十五 おまえは誰も救えない
家族写真に写っていたのは、近眼用の眼鏡をかけたおさげ髪のおとなしそうな少女だった。
虎丸たちの目的は、生前の彼女を憶えている人間を見つけること。上流階級の令嬢が通う女学校で、庭師として雇われている用務員の老人を探し当てた。
少女はいつもひとり、庭で花を眺めていたのだという。
「匂ひ紫の甘いヴァニラのような香りを嗅ぐと、あいすくりんが食べたくなると恥ずかしそうに話していてね。当時できたばかりで女学生に人気だった喫茶店が神田にあるらしいんだが、いつか誰かと行ってみたいと言っていたな」
「あー! こないだの店か!」
と、虎丸が声をあげる。
茜とのデートで立ち寄っていたのは、ともに尾行していた藍とふたりで入るのが躊躇われたほど可愛らしい内装の喫茶店だった。
レストランや高級洋菓子店以外でアイスクリームを出す店はまだ少ないためか、今でも女性客は途絶えていないようだ。
「五年前の人気店やったんかいー。遅れたけど、行けてよかったなぁ」
うんうんと頷く虎丸の後ろには、拓海と十里が立っている。
美青年は片手でサラッと髪を払い、素っ気なく言った。
「流行っていることに何か意味があるのか? 五年経とうが喫茶店は喫茶店で、菓子は菓子じゃないのか」
「ふふふ。拓海、若い女の子はね、トレンヂィなほうが喜ぶんだよ~」
「要は気分の問題なんですね。理解できませんが」
「モテ男のくせに、ほんまにおまえは唐変木やな! そんなんで女子と交際したら三日でフラれるで。いやフラれろ!」
「現実の女に興味がないから一向に構わない」
「ほんならその顔ちょーだい!!」
「いやぁ、話が逸れていくねぇ~☆」
そう、今はおみつの話である。
老人は五年前に事故でこの世から消えた少女のことを、少しずつ思い出したようだ。懐かしそうに目を細め、生け垣に咲く匂ひ紫を眺めた。
「いつのまにか姿を見なくなったから、他の子と同じように途中で退学してお嫁にいったのだろうなと思ってたんだ。まだまだ花より団子の年頃だったが、今じゃどこかの名家の立派な奥方なんだろうね。きみたちは雑誌記者? 画報で上流階級のマダム特集でもするのかい?」
「マダム特集か。そうやったら、ええんですけどね……」
ようやくおみつの記憶を持つ者を見つけたが、何か変化した実感はない。
──誰かがおみつちゃんの存在を思い出して。これで、ほんまに何か変わるんやろか。とりあえずひとりはおったし、帰って白玉に報告してみよ。
もっと増やしたら、きっと……。
そう決心した矢先、突然ぐらりと目の前が暗転した。
「ん? なんか、視界が暗……」
目の前が真っ黒の闇に包まれる。
手探りで瞼を押さえようとすると、低くかすれた声が頭の中に響いた。
『おまえは誰も救えない』
それは子供の頃に離れたきりで、先ほど数年ぶりに耳にした父の声。
「虎丸くん、大丈夫? 顔色が悪いよ。濡れたままだし、どこかで一度着替えたほうが……」
肩に置こうした十里の手をするっと抜けて、体から力が抜け落ちたように地面へと倒れた。
「……虎丸くん!?」
「おい、バカ丸、どうした」
仲間の呼び声が、かすかに聴こえたような気がした。
だが、応える前にぷっつりと虎丸の意識は途切れた。
***
東京市麹町区・帝国劇場。
伊藤博文や渋沢栄一ら、錚々たる面々の主導によって完成した、ルネサンス様式五階建ての豪華な洋式劇場である。
婦女子に爆発的な人気を誇る『天つ風歌劇団』が帝劇初公演ということで、入手困難な前売制のチケットをタカオ邸女主人の阿比が金とコネに物を言わせて手に入れたのだ。
近頃ふさぎ込みがちな紅と、館にこもりきりの白玉、おみつのために主人からの心遣いである。
この場所であれば、敵組織『黒菊』の本拠地・浅草からも少し外れている。
天女の天井画、黄金色の壁、大理石の柱。どこを眺めても豪奢に造られた劇場から出ると、おみつはほうっと感嘆のため息を吐いた。
「いくら麗人だからって、男装の女性を観て何が楽しいのかしらと思っていたけど……。これはありね、断然あり。きらびやかで美しくて素敵だったわ。ね、玉ちゃんと茜もそう思わなくて?」
舞台鑑賞を終え、外はすでに夜。
薄水色に染まったワンピースの裾をひるがえし、後ろをついてきている弟たちに声をかけた。
「えっと、歌がすごくて、踊りがすごかったですね!」
すごかったとしか伝わらないが、白玉が人形関連以外の演劇を観るのは初めてだ。表情とぱちぱちと叩く手から、楽しんでいたのがわかる。
役者と観客どちらの熱気も凄まじく、幕が下りたあともしばらく歓声が止まなかったほどであった。
礼装姿の茜も襟元のアスコット・タイを緩め、やや紅潮した頬を手であおいでいる。
「綺麗だったね。普段は二枚目歌舞伎役者とか男性俳優が出演してる舞台しか観ないけど、歌劇もいいね」
「どうして茜は美男が好きなのかしら……。お紅はお紅で、少女歌劇とか『義経記』の静御前が大好きだし、変な姉弟ね」
やや趣味は違えど、姉弟揃ってミーハーなのは間違いない。
「紅ちゃんはあまり性別関係なくて、面食いなだけだよ。とくに中性的な美男美女がね」
「まさか八雲さんのこと、顔が好きなだけじゃないわよね……」
「あはは、顔はものすごく好きだと思うけど。でも同じ見た目の化鳥さんにはちょっと引き気味だったし」
「あの方は、もはや外見がどうこうの問題じゃないと思うわ。そもそも同一人物だからややこしいのよ」
ふと気づくと、噂の当人である赤髪娘の姿がない。
「あら、そういえばお紅は? 帝劇に呼ばれるのがどれほどすごいかだの、これからは娯楽演芸の時代が来るだのって、さっきまで早口で語ってたじゃないの」
「紅ちゃんなら、『天津風しのぶ』の出待ちに行ったよ」
「でまち?」
片手用の杖をついた白玉が、きょとんとした表情で尋ねた。
「うん。スタァが出てくるのを待って、手紙や贈り物を渡すんだって。人だかりがすごくて時間がかかるかもしれないから、三人でお茶でもしててって言ってたよ」
「あ、ぼく、お団子食べたい!」
「じゃあ甘味屋さんに行きましょ。向こうの通りに、夜まで営業って看板の出た店があったはず……あら、劇場の売店であいすくりんが売ってるのね」
帝国劇場ができたのは四年前。おみつがこの世を去ったあとのことだ。
人形の身体を得て蘇ってからもタカオ邸をほとんど出ていないので、『今日は帝劇、明日は三越』という一世を風靡した宣伝文句も知らなかった。
おみつが欲しそうにそわそわしているのに気づいて、茜が提案した。
「あれも買っていこうか。冬だけど、火照ってるからちょうどいいよ」
「いいの?」
「うん。おみつちゃんってヴァニラの香りがするから、食べたくなっちゃうんだよね」
「え、えええっ!?」
甘い香水の匂いでアイスクリームが食べたくなる、という意味でしかないのはわかっていても、多感な少女はつい過激な発言と曲解して声をあげる。
「おぅらら。じゃぽね・殺し文句……。茜が将来十里さんみたいに気障なホニャララになったらどうしよう。ところでぼく、お邪魔ですかねぇー?」
ハーフ青年の仏蘭西式リアクションを真似しながら、弟の白玉は冷やかしを飛ばす。
本心では、姉の生き生きとした表情を見れるのが嬉しいのだ。
三人の若者たちは、和気あいあいと会話をしながら売店のほうへと歩いていった。
その頃、劇場の楽屋では──
大量に贈られた花束とプレゼントの陰に隠れるように、人目をはばかって抱き合う男女の姿があった。
しかし、一見男女に見えるだけでじつは女同士である。
「やあ、赤い髪のお姫様。私に会いに来てくれたんだね」
「……」
桜色に輝く毛先を揺らす、つい今しがたまで舞台で声援を浴びていた天津風しのぶ。
その俳優に後ろから抱かれているのは、彼岸花の長い髪を下ろした小柄な娘、紅であった。




