十七 風花をす、友への祈り
明るく人の多い劇場でおみつを待たせて、白玉と茜の少年二人組は路上に停めた自働車の点検をしている最中であった。
「ふぁー、エンジン周りの熱で眼鏡が曇る……。あ、茜、空見て。すごくきれい」
「えっ、雪? 今年は暖かいから、初雪は年明けになるかもって新聞に載ってたのに」
紺墨色の夜空から、細雪がはらはら落ちている。
すでに夜は更けた。帝国劇場を少し離れれば街並みは静まりかえり、あちこちに黒い影が落ちている。
雪が仄かに輝いて見えるのは、周囲があまりに暗いからだろうか。蛍のようにも見えるがそれこそ季節外れだ、と茜は不思議に思う。
手提げの石油洋燈で手元を照らしながら、白玉があっさりと答えを言った。
「これ、雪でも蛍でもありませんよー。ヒトの魂が霧散してるんです。近くに亡霊でもいたのかな? こんなにきれいなのは初めて見たけど、劇場のすぐ側だし、俳優さんとかオペラ歌手さんとか、有名な人の魂だったりするかもしれませんねー」
茜は少しだけ驚いたが、この友人が平然と超常現象的な発言をするのは普段からである。ひとつ年上のわりに口調は子供っぽいが、算盤のような頭脳を持ち、常人には到底理解できない精神世界に生きている少年だ。
白玉が言うならそうなのだろうとすぐに受け入れて、ずっと気にかかっていた話を持ちかけた。
「前におみつちゃんと出かけたとき、死んだら来世はあるのかなんて口にしてたけど……。魂って、なんなのかな。人に魂があるなら、みんな生まれ変われるの?」
虎丸さんにも似たような話をしましたけど、と前置きしてから白玉は答える。
「ぼくが魂と呼んでいるのはね、人々の想いや記憶なんです。誰かの感情が、魂を形づくる。架空の登場人物と同じで、死んだはずの八雲さんと餡蜜はそうやって存在しているんですよ。だから来世があるかはわかりませんが───」
「白玉、どうしたの?」
話している途中で突然黙りこくってしまった少年を、茜は不安げに覗き込んだ。
白玉は眼鏡の両脇を指でそっと押さえる。
大きな瞳を見開き、夜空に散る感情の断片を見上げ、つぶやいた。
「ねえさま……」
***
なかなか追いついてこないおみつに業を煮やし、紅が振り返って叫ぶ。
「おーい、置いてくぞー」
巨大な西洋風建築の影が落ち、見通しの悪い路地は人の輪郭さえ見えない。
しかたなく歩いて戻ると、おみつが地面に膝をついてうずくまっているのを発見した。
「どーしたんだよ。腹でも壊したか? 冬にあいすなんか食うから」
「乙女に向かって、藍さんみたいなデリカシイのない聞き方はやめて」
「そんなこと言ったら藍ちゃん泣くぞ」
知らぬところでとばっちりを受けている不良僧侶はさておき、少女は本当に具合が悪そうだ。この寒さで額から汗を流している。
汗は喉元を伝い、小さな文字となって蠢めく。
八雲も同じだが、体が不調を起こすと彼らの血や汗、肉体の一部は文字に変容する。その体が文字で構成され、『形容化』によって創られた証である。
「ここじゃどうにもなんねーし、肩貸してやるよ。自働車まで歩けるか?」
「触らないで!」
前回倒れたときと同じだ。
心配しただけなのにまたしても拒絶されて、紅はむっと唇をとがらせた。
「またそれかよ。もぉ、気分の変わりやすい女は面倒だって言ってたのは自分だろーが」
車を停めている通りまですぐそこだというのに。
紅がしかたなく手を引っ込めると、真っ暗な路地に小さな光がいくつも浮かびはじめた。
すべておみつの体から溢れ出ている。
よくよく見ると、それらはすべて小さな文字だった。
言葉はさまざまだ。
好きな着物の柄や帯の色、好きな食べ物、家族の名前、住んでいた町の名前、幼い頃に行った場所、読んだ本、目にしたもの、記憶、少女を形作るあらゆる言葉が、光る文字となってその仮初めの体から零れ始めたのだ。
「なんだよ、これ……!! おいブス、なんか浮いてるぞ!」
「もっと言って」
「ハァ!?」
「ブスとかバカとか、もっと言って」
「気持ち悪ぃこと言うなよ。虎丸のマゾヒストが感染したのか?」
少女は両腕で自身を抱き、地面に座り込んでいる。
うつむいたまま、早口でぽろぽろと本音を漏らした。
「少し、大人になったのよね。昔はもっと仲が悪かったけど、本当はもうケンカなんかしなくて済むくらい、お紅は大人になったのね。初めて会ったときは同い年だったのに、どんどん年上になっていくあなたを見るのが寂しかった。なんでわたしだけ置いてかれるんだろうって思ってたの」
ひとりだけ大人にならないで。
前に手を貸そうとしたときもそう言っていた。
「女学校には憧れてたの。お父様の栄誉のおかげで入学できて嬉しかったわ。でもクラスメヱトは華族のお嬢様ばかりで、みんな髪も着物もすごく綺麗で……。目立たないようにするしかなくって、友だちなんかできなかった。だから何でも言い合えるような、口喧嘩できるくらいの親友がほしかったの。いつもわたしとケンカしてくれて、ありがとう」
その理由を知って、紅は一瞬押し黙る。
「べつに、付き合ってやってたわけじゃねーよ。茶番で罵倒ができるか、莫迦やろーめ……。動けないならあいつらをここに呼んでくるから、ちょっと待ってろ」
ようやく言い返して白玉たちを呼びに行こうとすると、後ろからスカートの裾を引っ張られた。
「だめよ、こんな姿、見られたくないの。玉ちゃんにも茜にも」
「こっち向け。ひでー顔してるけど、元々ひでーから安心しろ。変な見栄はるな」
紅は同じように地面に膝をつき、正面から両肩を掴んでおみつに顔を上げさせる。
触れてももう文句は言わなかった。
「わたしには、蘇ったからといって八雲さんみたいに成し遂げたいことも特になくて……。死ぬ前だって、ただ家族が元気でいてくれて、いつか素敵な人のところにお嫁に行けたらいいなぁなんて、ぼんやり生きていただけなの。最後にこんなに長く『形容化』していられたのは、虎丸さんがあの館に来て、気にかけてくれたおかげかしら。もう限界だってわかってるのよ。潔く散るわ」
「似合わねーこと言うなよ。オマエはそんな殊勝な女じゃねーだろ、オイ!」
口では強がっているが、あきらかに肩は震えていた。
──どうにかして、弟の白玉を呼ばないと。
また本人に止められないよう、紅はおみつを抱きしめてひっそりと洋服の衣嚢から筆記用具を取り出し、肩越しに文字を書いた。
風花
それは晴れた日中に、風にそよぐ雪の名。
少女から零れている文字は結晶に形を変え、光りながら風とともに舞い、あたり一帯の雲ひとつないはずの空に降り注ぐ。
どうか、白玉と茜が気づきますように。
赤色に透ける睫毛を伏せて、紅は祈った。




