十六 覗き込むたび、鏡像はゆらゆら揺らぎ
壁に沿っていくつも並ぶ、アンティーク調の大きな鏡。その一枚に、天津風しのぶの姿が映っている。人気の舞台俳優だけあって素晴らしく均整の取れた全身だ。
衣装の肩や腰には男役に合わせた補正がされているが、華奢な首はまごうことなき女性のものだった。
「きみから会いに来てくれるなんて嬉しいな。良い子だ」
何重にも反射した鏡越しに男装の麗人を見つめているのは赤髪の娘、紅。
高価そうだがくつろぐためではない、楽屋に置かれた固めのソファに座っている。
後ろから抱いてくる腕を乱暴に解き、冷たく吐き捨てた。
「気安く触んなよ」
「おや、つれないね。以前はあんなにも私を激しく求めてくれていたのに」
艶めかしい低めの声で、しのぶがささやく。舞台後の彼女をひと目見ようと出口に集まっているファンであれば、卒倒しかねないサービスである。
「妙な言い方すんじゃねー! ただの追っかけ! ソッチ側の人間だって知らなかったんだよ。獏といい陰鬱ヘビ男といい、変態四天王はほんと頭の沸騰したヤツしかいねーな!」
「獏の坊やは新世界派産なんだが……。憂兄が沸いているのは同意だね」
耳に唇が触れそうなほど迫ってくる相手を押しのけ、紅は少し離れてソファの端に座り直した。
「とにかく、その良い顔面で近寄るな。触るな」
「いいじゃないか。女同士なんだし、目くじらを立てなくとも」
「女扱いされるの嫌なんじゃねーの? 都合いーよなぁ」
「性別に固執して縛られるのが嫌いなだけさ。せっかくの新しい時代だ。古い価値観は捨て置こう。それで、何用かな? 可愛いきみのお願いなら叶えてあげたいな」
わざとらしいほど甘美な台詞は、少女向け恋愛小説のヒーローのようだ。
女学校で虎丸たちと闘っていた昼間はもっと毅然とした雰囲気の人物だったが、商売柄か女子を相手にすると砂糖菓子のように甘い顔を向ける。
「来たくて来たわけじゃねーよ。たまたまチケットもらっただけ」
「そのわりに最前席で瞳を輝かせていたね。楽しんでいただけてなによりだ」
「うっ……」
紅はそれ以上言い返すのを諦め、大きくため息を吐いた。
「はぁ。ついでに聞きたいことがあるんだよ。でも話の前に、そこで弓を番えてる男をどうにかしろよ。目血走ってて怖えーし」
部屋の隅では、こめかみに血管の浮き出た男が紅に向かって矢じりを向けている。羨望と嫉妬が入り混じり、目が真っ赤だ。
大蔵大臣・菊小路鷹山の率いる裏組織、通称『黒菊』の末端作家で、しのぶの弟子でもある藤である。
先ほどまでは、間違いなく室内にいなかった。こつ然と現れたのだ。
紅は少なからず警戒したが、態度には出さなかった。
「藤、ステイ」
「……はっ」
不承不承だが、細目の男は命令どおり武器を下ろして佇まいを正した。
紅が藤の能力を目撃するのは、おそらくこれで三度目だ。
最初は七高という薙刀の師範代と闘った日。黒菊の情報を漏らしそうになった妄執の男の喉元を刺したのは、どこからか飛んできた矢だった。足の速い紅がすぐにあとを追ったにも関わらず、狙撃者は跡形もなく消えていた。
組織は少数精鋭であり、他に弓使いは見当たらないので、あのときの口封じは藤によるものだろう。
二度目は伊志川化鳥が現れた夜、タカオ邸の離れ屋でしのぶの使いとしてやって来た。虎丸が近づく気配を察し、同じように一瞬で姿を消した。
能力の詳細ははっきりとわからない。気配や姿の隠蔽に長けているのか、あるいは瞬間的な移動かもしれない。
そこまで思考を巡らせ、娘は平静を装って話を切り出した。
「犬かよソイツ。で、獏がいってた『予言』の意味なんだけど」
「勝手に襲撃しただけじゃなくて、そんなことまで喋るなんてね。しかたのない子だな。彼は首輪でもつけておかないとだめだね」
「ペット増やすな。そんでさぁ」
赤髪娘の鋭い殺気が走る。
藤は無意識でふたたび矢に手をかけていたが、しのぶは鷹揚に足を組んで座ったままだった。
「新世界派の『退場者』ってだれだ? あの発言の根拠がオマエの能力なら、確実に出るんだろ?」
立ち上がってしのぶのほうへ歩いていき、派手な衣装の襟を掴む。
『近いうちに、新世界派から退場者と裏切者がひとりずつ出る』
それこそが、獣の男が伝達した予言である。
「貴様、偲様に手を──」
藤がすぐに動く。が、彼よりも早く、楽屋中に溢れんばかりだった花束がぞわぞわとざわめきだした。
『形容化』された薔薇が、贈り物にまぎれている。
虎丸たちとの闘いで見せたように、彼女の創り出す花は刃となり、皮膚を裂く。しかも様子見でしかなかったあのときより、一枚一枚がずっと鋭利だ。
紅は新世界派の操觚者の中でも、文字の力を使った気配にあまり敏感なほうではない。近接戦であれば敵なしだが、遠距離からの攻撃に対しても分が悪い。
あからさまに敵意を向けてくる藤にだけ気を取られて、部屋に入る前から仕込まれていた文字には気づかなかった。
「ちっ……」
「ふふ、きみは本当に感情が駄々漏れだな。度胸は人一倍なのにね。でも、お転婆な娘は好きだよ」
「シラ切る気かよ」
「そんなつもりはないが、文字でできたお友達の気配が随分薄くなっているようだよ。戻らなくて大丈夫かい?」
「ああ?」
友達が誰を指しているかすぐに結びついて、紅はさらに語気を強めた。繕っていた冷静さはすでにない。
「おい、退場者って、餡蜜のことじゃねーよな」
「彼女がなにで創られていようと、私たちからすればただのメイドだ。我々の倒すべきは操觚者と闘者のみ。非戦闘員の使用人までは予言の対象ではないよ」
「あっそ……。わかってたけど、オマエら話になんねーからもういいや」
しのぶの襟から手を離し、つい安堵の表情を見せる。そのあとはすぐ興味を失くしたかのように、ぷいっと扉のほうへ踵を返した。
赤髪の娘があっさりと出て行ったあと、藤は崇拝する飼い主に尋ねた。
「あの娘、『裏切者』については触れませんでしたね。寝返るつもりがあると見ていいのでしょうか?」
「どうかな。本人にそのつもりがなくても、彼女はひたむきな性格で御しやすいからね。追っかけの中に新世界派の作家がいると知って接触してみたが、私が悪さをするなら自分だけで食い止めようと思っている。仲間に話せばいいのに、不器用な子だね」
冷めてしまった珈琲のカップを手に取り、完璧な角度で口元に運ぶ。
「まあ、おまえが私を決して裏切らないように、彼女も決して八来町八雲に背いたりしないさ。適度におちょくって、あの子に新世界派の目が向いてくれているほうが都合がいい」
男装の麗人は黒菊四天王の中でも、思慮深く穏やかで、振る舞いや信念は美しい。だから藤は特別にしのぶを慕うのである。
だが──。
望まれもせず色街に産まれ落ち、操觚者として蔵相・菊小路の駒たりうることだけを目的に育てられた彼らは、決定的に何かが欠けている。
「偲様、先ほどの千代田紅への回答は……」
「嘘は吐いていない。メイドの女の子は本当に『退場者』の対象ではないよ」
彫刻のごとく整った顔立ちに一際目立つ瞳は、時折人間味の抜け落ちた残忍な光をしのばせる。
「あの人形の少女が消える、消えないに関わらず対象ではないという意味だけどね。言ったろう? ひとり、またひとりと消えていく……。本郷先生に横取りされたようなものだが、今頃闇に沈んでいる者もいるはずだ。さあ、新世界派崩壊の序幕が始まるよ」
異国の装飾をふんだんにあしらった楽屋に、真っ赤な薔薇がひとひら舞った。
***
ようやく戻ってきた小柄な娘に、おみつはいつもの癖でけんか腰に声をかけた。
「ちょっと、お紅。遅いのよ。待ちわびてよ。置いて帰ろうかと思ったわよ。……あら? さっきとは打って変わって、なんだかご機嫌じゃなくって?」
「べつにー?」
「コロコロと気分の変わる女は殿方に面倒がられるのよ」
「うるせー、よけいなお世話」
口では悪態をついているが、出発前のような険はない。
紅はぷいっと膝下丈スカートの裾をひるがえし、自働車で待っている白玉と茜のほうへと歩いていった。
「ふうん、まあいいけど。目当ての俳優に手でも振ってもらったのかしら」
白いワンピースの背中に落ちる長い赤髪を見送りながら、おみつ自身も軽やかにあとを追う。
「あたしも、今日はなんだかすごく調子がいいみたい。手足が軽いし、気持ちも晴れやかだわ。自分の存在が安定してる感じ……。外出のおかげかもしれないわね。館に帰ったら、あらためて主にチケットのお礼を伝えなきゃ」
出かけに感じた眩暈はたまたまだったのかも──。
少女がそう思った矢先に、異変は訪れた。




