エピローグ=影の底-第5話「波紋」(最終話)
◆エピローグ=影の底-第5話「波紋」(最終話)
学校の帰り道、ぼくはふと足を止めて空を見上げた。
流れていく雲の形は、ぼくの世界とほぼ同じだった。
でも、ほんの少しだけ違う。
その“ほんの少し”のズレが、もう怖くなかった。
むしろ、ぼくはその埋められないズレに、静かに救われているような気さえしていた。
――無限の世界のぼくが、「ここでいいや」と思っているのか。
そんな考えが、今は自然に胸の中に浮かぶ。
ぼくがこの世界から押し出されないのは、どこかの世界の“押し出すことができるぼく”が、もうぼくを玉突きする必要がないと思ったからかもしれない。
「ここでいいや」
「ここで十分だ」
「ここなら、生きていける」
そんなふうに、世界に納得したどこかのぼくが、どこかの世界に存在している。
だから、ぼくはこの「ほぼ一致」した凪の中に留められている。
ぼくは歩き出しながら、胸の奥に沈んだままの重い“影”をそっと撫でるように思考を巡らせた。
――じゃあ、ぼくがいたはずの世界には、今、どの世界のぼくがいるんだろう。
ぼくが玉突きされた、あの世界。
碧が生きていて、守埜が亡くなっていて、ぼくが消えない後悔を背負って立ち尽くしていた、あの場所。
そこには今、誰が立っている?
どの世界のぼくが、ぼくの部屋で、ぼくの家族と、ぼくの友達と、ぼくの碧と過ごしているのだろう。
そう考えた瞬間、また背中が冷えた気がした。
今、ここで考えているぼくのこの意識さえ、本当はぼくのものではないのではないか。
この考えも、この感傷も、この決意さえも、世界がぼくを馴染ませるために用意した、ただの「もっともらしい反応」に過ぎないのではないか。
ぼくが「ぼく」だと思っているものは、何万回も上書きされた後の、ただの残像ではないのか。
ぼくは、もう一度立ち止まった。
街路樹の影が、ぼくの足元で長く伸びている。
ずっとぼくを苛んできた「上書き」の恐怖。
自分を偽物だと疑う底なしの暗闇。
けれど、その暗闇の最果てで、ぼくは気づいた。
たとえ記憶が混ざり、感情が書き換えられ、この世界が精巧な偽物だったとしても。
いま、この瞬間に「ぼくは偽物ではないか」と絶望し、抗い、必死に考えているこの意識の震えだけは、この世界の誰にも、どの世界のぼくにも、決して肩代わりさせることはできない。
「ぼくは、ぼくだ」
その考えが、確かな輪郭を持ってぼくの内側で鳴った。
世界がどうあれ、いまここで揺れているこの心だけは、絶対にここにある。
ぼくがこの答えに辿り着き、自らの足でこの世界の土を強く踏みしめた、その瞬間だった。
視界の端が、ゆっくりと、けれど力強く波打った。
――世界が揺れた。
ほんの一瞬だった。
視界の端が、静かな水面に巨大な石を落としたみたいに、深く、鮮やかな波紋を描いた。
それは押し出される前の不吉な揺れでも、落ちる前の崩落の前兆でも、あの不気味な影の遅れでもなかった。
もっと深く、魂の奥底に直接響くような、共鳴の揺れ。
――誰かが、動いた。
そんな確信が、雷鳴のようにぼくを貫いた。
ぼくじゃない。
けれど、間違いなく「ぼく」だった。
どこかの世界の、同じように「ここだ」という答えに辿り着いた“ぼく”が、ほんの少しだけ位置を変え、ぼくに応答したような、そんな気配。
無限に連なる玉突きの連鎖が、一瞬だけ完璧に調和した感覚。
胸の奥がひやりとした。
でも、怖くはなかった。
その揺れは、遠い故郷からの呼び声のようでもあり、何処か懐かしく、自分自身からの祝福のようでもあった。
揺れはすぐに収まり、世界は再び「ほぼ一致」の静寂に戻った。
けれど、もう、ぼくの胸の内の灯りが消えることはなかった。
夕方の風が、今までよりも少しだけ鮮烈に頬をかすめていった。
ぼくは前を向き、再び歩き出した。
了




