Hey,my dear *** 1
もし俺たちがあの時のままの学生だったら、『抱きしめる』なんて事はいとも容易く出来たんだろう。それでも、『あの時のまま』の時間は実際には存在しない。
だって、社会人なのだから。
「本当に、遅れて申し訳ありませんでした!」
俺の5歩程さきで監督や関係者に謝る壱を、ただじりじりとした気持ちで眺めていた。
記者会見は無事に終わって、今日の芸能新聞の夕刊にはもう壱の顔が大々的に乗るだろうことは容易に理解出来た。
「いえ、顔を上げてください。無事すんだ事だし、良しとしましょうよ。それに、すこしじれったい方が注目を浴びる」
「ですが……」
何か腑に落ちないような顔をして、壱は眉を顰めた。きっと外面も時間さえ経っていたとしても、こいつの完璧主義とかいう内面はあの時のままなんだろう。
「しかし、驚きました。市川先生とナツは同じ高校だったなんてなぁ」
監督がガハハと笑う。その言葉に苦笑いをした壱に対して、俺はまたしても壱をこの場で抱きしめたくなってしまうわけだ。
「このドラマ。絶対成功させましょう」
「はい、よろしくお願いします」
それにしても、よくよく考えてみれば不思議だなと思う。あの壱が良くこんな面倒臭い事をするようになったんだな、なんて。俺宛てのメッセージを送りたかった、なんて事実はここ5、6年で一番の嬉しさだったけれど、そのメッセージがあの内容ってことは凄くムカつく。
それに、こんな機会さえなければ、俺は多分絶対にあの小説を読まなかっただろう。あの後書きの文面からして壱もそれを分かっていた筈。じゃあ何でわざわざ小説にしたのか。その謎だけが、いつまでも残る。
「じゃあ、今日はお疲れ様でした。野中監督、後日またお会いしましょう」
「はい、その時にもう1回綿密な打ち合わせを」
「市川先生、行きましょう」
「あ、はい。お疲れ様でした!」
監督やその後ろでガヤガヤとしている出演スタッフに一礼して、出版社の編集の人に連れられて壱は部屋を出て行こうとしていた。
「お疲れ、市川せんせ」
部屋の隅からトコトコと壱に近寄っていく男にぎょっ、とした。
あんな奴、出演に居たっけ? …いや、出演者にも、スタッフにも居なかったはずだ。ていうかそもそも俺はどうしてあんな影の濃い奴に気付かなかったんだ……?
「明、お前どこ行ってたんだ?」
「ん? ずっと見てたよ? かっこよかったよーお前」
「言うな、恥ずかしい」
妙に慣れ慣れしいってことは、元からの知り合い。俺の知らない、壱の知り合い。
「ナツ、ここんとこ休みなしで疲れたろ、今日はもうオフにしてもらって……って、おい、どうした?」
いつの間にか俺の隣に居たザキさんは、手帳を広げながら不思議な顔をして俺を見ていた。
「ん? あ、あぁ。なんでもない。で、次の仕事、なんだっけ?」
「いや、だからオフ。疲れ溜まってるだろうから、社長が休み入れろってさ」
「薺が?」
「うん。お前、これからどうする? 飯でも食いにいくか?」
何でこんな超絶良いタイミングで、あいつが俺のスケジュールに穴を開けたんだ……? きっと薺は全部分かっていた筈だ。この小説のモデルが誰だったのか、この小説を誰が書いたのか、その人物が今日この場に来る事も。
きっと、あの記者会見も見ていた事だろう。
「ザキさん、壱…市川先生って、これから何か予定あるか?」
「市川先生? …んー。無いと思うぞ、編集さんが、先生は昨日からここに宿泊してるって言ってたし、今日も泊まるだろうしなぁ」
「少し、話ししてぇな」
色々と、社会には絶対に公言出来ない話でも。
「お前同級生だって言ってたからな。お前が誰かを懐かしむなんて、珍しい事も無い。行こう、アポ取ってみるか」
「ありがと、ザキさん」