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花とナイフ  作者: 玉緒
第三章 感染
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第四十九話 鬼の反乱(2)

 


 里にいる伊津乃の茜と連絡を取るため、千景と名乗る中年の密偵が隠れ家を出たのはほとんど空が白み始めた明け方の頃だった。


 彼は通信機器の傍受を警戒し、隠れ家にいる全員に携帯電話などの使用を禁じ、自分が戻るまでは一歩も外に出ないよう口酸っぱく繰り返したが、もとより行く宛のない四人だとレンが答えると、安心した方に頬の緊張をゆるめた。

 だから、レンもハクも、そんな彼にどうしても告げることが出来なかった。


「結局は成り損ないなんですよね。携帯電話を使うな、なんて」


 呆れたように目を細めたハクが、電源を切ったままの白い携帯をテーブルの上に放り投げる。

 ガラン、と音を立てたそれが、レンと向かい合うテーブルの上に虚しくゆるく弧を描いた。


 それがピタリと動きを止めた頃、二人の男は同時にリビングにある唯一の窓ガラスへと視線をむける。

 白み始めた外の庭に、一人の男の人影がぼんやりと浮かぶ。

 音もなく現れたその影の出で立ちは、どこかホラー染みていて、それでいて滑稽でもあって、こらえきれずと言った様子でハクが小さく吹き出した。


「ほらね。里の狗には僕達の匂いを嗅ぎつけるなんて造作も無いんだから」


 そう彼が呟くと、レンもまた諦めたように立ち上がり、窓ガラスを開く。


「鍵は開いています。玄関からどうぞ」


 レンがそう言うと、能面のような顔で立ち尽くしていたマキはやや眉根を寄せ頷き、今度はきちんと玄関から姿を現した。


「お茶でも入れましょうか、マキ様」


 黙々とリビングにやってきたマキにハクがそう尋ねれば、彼はそれを颯爽と無視してまずはじめに華絵と宝良が眠る二階への階段を見上げ、それから二人の男へ振り返る。


「なんと愚かなことを……お前たちに今更何を告げても無駄だろうが」

「では何をしに来たのですか」


 淡々と尋ねるレンに、マキは胸元から不透明なビニール袋を取り出した。

 その中に白いカプセルの錠剤が透けて見える。


「三日分だ。それが、私がお前たちに与えられる最大限の猶予だ」


 密封されたビニールの小さな包みを見て、ハクが目を細める。


「聡いお前なら分かるだろうハク。レンは長く姫を持たずに生きてきた稀有な狗だ。まさか神の奇跡でここまで生きながらえてきたわけでもあるまい。結局は科学と医学の力で強引に余命を伸ばしてきただけのこと。この薬がなければ、その狗は何の力もない成り損ない以下の化け物だ」


 レンが研究所の世話になっているのはハクも知っていた。

 何かしらの薬に頼っていて、それがなければ鬼火も使えないことも。


 けれど、今になってそれを説得の材料にしてくるのは意外だった。

 レンがすでに捨て身で決意したことには、マキだって気づいているはずだ。


「わざわざこれを届けに? これじゃあ、俺に加担したように見られますよ」

「お前がやけを起こそうが知ったことではないが、姫様を悲しませることだけは見過ごせない」

「他ならぬ華絵様の望みです。俺は、あの人の願いを叶えるために存在している」


 目を伏せ、テーブルに置かれた薬を見つめながら答えたレンの言葉が静かなリビングに響いた。


「そうやって、頭を空っぽにして、馬鹿のふりをしているうちは楽だろう」

「……」

「誤った道だと知っていて、手綱に引かれるまま尻尾を振るのがお前の忠義か」


 怒気をはらんだマキの言葉にも、レンは反応を示さなかった。

 青い瞳はうつろに揺らいだまま、焦点も定まっていないように見える。


「……好きにしろ」


 呆れたように首を振ってそう言い残したマキが、踵を返してリビングを出て行くと、張り詰めていた緊張の糸が切れたハクが深くため息を付いた。


 責めるマキの気持ちも、黙るレンの気持ちもハクには理解できた。

 実際、何が正しいのかは分からない。


「レン様、差し出がましいことですけど、体のこと、姫様には伝えておくべきでは?」


 不透明な袋を見つめながら、ハクがぽつりと呟いた。

 重たい沈黙を破りたくて言っただけの言葉だったから、レンが首を横に振るのを見ても、なんとも思わなかった。


「どのみち、生涯を共にすることは出来ない」

「まぁ、そうですね」


 自分でもそうするだろうと思った。

 飼い犬の死期など、主人は知りたくないだろうから。







 休むつもりで布団に入っても、冴えた頭では中々寝付けずに華絵は身じろいでいた。

 疲れきった体が要求するがままに無理やり思考を鈍らせて、浅い夢を何度も見る。


 たくさんの顔が浮かんでは消えた。

 全てが夢だとは分かっていても、姉の雪絵が白いモヤの中で笑顔を浮かべるのを見て、心が震えた。


 祖父である武永の冷徹な顔、他人のような父の顔、怒りに歪む母の顔。

 家族なのに、誰のことも知らないような気がした。


 そもそもあの家が、たったの一度でも、家族だったことがあるのだろうか。


 夢の中には、幼いころの華絵もいた。

 何も知らない少女は、何不自由なく暮らし、屈託なく微笑んでいた。


 それから、レンの夢も見た。

 彼はなぜか薄暗い独房にいて、傷だらけの体を横にしたままぴくりとも動かなかった。


――――「この駄犬め」


 誰かがそう言って、また彼を鞭で打った。

 反応を示そうとしない幼い少年に腹を立てた誰かが、レンの体を踏みつける。


 何度も何度も、力いっぱい踏みつける。

 少年は小さく呻くけれど、やはりそれ以上の反応を示そうとはしなかった。


 これはきっと、華絵が作り出した記憶なのだろう。

 レンが、雪絵殺害の濡れ衣で幽閉されていたことを知って、勝手に作り上げてしまったイメージだ。


 だけど、目を覆わずに入られない。

 だってこれは本当にあったことで、藤代一族が持つ暗い歴史の一つなのだ。


 こんなことは、もう終わらせなければいけない。


 元より伊津乃の茜は覚悟を決めている。

 久々宮の宝良も、華絵の決断に付き従う覚悟なのだろう。

 各地の楔姫が、その家名を地に落とす覚悟でもってこの策に乗ったのも、おそらくは本家本元である華絵の決断の影響が少なからずあるに違いない。


 たくさんの悲しい決意が、この背にゆだねられている。


――――私に、……何が出来るの


 博識で勘が良く、すべての全貌を見据えていた姉とは違って、ぼんやりとした娘だったと思う。誰かの言葉をうのみにして、それを深読みするような能もない、愚鈍な人間だった。


 脳裏に、青い瞳の狗が浮かぶ。


 幼い頃の、無口な彼。不満そうにこちらを見つめている青い瞳。

 梶ケ谷の花園で再会したときの、どこか物憂げな静かな青い瞳。

 二人の夜、触れ合うことを恐れながら、凶悪な激情に燃えていた青い瞳。


 あの瞳を守るために、出来ること。



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