表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
花とナイフ  作者: 玉緒
第三章 感染
50/61

第五十話 彼女の剣先(1)


 

 翌朝、寝間着姿のまま居間に降りた華絵を、すでに身支度を整えたレンが迎えた。

 その横には、同じようにして黒ずくめの恰好に身を包んだハクが立っている。


 時刻は朝の六時。


 千景が去ってからまださほども時間が立っていないから、おそらく狗は床にもつかず出発するつもりなのだろう。華絵も十分な睡眠を取ったとは言い難いが、仕方がない。伊津乃の面々とてそうそう悠長に待ってはくれないはず。おそらく今日一日が、華絵たちに与えられた猶予だ。

 それを過ぎれば、彼らは再び決断を迫ってくるだろう。


「もう、出かけるの?」


 そう言ったのは、華絵の物音で目を覚ましたらしい宝良だった。

 薄手のパジャマにカーディガンを羽織っただけの寒々しい恰好を見て、彼女の忠犬がソファにかけてあったキルトを主人の肩にかける。

 

「まだ早いんだから、宝良ちゃんは寝ててよかったのに」

「……そういうわけにも行かないでしょ。私に無断で出かけるつもりだったの?」

「レン様のお手伝いをするだけだよ。すぐに戻るから、心配しないで」

「でも……」


 不安げに瞳を揺らす宝良の細い肩を、ハクがそっと抱きしめる。

 この二人は、ずっとこうやって支えあって生きてきたのだろう。

 宝良が与える愛が、ハクを育て、彼の心を育ててきた。


 そんなふうに思いながら、華絵は黙って抱き合う二人を見つめた後、リビングの窓から外の様子を伺っているらしい自分の狗に目を向けた。


 立ち尽くす華絵や、慰めあう二人には目もくれず、ただ一心に外の様子と敵の気配を伺っている彼が、何を考えているのかはわかる。

 どうやったら自分の楔姫を守り通すことが出来るのか。

 ただそれだけを考えて、あとのことは取るに足らない些末な問題に違いない。


 もし自分が幼いころから彼の傍に寄り添い、この愛情を注ぎ続けてきたのなら、レンは今不安げに見つめる華絵を抱きしめて、「大丈夫だ」と囁いてくれたのだろうか。

 宝良とハクのように、そんな二人になれたのだろうか。


「……レン」


 今更だわと心の中で小さく自嘲し、華絵はレンの名を呼ぶ。

 忠実な狗はすぐさま視線をよこし、華絵が手招きするより前に彼女の元へ歩み寄った。


「少し話が出来る? 二人で」

「はい」


 レンが頷くと、ハクに抱きしめられていた宝良がハッと顔を上げ、狗の手を引いてリビングの扉へ向かう。


「華絵様。お話でしたらお邪魔でしょうから、私たちは玄関で待っています」

「ありがとう、宝良さん」


 礼を告げる華絵の顔を見て、宝良が一瞬目を見開く。

 けれど彼女はすぐさま察したように頷き、ハクを連れて部屋を後にした。


 しんと静まり返った室内で、自分の鼓動がいやに響いている気がする。

 華絵はぎゅっと両手を握りしめて、それから恐る恐る、目の前に立つ青い瞳を見上げた。


 すらりとした長身の、本当に美しい青年だった。

 白い額に流れる黒髪も、赤く妖艶な薄い唇も、ガラス玉のように透き通った青い瞳も。

 この生き物のすべてが自分のために存在しているのだと分かっても、きっと未来永劫、髪の毛一本だって手中に収めたと感じる日は来ない。


 そんな気がしている。


「ご安心ください。今日中にすべての事を終わらせます」


 華絵が言葉を探していると、レンの方からそう口火を切る。

 どうあっても皆殺しなどに手を貸したくないという華絵の気持ちを汲んでの事だろう。

 だから華絵も頷いて、その力強い言葉に笑みを浮かべた。


 今再び、二人で逃げようと言ったら、彼はどうするだろうか。

 すべてを捨てて二人、どこか遠くで暮らそうと懇願したら、少し困った顔をしながら、それでもきっとこの手を取って逃げてくれるに違いない。

 

 そうしたっていいじゃないかと、胸の中で花開いた恋心が叫ぶ。

 この男を愛してる。心の底から好きなのだから、全部捨てて、二人で生きたいと。


 今も、こんな話がしたいわけじゃない。

 ただ強く、その手で抱きしめて欲しいだけなのに。


――――でも、それではきっとダメね……


 たかが人間の恋心だと、レンは思っているだろう。

 それは脆弱で、移ろいやすいものだと、侮っているのだから。


「無差別に罪のない人間を巻き込んだりはしません」

「ええ、勿論よ。でも、……無茶はしないでね」

「はい」

「……レン」

「はい」

「レンの事、大好きだからね」


 そう言って、そっと伸ばした手で彼を抱きしめる。

 硬い腹や、細い腰の感触も、気づけばこの腕は覚え始めていて、華絵は少しだけ幸せな気持ちになって目を閉じた。


「大好きよ」


 もう一度繰り返して力をこめれば、そんな彼女を包む優しい腕が回された。


「はい」

「はいじゃなくて、レンは私の事どう思ってるの?」


 見えないけれど、きっと今、馬鹿真面目な顔をして考え込んでいるに違いない。

 狗である自分に、なぜ愛情の有無を確認するのだろうと、不思議に思っているに違いない。

 

「レンは、私の事好き?」

「愚問です」


 思った通りの返答に、ますます華絵の頬が緩む。


「愚問ですじゃなくて、私の事女性として好きかどうか尋ねているのよ。ハクだってよく、宝良さんのこと大好きって言ってるわよ」

「はあ。ですが分かり切ったことを、わざわざ口にする意味があるのでしょうか」

「あるのよ。少なくとも、人間の恋人同士には必要なの」

「……」

「恋人よね?」


 ふと不安になって顔を上げれば、てっきり無表情で困り果てていると予想していた相手が、妙に怪しい笑みを浮かべていたので、華絵は面食らってしまう。


「恋人です。その言葉が適切かどうかは分かりませんが」

「……なら、良かったわ」

「あなたに対する感情をうまく言葉には出来ません。ですが、それを望まれるのであれば、善処します」

「普通、望むと思う」

「そうですか。では、あなたを愛しています」

「……」

「それが俺の全てです」


 そう言って、青い瞳の狗が薄桃色の唇に優しくキスをした。







「……行ってしまいましたね」


 玄関でそれぞれの狗を見送った後、振り返った宝良が言う。

 華絵は頷いて、それからずっと張りつめていた体から空気を抜くように長い息を吐いた。


「宝良さん、お願いがあるの」

「なんです姫様」


 何かを察していたらしい宝良が、別段驚いた様子もなく玄関の戸に鍵をかけながら答える。


「お金、持ってますか? 少しで良いんです。久々宮の病院に行きたいんです」

「……病院」 

「ええ。それから電話も一本、かけないと」


 そう言って、出かけるための支度を手早く整える。

 宝良が持ち合わせていたわずかな小銭だけを握りしめて玄関の扉を開いたとき、そう言えばこうして単身で出かけるのは初めてだなと、情けない事実に気が付いた。


 千景が戻ってきた時の対応のため留守を宝良に頼んでみたものの、本当に一人で目的地へたどり着けるのだろうかという不安がこみ上げる。

 

――――でも、宝良さんを巻き込むわけにはいかないか


 あの女性は、その名の通りハクの尊い宝物なのだ。

 傷一つだってつけるわけにはいかない。


――――大丈夫。久々宮の病院なら、何度も行ってるもの


 そう自分を鼓舞して、見かけた標識を頼りに最寄りの駅へと向かう。

 途中公衆電話に立ち寄り一本電話を入れた以外は、ただひたすらに慣れない街並みや人ごみに右往左往しつつ歩を進めた。


 華絵が目的地である久々宮私立病院に到着したのは、出発から4時間後のことだった。

 日はすでに昇りきり、白い日中の太陽光が肌を照らす。

 真っすぐにバスを乗り継いでいけば1時間ほどの距離であるところ、その4倍かけて到着した彼女は、歩き過ぎてすでに棒となった足をさすりながらよたよたと病院の裏口に回った。


 長旅に憔悴しきっていた心と体だったが、しかし裏口の生垣に腰かけていた着物姿の小柄な女性を見つけると彼女は思わず駆け出し、広げられた両腕の中に飛び込む。


「小巻っ……!」

「華絵様!!」


 時間にすればほんの数日の事なのに、ずいぶんと長い間離れ離れになっていた気がして、華絵は自分よりも小さなその体に縋りつきながらこみ上げる涙をぐっと噛みしめた。

 小巻の方も、華絵の崩れ落ちそうな体を強く抱きしめて、何度も何度も彼女の髪を撫でる。


「よくぞご無事で……ずっと、ずっと心配しておりました」

「来てくれてありがとう……小巻」


 道中、思い切って染谷の家に電話をし、小巻への言伝を頼んだ。

 きっとそれを聞いて、すぐに里から駆けつけてくれたのだろう。


「昨晩、染谷と久々宮の家長が御本家に呼び出され、それ以来音沙汰がございません。おそらくは謀反を疑われ、軟禁状態にあるのだと思います」

「マスコミへのリークの後、私と宝良さんが富士白のビルから逃げたせいね」


 近くの薬局から戻ってきた小巻が、裏口で華絵の足を冷やしながら里の様子を告げる。

 その憂いの瞳を見れば罪悪感がこみ上げてくるが、東京にいる華絵が出来ることはあまりない。

 それに、今更後に引くことも出来ない。


「華絵様がお心を痛める必要はありません。元より染谷一族は華絵様に付き従う覚悟です」

「……うん」

「それに、お家の事情が明るみになり始めた今、小巻とて里でのうのうと暮らしているつもりはありませんよ。たとえ武永様に楯突くことになろうとも、どこまでもお供いたします」

「すべて知ったのね、小巻も」


 華絵の問いに、しばらく躊躇った後、小巻は「はい」と小さく返事をした。


「恐ろしいことです。とてもとても、恐ろしいことです。……ですが」


 小さく揺れる瞳に、薄っすらと涙が浮かぶ。

 家を愛し、里を愛する小巻にとって、藤代一族の犯してきた罪はどのように映ったのだろうか。


「華絵様に申し上げたことはありませんが、小巻とて、楔のはしくれ」

「……え」


 思わず身を乗り出して眉根を寄せた少女に、小巻が力なく微笑む。


「狗が腹で流れ、成り損ないとして生まれた楔が小巻なのですよ」

「……じゃあ、伊津乃の千景さんが言ってた我々っていうのは」

「伊津乃の成り損ないである千景とは旧知の仲です。長年お家の悪行を知りながら、小巻に黙っていた事実に腹も立ちますが、伊津乃の家に忠実なあの男を思えば、無理もありません」

「…………」

「いい年をして、子供のようなこの姿は華絵様の目にもきっと奇妙に映ることでしょう。ですが、この奇妙な姿形こそ小巻が成り損ないである証拠。だからこそ小巻には、つがいを亡くした楔や狗の気持ちがよく分かります。長らく狗が生まれなかった雪絵様、そして、楔を失ってしまったゼン様、成り損ないの千景。小巻には、彼らの痛みがよくわかるのです」

「……知らなかった」


 成り損ないとして生まれてきた彼女が、どれほど苦しんでいたか。

 それはきっと、大きな痛みだったに違いないのに。


「いつも笑っていてくれたから、……知らなかったわ」


 鈍感なまま、彼女の優しさに甘えてばかりいた。

 そんな自分の愚かさに嫌気がさして、華絵の瞳に再び涙の膜がはる。

 零れ落ちた一滴を優しく指ですくって、小巻は微笑んだ。

 いつもの、優しい彼女の微笑みだった。


「笑顔でいられたのは、華絵様がいてくださったからです」

「……私なんて、何もしてないじゃない……」

「いいえ違います。雪絵様も華絵様も、小巻の宝物です。ずっとずっと、幼い頃から見守ってまいりました。雪絵様亡き後、華絵様のご成長だけが、小巻の心のよすがだったのです」

「……」

「いずれあなたがお家を導く存在になるのだと、確信しておりました。あなたは強いお方です。ほかのどの姫様たちより、ずっと強いお方です。そういうふうにお生まれになった特別な姫様なのです。その姫様が、染谷の狗の楔姫様です。それは染谷の誇りであり、小巻の誇りです」


 そうだろうか。

 とてもそうは思えない。


 でもきっと、そうあらねばならないのだろう。



 零れた涙を振り切って、華絵は頷いた。

 ゆっくりと、けれど深く頷いた少女を見て、小巻が目を細める。


「……行きましょう小巻。やらなければならない事があるの」

「無論です姫様。お供いたします」


 立ち上がり、歩き出した華絵の後ろに小巻が付き従う。

 

 たくさんの痛みや、悲しみがあった。

 それでもなお愛する者との未来を願う者たちがいて、その悲願のすべてが、この背中に負わされている気がした。

 それを重圧だと嘆いてしゃがみ込めば、従順な狗が駆けつけて抱き上げてくれるだろう。


――――ごめんね……レン


 彼が、無差別な殺人を望んでいないことくらいわかる。

 でも彼の秤の片側には常に華絵が乗っていて、傾きはいつだって一方的なものだ。


 そもそも人命の尊重など、人類の救済など、鬼にとっては些末な厄介ごとでしかない。

 その上で家に楯突くのならば、マスコミの相手で混乱している今以上の好機はないだろう。

 元より勝算の薄い賭けを何とかしようと、レン自身が作り出したこの好機。

 彼はこのタイミングを逃しはしないだろう。


――――「俺が調べます」


 たった一日で、まともな選定など叶うはずもない。

 彼らは裏家業に通じているけれど、製薬会社としての表の商売とは縁遠いはずだ。

 だからあれは、ただ華絵を安心させるために言った言葉だと思った。

 きっと彼は真剣に調べてくれる。

 今日一日を使って、出来うる限り華絵の望みを叶えてくれようとするだろう。


 でももし無理だったら?


 それはそれで、仕方のないことだと割り切るだろう。

 必要な犠牲だったと、さめざめと泣く華絵に言うだろう。

 そして十中八九そうなるだろうと、今も考えているに違いない。

 あれはそういう狗だ。



 見知った病院内を、誰にも見つからぬよう上手にすり抜けて、普段は自分のために用意されている特別な病室を目指す。


 あの部屋を、今誰が使っているのか華絵は知っていた。


「……華絵様」


 病室の扉の前で、ドアの取っ手に指先を当てたまましばし静止した華絵に、背後から小巻がそっと声をかけた。大丈夫よと答えて、鉛のように重たい戸を引く。


 多分、ここから始めなければいけないのだろう。

 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ