動揺
1
地元に戻って三週間が過ぎた。
最初の数日は、時間の流れに身体が追いつかなかった。
夜になると妙に目が冴え、朝は理由もなく胸がざわついた。
だが今は、波の音で目が覚める。
二階の窓を開けると、潮の匂いが流れ込む。
台所に降りると、母が味噌汁をよそっている。
「おはよう」
「おはよう。顔色、だいぶ良くなったね」
父は新聞を広げたまま、視線だけを上げる。
食卓に並ぶ湯気。
焼き魚の匂い。
妹の他愛ない話。
直人はゆっくり箸を動かす。
東京では、朝は戦闘開始の合図だった。
電車の混雑、上司の視線、数字の圧力。
ここには、競争がない。
ただ、ゆったりとした時間がある。
母が何気なく言った。
「この前ね、拓海くん見かけたよ」
直人は手を止めない。
だが、心拍は速くなる。
「そうなんだ」
それだけ返す。
妹が続ける。
「なんか、ちょっと疲れてる感じだったよ」
会話はそれで終わる。
誰も深追いしない。
会いたくない。
その感情は、はっきりしている。
再会して何かが解決するとは思っていない。
謝罪を聞きたいわけでもない。
拓海との過去は封じておきたい。
東京へ出た理由の一つが、彼だったのだから。
2
朝食後、海岸まで歩く。
潮風が頬を撫でる。
防波堤の先に立ち、水平線を眺める。
海は変わらない。
高校時代、この海を見ながら
「早くここから消えたい」と願った。
その願いは叶った。
しかし、東京で成し遂げることはできなかった。
寄せて、返す波を見ながら砂浜の上を裸足で歩く。
足裏に伝わる冷たさが心地よい。
遠くに人影が見える。
背丈。歩き方。
一瞬、胸が強く打つ。
視線を逸らす。
確かめない。
もし彼なら。
もし目が合ったら。
あの頃の空気が蘇る。
教室のざわめき。
笑い声。
逃げ場のなさ。
直人は歩く方向を変える。
再会を望んでいない自分を否定したくない。
許せないわけではない。
ただ、関わらなくていいのならそうしたい。
それが今の正直な気持ちだ。
太陽の光が海に反射して眩しい。
直人は目を閉じて深呼吸する。
遠くの人影は、やがて見えなくなった。
過去は振り返らない。
振り返らずに前に進めると思えているから。




