつちゃんの理想には敵わないかもしれないけれど、そのときは──」
最後に茜が伝えた言葉は、少し離れていた紅と白玉には届かなかった。
しかし、それを聞いた少女は嬉しそうに微笑んだ。
「餡蜜は、『退場者』じゃないから消えないって……。虎丸たちだって裏でなんかコソコソやってたのに」
「どちらにしろ、もう間に合わなかったんです」
「どうにもできなくて、ごめん」
白玉は表情を変えなかった。
いつものように笑うことも、涙を零しもしなかった。
「茜も、おみつのこと好きだったのかな」
「わかりません。今はまだ、優しさだったのかも。彼も、弟だから」
「白玉、オマエ、大丈夫か……」
「……」
命を失った人形の部品がばらばらとなって、茜の手からすり抜けて落ちていく。
この日の深夜。
雪は止み、香は消えた。




