気配
1
この街では毎年八月に海岸で祭りが開催される。
その準備が本格的に始まった。
町内会の軽トラックが通りを何度も往復し、
赤い提灯が軒先に吊るされる。
直人は家の前で脚立を支えていた。
父が紐を結びながら言う。
「若いのが何人か手伝いに来るらしいぞ」
直人は何も聞かない。
だが、胸の奥がざわめく。
2
午後、母に頼まれて商店街へ向かう。
通りの向こう側に、人だかりがある。
笑い声。
男の低い声が混ざる。
直人は視線を上げる。
そこに、いた。
作業着姿。
少し日に焼けた横顔。
腕まくりした腕。
拓海だった。
距離は二十メートルほど。
気づかれてはいない。
だが、足が、動かない。
拓海は笑っている。
あの頃と同じように、周囲の中心で。
だが違う。
笑い方が、どこかぎこちない。
直人は目を逸らす。
心臓の鼓動が強くなる。
会いたくない。
はっきりと、そう思う。
だが、その願いとは裏腹に、拓海はこの町にいるのだ。
逃げ場はない。
東京のように人混みに紛れることもできない。
直人は踵を返す。
その瞬間、
遠くから名前を呼ばれた気がした。
気のせいかもしれない。
振り返らない。
振り返れば、目が合ってしまうかもしれない。
目が合えば、何かが始まる。
それを、直人は望んでいない。
歩幅を速める。
背中に視線を感じる。
実際に見られているのか、ただの錯覚かは分からない。
家に着くまで、呼吸は浅いままだった。
3
部屋に入り、扉を閉める。
静寂。
波の音が遠くに聞こえる。
直人はベッドに腰を下ろす。
胸に手を当てる。
鼓動は少しずつ落ち着く。
会いたくない。
はっきりとした感情だ。
再会は、望んでいない。
向き合う準備もできていない。
今日の海は穏やかだ。
だが、直人の心の中は荒れた波が打ち寄せていた。




