第2話 怪獣
一年中、絶え間なく街を支配していた蝉の鳴き声が、嘘のようにピタリと止んでいた。
陽光が降り注ぐ時間に、あの喧騒が消える。それは、世界から音が奪われたような、まるで世界が一時停止ボタンでも押されたかのような感覚に陥る。
言いようのない違和感だった。人生で初めて味わう、底冷えするような静寂。
意識が戻った。身体のどこにも、痛みはなかった。
ふと辺りを見渡せば、家も意外なほどに無事だった。
ボクが無事なら、きっと隣のあいつも平気だろう。
そう信じて、無意識に爆心地である帝都へと視線を向ける。
驚いたことに、あそこまで巨大な爆発が起きたというのに、街並みにはほとんど被害が出ていないように見えた。
その不自然なまでの平穏が、かえって得体の知れない恐怖を煽る。
マユ「大丈夫か〜ハル〜!」
ハル「アーー!何すんじゃい!」
ボクの脇腹をマユが掴んできたので思わず声が出た
マユ「ほらぁ、元気になる指圧だよ 指圧の心は母ごころ~」
不意に脇腹を強く掴まれ、私は思わず声を上げた。
マユが屈託のない笑顔で言い放つ。
ボクもマユも、どちらも机に向かって勉強することに価値を見出すタイプではない。
けれど、マユは時折、学校の教科書には決して載っていないような、
出所不明な知識を披露する。一体どこでそんな言葉を拾ってきたのか。
ハル「おかげでボクは元気だけどマユは大丈夫?」
マユ「うん、なんともない 母は強し!
それにしてもセミの声が聞こえないね~」
ハル「毎日うっさいからボクは嬉しいけど」
マユ「しかしマユ達はこのままいつも通り学校に行ってて良いのだろうか」
ハル「そんな事言って学校サボるつもりでしょ」
マユ「ぎゃ~鋭い」
いつも通り同じ事をしてればそれでいいじゃないか
何も出来なくたって仕方ないじゃないか
だってボク達はまだ子供なんだから
爆風に洗われた空は、より一層、深く澄んだ青に染まっていた。電線の隙間から、暴力的なまでの日差しが降り注ぐ。
ボクはふと、手のひらを太陽に向け、光を遮った。
顔に落ちた手の陰が視界を染めると同時に、不意に、ある記憶がフラッシュバックした。
あの日― 珍しく夜遅くに帰宅した父親が、激しく焦燥し、涙を流していた。
その姿から放たれる、ただならぬ暗い雰囲気に圧倒されてしまって
声をかけることさえできなかった、あの日の夜。
記憶の底に封じ込めていたはずの光景が、今の強い日差しと影に誘われて、鮮明に蘇った。
視界が暗転したまま、遠くで一匹だけ、蝉が鳴き始めた、徐々に音が大きくなる
後ろからずっとボクに迫るような現実に引き戻されて――
蝉の鳴き声さえも絶叫に塗りつぶすほどの猛烈な勢いで、一人の男が大地を蹴っていた。足元からは土煙が激しく舞い上がり、後方からは全身を鋼の鎧で包んだ帝国軍の集団が、獲物を追い詰める猟犬のごとき執念で迫っている。
「気張れよお前らー!目の前の星は特Aクラスのトニー・J・フランキーだぞ!!
死んでも喰らいつけ!二階級特進だ!」
「おふくろー!」
先頭を走る指揮官が、喉を潰さんばかりに檄を飛ばす。その出立ちと威圧的な言動は、紛れもなく帝国の牙である軍人たちのものだった。
だが、死に物狂いで必死に足を動かす彼らと、逃走者の距離はまったく縮まらない。
追われる側——トニー・J・フランキー。
山のような巨体に、眩しいほどツルッツルのスキンヘッド。爆走に合わせてロングトレンチコートがバサバサと激しくしなる。
とにかくデカい。そして、異様だ。軍人たちが酸欠で顔を真っ赤にしている中、
彼は呼吸ひとつ乱さず走り続ける。その超然とした佇まいこそが、彼が「只者」ではないことを雄弁に物語っていた。
トニー「帝国が一望出来る贅沢なジョギングだな」
ふと、トニーが視線を横へ向けた。眼下には、オルドレア帝国の全景が、まるで精巧なジオラマのように広がっている。
高地ゆえに澄み渡った空気は心地よく、ただ呼吸をするだけで精神が研ぎ澄まされていく。
だが、同時に視界に入ったものは、吐き気を催すほどの異形だった。
天を突き刺すオベリスクと、帝都城モルヘト。その規格外の巨大さと、不気味なまでの威圧感に、トニーは思わず呟いた。
トニー「いやーそれにしてもデカ過ぎだろ」
彼らが駆けている場所には、人も動物の気配など微塵もなかった。ただ、植物に飲み込まれた古代の遺構のような建築跡が点在し、
長い年月の経過を静かに証明している。自然に還りつつある静かな場所だ。
やがて景色が変わり、トニーたちは巨大な工場跡へと雪崩れ込んだ。
トニー「なんか来たことあるなここ」
そこは、もはや工場というよりは、鋼鉄の墓標だった。
壁一面に機械のパーツが剥き出しのまま晒され、それを貪るように青々とした草蔓が覆い尽くしている。壁、通路、フロアのすべてが、
人間という尺度を無視した規格外の大きさを誇り、迷路のように入り組んでいた。
わずかに差し込む陽光が、深い闇を不規則に照らし出し、不気味な陰影を描き出している。
トニー「懐かしいな。間違いねぇ、『お化け工場』だ」
幼き日の記憶が、静かに蘇る。 子供の頃はすべてが大きく見えたものだが、
大人になった今でも、この場所に漂う異様なスケール感には、本能的な畏怖を禁じ得なかった。
というか、正直言ってちょっと怖い。
「なぁ、ここ……本当にお化け工場なんだろ? 恨み言が聞こえてくるっていう……」
追跡する軍人の一人が、震える声で呟いた。その言葉が、冷たく湿った長い通路に不気味に反響する。
だが、トニーはそんな迷信など意に介さず、闇の中を進んでいく。やがて、通路の果てに一筋の純白の光が見えた。
まるで篝火のような希望の光へと、潜り抜けた瞬間、視界がひらけた。
そこは、外界の喧騒を忘れさせるほどに静謐な、日差しが降り注ぐ、自然豊かな内庭のような不思議な空間だった。
地面には細い川のような水流が静かに流れ、長い年月を経て自然に作られたのか、あるいは意図的な設計なのか、判別がつかない。
先ほどまでの閉塞感に満ちた陰惨な廃工場とは対照的な、安堵感に満ち溢れた聖域。
なんだかホッとするような心地よい空間だ。ここでは鳥のさえずりさえ聞こえる
遅れて踏み込んできた帝国軍が、絶句した。
「こんな場所まで逃げ込むとは、大人しく我々と……」
「——っ、何だ……これは……!」
軍人は言葉を失い、目の前の目標を捕まえる任務さえも忘れて目の前の光景に釘付けになった。
それも無理はない。そこには、まるで怒りの感情に満ち溢れた狂気の光景が広がっていた。
巨大な工場建築を、根こそぎ、暴力的に貫通した「巨大な穴」
その衝撃で建物全体が飴細工のように捻じ曲がっている。
しかし、その破壊の跡には、今にも崩落しそうな危うい均衡を保ったまま、
長い年月を経て、穴の縁や壁面には豊かな草木が生い茂っていた。破壊と自然が融合した、不気味で美しい特異点
それは、破壊と再生が共存する、残酷で美しい絶景だった。
トニー「これやったの、オロチじゃねぇかな」
トニーのぶっきらぼうな一言に、周囲がざわつく。
「オロチ……だと…!?」
リーダー格の軍人がピクつく
「最初の『龍姫』だろう?」
心地よい静寂と暖かな陽光に絆されたのか、帝国軍の兵士たちは、緊張を解いて水辺で緩やかな雑談を始めた。
「ふん!全くこれだから素人は…!その屁みたいなスカスカの頭に叩き込んでやる!耳の穴かっぽじってよく聞いておけ!
腐朽した貴族社会が貪る利権、権力者たちの飽くなき搾取に対し
あらゆる権威、拘束を弾き飛ばす苛烈な武威と、見る者を平伏させる艶麗なる美。
四魔貴族以外に繋ぎ止められる者なし、とまで言わしめた。
その相反する暴力と華の組織、『龍姫魁』を齢わずか10代の若さで創設。
自らの手で自由を捥ぎ取るその苛烈な生き様は、
同じ鬱憤を抱える庶民達の心を掴み、それは渇いた大地に染み込む水のように、人々の乾いた心に驚嘆と憧憬を注ぎ込み、
熱狂的に苛烈にその『龍姫』という存在をこの帝国に瞬く間にその名を帝国全土に轟かせた豪傑。
その伝説は、まさに魁のごとき奔放さと強靭さに満ち溢れていた…!!」
「お~」
リーダー格の軍人が、陶酔したように饒舌に語る。
その熱量は、もはや任務中の軍人のそれではなく、信徒が神を語る熱狂に近かった。
トニー「やけに詳しいじゃないの〜」
呆れたように相槌を打つと、軍人は誇らしげに胸を張った。
「当然だろう。何せ俺が龍姫公式ファン倶楽部会員番号No.000002なのだから!
この国で龍姫への愛が最も強いのは俺だ!」
トニー「おいおい、あんたら龍姫を取り締まる側の人間だろう」
「職務とプライベートは切り離すべきだと考えるのが俺のモットーだ!公私混同はプロフェッショナルでは無い!」
トニー「そうなんだねぇ」
その滑稽なやり取りを遮るように、突如として、澄み渡った青空が断絶した。
世界から光が奪われたかのように暗転し、直後、天地を揺るがす轟音と猛烈な突風が吹き荒れる。飴細工のようにねじ曲がった廃墟から、驚いた鳥たちが一斉に空へと舞い上がった。
「ヤバシコ隊長!帝都の方角で爆発が!」
ブレード「爆破テロが起きたというのか! ……だが待て、それとは別に俺の事は『ブレード』と呼べ!」
トニーは、空の色の変貌を冷徹に見つめていた。
トニー「今の爆発…普通じゃねぇな」
ブレード「何を白々しい…どうせ貴様が仕組んだ……」
隊長が言葉を紡ぎ終える前に、そこにトニーの姿は無かった。
再び、闇に塗り潰された迷宮へと、迷いなく駆け出していく。
走る振動と共に、記憶の断片がゆっくりと、けれど鮮明に蘇り始めていた。
幼き日の記憶。この場所を、確かに走り回っていた日々。そして、この場所で最後に遊んだ日の情景。
トニー「そうだ……あいつらと、かくれんぼをしたよな
チン…サットル……オロチ…
お前さん…今じゃもう伝説の人か…」
記憶の霧が晴れる。
オロチとも普通の子供のように遊んでいた思い出
今では帝国の伝説となっている事に感慨深いものがあった。
トニーの記憶の中にあるのは、ただの子供として共に笑い、競い合った、等身大の仲間の姿だった。
だが、ふと、胸に違和感が走る。
トニー「まてよ…なんか足りねぇ…あと1人居たよな…居たはずだ…オロチより強かったあの子が…名前は…」
トニーがその名前を記憶から探ろうと
動きを止めて集中した時
静寂の中で何かを察した
「…絶対に許さねえ…ぶっ殺してやる…」
声だ――
遠くで、か細く、でも確かに呻き声のような怨嗟の声が聞こえる
トニー「おいおい、マジかよ…でもこの声……」
トニーは少しビクつきながらもだが同時に、どうしようもない懐かしさが彼を突き動かした。
何が聞き覚えのあるような気がした
トニー「いつもオロチが威張ってて俺はよく泣かされていた…そんな泣き虫な俺を、ずっと励ましてくれた…あの子…
オロチにも全く動じないで、ちょっと癖のある注意の仕方で…あぁそうだ、オロチより喧嘩も強かった…」
どうして忘れていたんだろうか。誰よりも純粋に、俺たちを導いてくれた、あの子こそがリーダーだったはずなのに。
たどり着いたのは、広大なフロアだった。壁や天井には深い緑が根を張り、長い蔦が天から降り注ぐカーテンのように垂れ下がっている。
そこだけが、時を止めた聖域のように、不思議と穏やかな空気に満ちていた。
差し込む光の筋。その中心に座る、小さな影
草木が最も鬱蒼と、不自然に茂る、穴蔵の中心。 そこに、誰かが座っていた。
怨嗟の声が最も大きく近く、そして
どこか懐かしいその声を辿ってここまで来た
トニーはその子に対して思わず、迷わずに、
記憶からサルベージした名前を大切に、震える唇から絞り出した。
トニー「モ…モヴちゃん…!?」
モヴ――
その名を口にした瞬間、周囲の空間から音という音が根こそぎ剥ぎ取られたかのように、世界が静止した。
それまで続いていた声は、まるで見えない刃で断ち切られたかのように途絶える。
そこにいたのは、小さな子供の姿のままだった。まるで時間が止まっているような、別の世界線に入ったような――
無数の蔦や葉がその身を包み込み、まるで大地そのものに抱かれているかのようにその幼い影は
膝を抱え込んで小さく蹲っている。その瞳は、まるで泥濘に沈んだ硝子玉のように濁り、何一つとして焦点を結んではいなかった。
自身の世界に閉じこもっている。その眼差しはどこか遠く、現世の境界線を曖昧にさせるほどに虚ろだった。
魂が別の場所へ置き去りにされているかのような、危ういほどの空白。
人形のように静かで、そこに意思の欠片さえ感じられない。
しかし――。
トニーの声が空気を震わせたその直後だった。
閉ざされていた時間がわずかに動き出したかのように、虚ろだった瞳の奥に微かに、ただ確かに、消えかけた灯火が再び燃え始めるような、かすかな生気の揺らぎ。
その目はゆっくりと世界を捉え、長い眠りの底から意識が浮上してくるように、モヴは確かに反応を示したのだった。
止まっていたはずのその瞳の奥に、ふと血の通った輝きが、確かに揺らめいた。
「お前……トニーか?」
モヴと呼ばれたその子が
一筋の光と共に、トニーを見上げるようにゆっくりと顔を向ける。
紛れもなくモヴちゃんだった。
幼い頃のような面影などという生易しいものではない。トニーが知るあの当時のモヴちゃんそのものだった。
だが、再会の喜びに浸る余裕などどこにもなかった。
胸を満たしたのは安堵ではなく、理解の追いつかない現実に対する混乱だった。
目の前の光景が、あまりに異常だったからだ。トニーの胸中に、得体の知れない戦慄が走る。
思考はまとまらず、心臓だけが異様な速さで脈打っている。
トニー「何してるの……?」
ようやく絞り出した声は、自分でも驚くほど弱々しかった。
唇が震えている。
恐怖なのか、困惑なのか、それとも別の何かなのか。渦巻く感情があまりにも複雑すぎて、
トニーの思考は得体の知れない戦慄に支配され、瞬く間にパニックの渦へと飲み込まれていく。
モヴ「かくれんぼだよ」
淡々と放たれたその不吉なワード
トニーの脳裏に、あまりにもおぞましい考えが閃く。
否。
それは考えというより、狂気じみた予感だった。
そんなはずがない。
ありえない。
頼むから違っていてくれ。
必死にその可能性を間違いであってほしいと、祈りつつも言葉を紡いだ。
トニー「他の子供とかくれんぼしてるの……?」
全身の毛穴が一斉に開いたような感覚が走った。
背筋を冷たいものが這い上がる。
答えを聞きたい。
だが同時に、聞きたくない。
この先の言葉が、自分の世界を決定的に壊してしまう気がしてならなかった。
モヴの口から発せられる一語一語は、鋭く研ぎ澄まされた刃となって、容赦なくトニーの心臓へ突き立てられていく。
そして――
モヴ「ずっと、お前らとかくれんぼしてんだよ」
静かに言った。そこには何の感情も込められていないかのような無機質さで。
トニーが抱いた狂気じみた推測は、寸分の狂いもなくドンピシャで的中していた。
そんなことがあっていいはずがない。
どうして。
なぜ。
誰がこんな残酷な運命を許したというのか。
トニー「そ……それって……」
喉がひどく乾いていた。
言葉を紡ぐだけで苦しかった。
トニー「ずっと……もう何十年も前のことじゃ……」
モヴ「30年だよ」
間髪入れない、パワハラ上司のようなファクトチェック。
あまりにも冷たく。
あまりにも残酷だった。
モヴちゃんは表情ひとつ変えなかった。
ただ事実を述べるように、淡々と告げる。
トニーの思考はそこで完全に停止した。
頭の中が真っ白になる。
重力を失い、果てのない宇宙空間へ一人放り出されたような感覚。
現実感が急速に薄れていく。
30年。
その数字だけが、呪いのように脳内で反響し続けていた。
何を言えばいいのか分からない。
何を伝えればいいのか分からない。
慰めも謝罪も後悔も、すべてがあまりに無力で、言葉として形を成す前に崩れ去っていく。
ただトニーは立ち尽くしていた。
30年という途方もない孤独の中に置き去りにされた少女を前にして。
トニー「え…?ちょ……ちょっと待って…え?…あ、立派なキノコが頭に生えてる…」
モヴ「あ?」
――恐い。
やっぱりモヴちゃんは怒っている気がした。
言葉という概念さえ、トニーは失って、挙動不審になっていた。ゴブってわけのわからない言葉を出してしまう。
30年という歳月。
置き去りにされた時間。
たった今突きつけられた事実の重みを前にして、怒っていないはずがない。
もし自分が同じ立場だったなら――。
そんな想像をしただけで、胃の奥がきりきりと痛んだ。
全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出しているような感覚に襲われる。
指先は冷え切り、膝は力を失いかけていた。
どうすればいいのか分からない。
謝ればいいのか。
許しを請えばいいのか。
何を言っても薄っぺらく聞こえてしまいそうで、結局トニーは祈るように両手を合わせることしかできなかった。
そんなまるでゴブリンのような挙動不審さでゴブるトニーを見て、モヴは吐き捨てるように言った。
モヴ「こっちはずっと待ってんだよ、手合わせてんじゃねーよ」
その言葉は鋭かった。
怒鳴ったわけでもない。
声を荒げたわけでもない。
それなのに、胸の奥を容赦なく抉られる。
30年。
その短い一言の背後には、言葉では到底語り尽くせない時間が横たわっていた。
待ち続けた時間。
信じ続けた時間。
そして、誰も来なかった時間。
トニーは思わず息を呑んだ。
だが、それでも。
いや、だからこそ。
どうしても、
あえて、あえて確かめなければならないことがあった。
残酷な現実を前にしてなお、ほんの僅かでも希望が残されているのなら、それに縋りたかった。
そして何より――。
それが、長い歳月を独りで過ごしてきたモヴに対して、自分が果たすべき最低限の誠意だと信じていた。
トニー「30年間かくれんぼしてたの?」
モヴ「ぶっ殺すぞ」
――モヴちゃんはやっぱりブチ切れていた。本当に殺されてしまう。死を予感した。
モヴ「お前ぇ~……!!」
モヴの喉から絞り出されたその声は、怒号というより、30年もの歳月を押し潰して凝縮した叫びだった。
次の瞬間。
その小さな身体に絡みついていた無数の蔦や草が、一斉に引き裂かれる。
ぶちり。
ぶちぶちっ。
乾いた破裂音が辺りに響く。
長い年月、その身体を大地へ縫い留めていたはずの植物たちが、まるで紙細工のように次々と千切れていく。
常識では考えられない光景だった。
大人であろうと、道具もなしに蔦を引き千切ることなど容易ではない。
ましてや、幼い子供が成し遂げられるはずもない。
だがモヴちゃんは違った。
その小さな身体のどこに秘められていたのか分からないほどの力で、30年分の束縛を力任せに引き裂いていく。
やがて最後の一本が弾け飛び、モヴちゃんはゆっくりと立ち上がった。
その姿を前に、トニーは息を呑むことしかできない。
トニー「あぁ……! あぁ……!」
情けないほど震えた声が漏れる。
逃げたいわけではなかった。
弁解したいわけでもなかった。
ただ、目の前に立つモヴちゃんの怒りを受け止めるしかないと理解していた。
そして同時に――思い出していた。
三十年前のあの日を。
夕暮れの中、皆で必死にモヴを探したことを。
名前を呼び続けたことを。
それでも見つけられず、子供たちだけではどうにもできなくなって、
泣く泣く帰路についたことを。
そして翌日からモヴちゃんとは会わない日々が始まっていたことを。
忘れていたはずの記憶が、洪水のように押し寄せてくる。
モヴは拳を震わせながら叫んだ。
モヴ「かくれんぼはなぁぁぁ~ッ!!!!」
魂を絞り出すような咆哮。
モヴ「全員見つけるまで終わらねーだろぉぉぉ!!!!」
魂を絞り出すような咆哮。
だがそれだけではない。
その言葉の奥には、三十年間置き去りにされた寂しさがあった。
帰ってこなかった友達を待ち続けた孤独があった。
そして何より――。
見つけてもらえると信じ続けた子供の願いがあった。
ふと、モヴの瞳が揺れた。
ほんの一瞬。
その瞳の奥で、激昂の炎の向こう側に、光るものが見えた気がした。
涙だったのかもしれない。
誰よりも強く、誰よりも淋しかったその瞳に浮かんだ微かな揺らぎ。
その瞬間、トニーの心は深く沈んだ。
怒らせてしまったのだろうか。
悲しませてしまったのだろうか。
失望させてしまったのだろうか。
怒り、哀しみ、絶望。その全てを、この小さな肩に、
三十年という永劫の孤独として背負わせてしまったのか。
そう自覚した瞬間、トニーの胸には、
耐えがたいほどの悔恨という名の楔が深く突き刺さった。
トニー「ごめええええええんっ!!!!!!」
叫びと共に涙が溢れた。
堰を切ったように。
子供のように。
いや、子供以上に。
トニーは声を上げて泣いた。
赦してほしかった。
救われたかった。
けれどそれ以上に、伝えなければならなかった。
自分たちは忘れたわけではなかったのだと。
見捨てたわけではなかったのだと。
涙と嗚咽で言葉を詰まらせながら、それでも必死に声を絞り出す。
トニー「あの日は……みんなで……モヴちゃんを探したんだ……!」
息を吸うたびに胸が痛む。
それでも止まれなかった。
トニー「最後まで見つけられなくて……! 本当にどこにもいなくて……!
それで、次の日からモヴちゃんと会えなくなっちゃって……!」
震える声のまま、トニーは語り続けた。
30年前の夕暮れを。
友達を探して駆け回った記憶を。
帰りたくなどなかったことを。
そして、二度と会えなくなったことを。
その哀しみに蓋をするように思い出にしまいこんでしまったことを。
言い訳ではない。
弁明でもない。
ただ、あの日の――
30年間、終わらなかったかくれんぼの真実を伝えるために。
トニーの顔は慟哭でひどく歪んでいた。
大人としての仮面も、矜持も、すべてが剥がれ落ち、
彼はただ幼い日の恐怖と悔恨を抱えた一人の人間として、
声を上げて泣きじゃくっている。
その姿には、見栄も体裁も一切なかった。
そんなトニーの姿を見つめながら、モヴはしばらく黙っていた。
先ほどまで燃え上がっていた怒りの熱が、少しずつ静まっていく。
鋭く吊り上がっていた眉がわずかに緩み、その表情から刺々しさが抜け落ちていった。
やがてモヴは、小さく息を吐く。
どこか呆れたような、それでいて諦めにも似た優しさを滲ませながら。
モヴ「まぁ……俺が見つかるわけねーもんな」
その言葉は、怒りの叫びではなかった。
長い長い時間を経て、ようやく口にできた納得の言葉だった。
思い返してみれば当然だったのかもしれない。
かくれんぼに、ほんの少し本気を出してしまった。
本人にとってはその程度の認識だったとしても、その「少し」は普通の子供たちの尺度から大きく外れていた。
木陰や物陰に隠れるような話ではない。
大人ですら辿り着けない場所へ身を潜め、自然そのものと一体化するように気配を消していたのだ。
そんな相手を、当時のトニーたちが見つけられるはずがなかった。
何時間探そうと。
何日探そうと。
子供たちの力では、どうしようもなかったのだ。
その事実を改めて理解したのか、モヴの口元にかすかな苦笑が浮かぶ。
だが怒りも恨みも消えたわけではない。
モヴ「それで、他のやつらは今、どこにいる?」
ジロリンチョと睨みながらトニーに問い詰める
大人になり、山のような巨躯を手に入れたトニーだったが、
この鋭い眼光の前では、かつての小さき少年へと引き戻された。
時を経ても色褪せることのない、相変わらずの圧倒的な強者の凄味がある
「モヴちゃんには逆らえない」
そんな感覚だけは、昔と寸分違わぬままだった。
トニー「チンは帝国で秘書として働いてるよ、
色んな情報を帝国の情報を教えてもらってる
サットルは今は会えそうもない……
オロチはタイヴァスを目指して宇宙の壁を登ってるみたいだぜ」
モヴ「宇宙の壁…外にあるでっけー山か、あれに登ってんのかーあいつー!」
「宇宙の壁」
その名の通り、地表と宇宙を隔てる、絶対的な境界線。
オルドレア帝国の巨大な帝都を跨いだ、遠く離れた死海とは対極に位置するこの廃工場。
その地平の果てには、空の蒼穹の広がりさえ覆い隠すような、絶望的なまでに高く険しい連峰が連なっている。
空へ向かってどこまでも伸び続けるその岩壁は、あまりに高く、見上げる者の首を痛めるほどだった。
中腹を過ぎたあたりからは分厚い雲海が幾重にも重なり、その先を完全に覆い隠している。
晴天の日であろうと嵐の日であろうと変わらない。
雲の向こうに何があるのか。
その頂がどのような貌をしているのか、
それを確かめた者はおらず、観測の術すら人類は持たない。あるいは四魔貴族ならば…。
まるで世界そのものが、人類にそれ以上の高みを覗くことを禁じているかのようだった。
そんな峻険なる絶壁が、まるで世界を分断するように、この地球の至る所に屹立している。
世界を断絶するように屹立するその大絶壁は、この星の至る所に存在し、
まるで地表と無辺の宇宙を隔てる「宇宙の壁」として君臨している。
そして古くから語り継がれる伝承がある。
雲海のさらに上。
誰一人として辿り着いたことのない頂上には、神域とも称すべき天空の大地『タイヴァス』が広がっているのだという。
そこには地上とは異なる文明が栄え、神々に近しい者たちが暮らしているとも。
あるいは楽園そのものだとも。
語り手によって内容は様々だった。
もちろん、そんな話を真に受ける者は多くない。
証拠はひとつもなく、あまりにも現実離れしている。
それは宗教的に利用されるような教えだろうか、
あるいは子供たちへ語るおとぎ話。
あるいは人々の憧れが形になった幻想。
大半の者はそう考えていた。
だが、それでもなお。
雲を突き抜け、天を支えるかのように聳え立つその巨大な壁を見上げた時、人は思わずにはいられない。
もしかすると、本当にその上には別の世界が広がっているのではないか――と。
そんな荒唐無稽な空想さえ、信じたくなってしまうほどに、その光景は人智を超越していた。
この世界の住人にとって、それは抗いようのない至高の憧れであり、到達不能な夢だった。
人々はそれを畏怖と憧れを込めて『宇宙の壁』と呼んだ。
トニー「オロチの奴、今じゃ、伝説の人って呼ばれてんだとよ」
モヴ「ふ~ん!」
モヴちゃんの表情が柔らかくなった。身内とも言うべきオロチが人々から伝説と称されるのは嬉しかったのだろうか。
当時の事を全て思い出した気がするのに
何故かモヴちゃんと初めてあった時に
言われた妙な言い回しの言葉が空白のままだった
トニー(なんて言ってたっけなモヴちゃん…)
気になれば、なるほど、思い出せる気配が消えていくようだった。
モヴ「じゃあトニー、げんこつ1発だな」
トニー「はい!」
そんな追憶に耽っていたトニーの思考を、不意に現実に引き戻す声が響いた。
お仕置きの内容が言い渡されたのだ。
モヴちゃんに赦してもらえる
そう思うと心の中で安堵と喜びに満ち溢れた
30年という長きにわたる非礼をげんこつ1発で
赦してもらうのは、虫が良過ぎる気もした。
だがトニーはまた少し思い出したーー
モヴちゃんのげんこつで泣いて転げ回るオロチの姿を
あれからオロチはモヴちゃんに逆らわなくなった事を
間髪入れずに了承してしまったトニー
途端に全身の毛穴から汗が吹き出す
大丈夫なはずだ、俺もあれから30年鍛錬を重ねて
きたはずだ、モヴちゃんの底知れない力で多少は痛いだろうが…そう…これは禊ぎなのだ…ケジメとして
多少の痛みは我慢しなくては、いち社会人として
反射的に返事をしていた。
長い物想いから現実へ引き戻される。
そして告げられたお仕置きの内容を理解した瞬間、トニーの胸は不思議な感情で満たされた。
赦してもらえる。
その事実が、何よりも嬉しかった。
三十年もの間、終わらなかったかくれんぼ。
置き去りにしてしまった友人。
その非礼を思えば、げんこつ一発で済ませてもらえるなど、あまりにも寛大すぎる。
むしろ虫の良い話ですらあった。
胸の奥に安堵が広がる。
だが同時に――。
忘れていた記憶がふと脳裏によみがえった。
オロチである。
かつて誰よりも威勢が良く、誰よりも喧嘩っ早かった少年。
そんな奴が、モヴちゃんのげんこつを食らった瞬間。
涙と鼻水を撒き散らしながら地面を転げ回っていた姿。
その後のオロチが、まるで猛獣に睨まれた小動物のように大人しくなったこと。
そして何より。
二度とモヴに逆らわなくなったことを。
思い出した。
トニー「……あ」
トニーの顔から血の気が引いた。
了承したのは完全に反射だった。
気付いた瞬間、全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出す。
背中を嫌な汗が伝う。
トニー(ま、待て……
いや、大丈夫だ……たぶん……)
必死に自分へ言い聞かせる。
三十年前の自分とは違う。
今の自分は大人だ。
鍛錬も積んできた。
仕事も人生経験も重ねてきた。
多少やそっとの痛みで音を上げるような歳ではない。
そう。
たとえモヴの底知れない怪力が相手だとしても。
多少痛い程度で済むはずだ。
……多少。
きっと。
おそらく。
トニー「うん、大丈夫だ」
自分に言い聞かせるように小さく呟く。
これは禊ぎなのだ。
30年越しの謝罪。
けじめ。
社会人として、自らの責任に向き合う儀式。
多少の痛みくらい耐えなければならない。
そう覚悟を決めるトニーだったが――
なぜだろう。
モヴがゆっくりと拳を握るたび、その小さな拳が妙に大きく見えた。胸の動悸も大きくなった。
そして、かつて地面を転げ回っていたオロチの泣き顔が、やけに鮮明に脳裏へ浮かび続けるのだった。
モヴ「トニー大人になったし、本気で殴るか」
その平穏極まる口調から放たれた一言に、トニーの背筋を、氷水を流し込まれたような戦慄が駆け抜けた。
本気で殴る。
あまりにも短い言葉だった。
だが、その意味を理解した瞬間、心臓が嫌な音を立てる。
モヴちゃんに本気で殴られる。
その光景がどうしても想像できない。
いや、正確には――想像したくなかった。
なぜなら、基準となる「本気」を知らないからだ。
あの頃は本気じゃなかったのだろうか?
本気も出さないであのオロチを組み付していたのだろうか?
複数の大人相手でもその腕力で圧倒していたあのオロチを――
絶望的な思考が巡る中、モヴは小さく拳を握る。
ぎゅっ、と。
その何気ない動作だけで空気が張り詰めたように感じる。
モヴは淡々と、その技の名を紡いだ。
モヴ「悔恨パンチ!!」
視界が真っ暗になった。
そして、遅れて音がやってくる。
――ごんッ!!
いや、違う。
人の頭を殴ってこんな音がしていいはずがない。
決してげんこつで鳴って良い音ではなかった
ダメな音だった。
だが不思議なことに痛みはなかった。
少なくとも、肉体的な痛みは。
その代わり。
全身が小刻みに震え始める。
本能的な恐怖から細胞が悲鳴を上げ、全身がガタガタと震え出す。
脳みそが、意識が、
ぐにゃ〜っと歪んでいくような、
得も言われぬ不快感。
脳の奥で。
身体の内側で。
魂の芯で。
現実そのものがねじ曲がるような感覚。
内臓が裏返るわけでもない。
骨が砕けるわけでもない。
それなのに、自分という存在がぐしゃりと握り潰され、無理やり捻じ曲げられているような錯覚に襲われる。
次の瞬間、トニーの脳裏に、すべての混迷を切り裂くような一条の電撃が奔った――。
トニー「んんんんんぅゔんんんん”ん”ん”ん”〜!!!!」
言語を絶する悍ましき苦痛が、
頭頂部を起点として、全神経へと爆発的に伝播していく。
トニーは抗う術もなく、その場に激しく突っ伏した。
トニー「んんぅうゔんん”ん”んんッ!!!?」
両手で地面を掴み、まるで目に見えない巨大な重力に押し潰されているかのような、
まるで巨大な岩でも背負わされたかのように全身が重い。
骨の一本一本を地面へ押し込もうとしているかのようだった。
立ち上がれない。
逃げられない。
ただ耐えるしかない。
トニーは必死に歯を食いしばった。
だが――。
トニー「んぁ痛らららららッ!!!! イタららららぁ!!!」
――無駄だった。
脳の芯から始まった激痛は、
さながら悪性の疫病のように一瞬で全身の細胞へと感染し、
彼から一切の思考を奪い去っていく。
耐えること以外、何も許されない。
まるで激痛そのものが血液に混ざり、身体中を巡っているようだった。
気付けば頭頂には巨大なたんこぶが膨れ上がっている。
もはや「こぶ」という大きさではない。
まるで頭の上にもう一つ頭が生えてきたかのような異様な膨らみだった。
地を這い、無様にトニーは地面の上で足をばたつかせる。
子供のように。
いや、苦痛にのたうつ虫のように。
情けも外聞もなく悶絶する。
その様子を、モヴは無言で見下ろしていた。
表情一つ変えず。
一切の感情を排した双眸で。
そしておむろに、自身の頭の上に生えていた小さなキノコをすぽっと引き抜く。
その何気ない仕草とは対照的に、トニーは絶叫した。
トニー「んんぅゔ痛ぃいいいいッ!!!!
わああああああああ!!!!」
正直なところ――。
もう死にたかった。
この苦痛から解放されるのなら。
ほんの一瞬でも楽になれるのなら。
そう願わずにはいられなかった。
だが皮肉なことに、意識は少しも途切れない。
気絶できない。
逃げられない。
死ぬことすら許されない。
ただひたすらに苦痛だけを味わわされる。
その時になって、トニーはようやく理解した。
なぜオロチがあれほど泣き叫んでいたのか。
なぜ地面を転げ回っていたのか。
あれは大袈裟でも何でもなかった。
むしろよく耐えていた方だった。
全身を震わせる。
がくがくと。
ぶるぶると。
制御不能な痙攣のように身体が揺れる。
涙で視界は滲み、まともに前を見ることもできない。
それでも痛みだけは鮮明だった。
どこまでも。
どこまでも。
容赦なく。
トニー「うああああああああああ!!!
あああああああああ!!!!」
三十年分の後悔も。
大人としての威厳も。
すべて吹き飛ばしながら。
ただ一人の人間として。
ただ一人の友人として。
子供の頃と何一つ変わらない泣き声を上げ続けるのだった。
トニーの絶叫が引き裂かれた工場跡の廃墟に響き渡り、
追跡する帝国軍人たちの耳朶にまで届いた。
ブレード「なんだこの屁みたいな悲鳴は…」
ブレードの背筋に、本能的な戦慄が走った。
それは人間が発していい音ではなく、
何かに魂まで削り取られた者が上げる、
絶望の咆哮に聞こえたからだ。
ブレード「……度し難いな」
思わずそう呟いたブレードの額には、知らぬ間に冷や汗が浮かんでいた。
一方その頃――
悲鳴の発生源たるトニーは、地面にうつ伏せのまま完全に沈黙していた。
叫ぶ力すら残っていない。
ただ荒い呼吸を繰り返しながら、ぼろぼろと涙を流している。
頭頂には、異様なほど膨れ上がった巨大なたんこぶ。
もはや「こぶ」というより、もう一つの頭が生えているような有様だった。
そこから脈打つような痛みが発せられ、全身へじわじわと広がっていく。
ズキ。
ズキ。
ズキ。
心臓の鼓動と同調するように痛みが身体を巡る。
まるで神経そのものが打ち鳴らされているかのようだった。
指一本動かせない。
立ち上がる気力もない。
ただ土の上に転がったまま、虚ろな意識を漂わせる。
トニー(……俺って……結構強かったよな……さっき特A級って言われてたぞ?)
そんなことを考えた。
30年間鍛えてきた。
修羅場も潜ってきた。
並の相手になら負ける気はしなかった。
少なくとも、自分ではそれなりに強くなったつもりだった。
世界共通の強さの指標とも言うべきランクは気付けば特A級とされていた
だが今の姿はどうだ。
地面に這いつくばり、
涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、
巨大なたんこぶを抱えて沈黙している。
その現実があまりにも情けなくて、逆に笑えてきそうだった。
そんな時だった。
モヴ「トニー、お前さぁ」
聞き慣れた声が、柔らかな口調で降ってくる。
モヴ「三十年経っても泣き虫のままだなー」
少し間を置いて。
モヴ「まじウケる」
次の瞬間。
モヴ「わははははは!」
モヴちゃんが腹を抱えて笑い始めた。
心の底から可笑しいとでも言うように。
屈託なく。
遠慮なく。
子供そのままの笑い声で。
そこにいたのは、
30年前のまま。
かくれんぼをして。
喧嘩をして。
笑い合っていた頃と変わらない。
無邪気で、生意気で、底抜けに明るいモヴちゃんだった。
その笑い声を聞いた瞬間。
トニーの胸の奥に張り付いていた重石が、少しだけ軽くなった気がした。
赦された。
そんな言葉を口にされたわけではない。
約束されたわけでもない。
だが、モヴちゃんが笑ってくれた。
それだけで十分だった。
ただそれだけの事実が、トニーの心を、
現世の地獄とも言える凄絶な苦しみから救い出していく。
まるで、己の過去のすべてが洗い流されるような、静かな禊の感覚が彼の胸を満たしていった。
30年間抱え続けていた罪悪感。
ずっと胸に刺さっていた棘。
それらが少しずつ溶けていくような感覚があった。
頭は相変わらず痛い。
身体もまともに動かない。
今なお地獄のような苦痛は続いている。
それでも――。
不思議と心だけは軽かった。
まるで長い禊ぎを終えた後のように。
トニーは涙で滲む視界の向こうで笑うモヴを見つめながら、静かに思った。
ああ。
ようやく終わったんだ。
30年間終わらなかった――
長い、長い、モヴちゃんのかくれんぼが。
モヴは腕を組みながら、小さく唸った。
モヴ「トニーはいいとして……他の奴ら、どうしてやろうか……」
視線が宙をさまよう。
怒っているような、考え込んでいるような、なんとも言えない表情だった。
わずか四秒ほど考えた後だった。
モヴ「あっ」
モヴの顔がぱっと明るくなる。
まるで子供が面白い遊びを思いついた時のような表情だった。
モヴ「いいこと思いついた」
どやさと自慢気に閃いた。
実に誇らしげだった。
そして、その直後に告げられた内容は恐怖そのものだった。
モヴ「今から俺がオニだ」
トニー「え?」
にやり、と口元が吊り上がる。
モヴ「残り全員見つけて泣かす」
その宣言と共に――
世にも恐ろしい鬼ごっこが開幕した。
鬼はモヴ。
逃げる側はモヴの子分達
トニーは地面に転がったまま乾いた笑いを漏らす。
トニー「はは……チンさん、終わったな……」
既に泣かされたトニーはその安堵と戦慄で乾いた笑いが込み上げてきた
トニー「死ぬより痛ぇーぞ……」
あれは単なるげんこつではない。
人生観を揺るがす何かだった。
トニー「でも……!」
トニーは顔を上げた。
トニー「そんな事で許してもらえるのか…俺達はモヴちゃんにとても酷い事をしちまったのに…」
置き去りにしたわけではない。
見捨てたわけでもない。
それでも結果として、モヴは30年間もの間、一人で待ち続けていた。
その事実だけは変わらない。
だからこそ、トニーの罪悪感は消えなかった。
モヴ「そんな事気にしてんのか」
あまりにもあっさりした反応だった。
まるで今さら何を言っているんだと言わんばかりに。
トニーは言葉を失う。
モヴは続けた。
モヴ「お前らがきんちょが間違えるのは当たり前だろ」
責める気配はどこにもなかった。
怒りも恨みもない。
ただ事実を述べるように。
自然体のまま。
モヴ「迷える子羊のようなお前らの為に俺は――」
その言葉を聞いた瞬間だった。
トニーの脳裏で何かが繋がった。
トニーは思わず笑った。
涙混じりの、懐かしい笑みだった。
胸の奥が温かくなる。
トニー「あぁ……同じだ……」
30年経っても。
何一つ変わっていない。
トニー「初めて会った頃から変わらねぇな……」
そして、当然のことを名乗るように言った。
モヴ「お前らの善き隣人たれ――俺はモヴだ」
長い年月を越えて。
変わらぬ声が響く。
トニーが見上げたその顔には一点の曇りもない空のような表情で。
怒りも。
憎しみも。
後悔さえも超えた場所に立つような穏やかな表情で綴られた言葉。
トニーは30年前の光景を見つめていた。
初めてモヴと出会ったあの日。
行く当てもなく彷徨っていた頃。
そして、ずっと思い出せなかった言葉。
それらがようやく一つに繋がる。
胸の中に空いていた空白は、静かに埋まっていった。
まるで30年越しに、ようやく物語の最初の一ページへ帰ってきたかのように。
■
遠くから、大勢の人間が駆けてくる足音が響いてきた。
ひとつ、またひとつ。
やがてそれは無数の足音となり、廃墟となった工場の床を不気味に震わせ始める。
トニーはその音に耳を澄ませ、ふと我に返った。
トニー「やべ……!帝国軍に追われてるんだった」
30年ぶりの再会にすっかり気を取られ、肝心な現状を忘れていた。
モヴはきょとんとした顔で、何かを理解したように頷く。
モヴ「なんだよ、鬼ごっこしてたのか」
俺も混ぜろといわんばかりに、にっと笑った。
モヴ「困ってるなら、俺がなんとかしてやるぞ」
モヴは両腕を胸の前で十字に組み、気合を入れる。
その姿には、今にも帝国軍をまとめて吹き飛ばしてしまいそうな頼もしさがあった。
だが――。
トニーは首を横に振った。
このまま帝国軍とモヴちゃんを揉め事に巻き込むことなど、どうしてもできなかった。
それにどうしても譲れない事がある。
トニー「ありがとう……でもここは俺に任せてくれないか
俺が泣き虫のまま三十年過ごしてたんじゃねぇってことを、モヴちゃんに知ってもらいてぇんだよ」
モヴは目を丸くした。
それから、口元を緩める。
モヴ「へぇーそこまで言うなら、見せてもらおうか」
どこか楽しげに、試すような笑みを浮かべるモヴ。
トニー「……ああ」
モヴ「また座って待つか~」
モヴはそう言うと、元いた場所へ戻っていく。
モヴ「また座って待つか〜。おい、少しだけだぞ」
ビシッと指を突きつけ、念を押すように言うと、モヴは元いた場所へと腰を下ろした。
その瞬間、あれほど濃密だった気配が、まるで最初から存在しなかったかのように霧散する。
気配を完璧に遮断する絶技、流石というほかない。
トニー(流石だぜ…というかこれでかくれんぼされてたのかよ)と胸の内でトニーは笑った。
その直後、帝国軍の一団が同じフロアへと雪崩れ込んできた。
ブレード「散々逃げ回った挙句に行き止まりとは、どうやら焼きが回ったようだな!トニー・J・フランキー」
先頭に立つブレードの声は、勝利を確信した者特有の余裕に満ちている。
トニーは両手を軽く上げる。
トニー「おいおい〜、勘弁してくれよ〜。そんな大人数で寄ってたかってさ〜」
軽薄な口調とは裏腹に、トニーの瞳の奥には冷たい光が宿っていた。
じりじりと間合いを詰めてくるブレード率いる帝国軍。
その中の数人が、部屋の隅に座るモヴの姿をふと捉える。
帝国兵「……ん……ぇ?」「人形か?……こわ」「意外と愛嬌がある」
数人の兵士がモヴの存在に気づいた。
だが、誰一人として生きた人間だとは認識していない。
まるでそこに置かれた人形のようだった。
ブレードはそんなことなど気にも留めず、トニーへ向かって一歩踏み出す。
ブレード「みっともなく足掻いた挙句、今更降伏か?」
両腕を組んでトニーを煽るように睨みつけながら左右にふらふらと移動するブレード
ブレード「こんな屁みたいな場所で、貴様の未来への道も閉ざされたな! 終わりだな!」
トニーは両腕を上げたまま、その口元を余裕ありげに緩めた。
そして壁へ視線を向け、ゆっくりと壁へ手を添えた。
トニー「……道がない、か」
帝国軍の兵士たちが怪訝そうに見つめる。
次の瞬間。
壁に、一本の亀裂が走った。
トニー「道ってのはよ……」
ピシッ――。
それは瞬く間に広がっていく。
トニー「いつだって、自分で切り拓くもんだろ」
ピシピシピシッ――!!
巨大な壁面全体へ蜘蛛の巣状に亀裂が走り、その隙間から眩い光が漏れ始めた。
ブレードの顔から笑みが消える。
ブレード「な……!?」
トニーは拳を握り、全身に力を込めて激しく息を吸って吐き出す。息吹である。
トニー「真空π!!!」
亀裂が一斉に弾け飛んだ。
壁面が大きく崩壊し、その向こうに広がっていたのは――果てしない空だった。
巨大な穴が、外の世界へと道を開いていた。
トニーはその穴に身を乗り出し、振り返る。
そして、不敵な笑みを浮かべた。
ブレードが怒号を上げた。
ブレード「貴様ぁぁ――! そんな場所から逃げられるとでも思っているのか!」
トニーはブレードに答えなかったが、その視線の先――。
トニー「外で待ってるぜ!!」
帝国軍のさらに後方。
座ってこちらをこっそり見ているモヴへ向けて。
トニーは、指を差した。
それはどことなく、モヴの真似をするようなポーズだった。
つい先ほどまで地面に這いつくばり、泣き叫んでいたトニー。
そのトニーが今、自分の足で立ち、自分の力で道を切り拓いている。
それはもう三十年前と同じ泣き虫ではなくなった成長した漢の姿であった。
モヴはその姿を夢中で見つめていた。
まるでヒーローに向けるような羨望の眼差し
声こそ出すのを我慢していたがモヴの表情は高揚して、目がキラキラと輝いていた。
モヴのどこか誇らしげな、嬉しそうな表情。
トニーはそれを確認すると――。
まるでダンスのステップでも踏むように、軽やかに一歩を踏み出した。
トニー「POW!!」
崖下へと身を躍らせた。
帝国軍「――なっ!?」
帝国軍からどよめきが上がる。
そこは、常人ならばまず生還できないほどの高さだった。
トニーの身体が、遥か下方へと小さくなっていく。
ブレード達は絶句した。
帝国軍「この高さを……!」
帝国軍「嘘だろ……!」
ブレード「……くそ! トム・クルーズかよ!」
崖下からオルドレア帝国へと繋がる雄大な景色を目で追うと
ブレードは即座に叫んだ。
ブレード「急げ!すぐにここを撤収するぞ!」
帝国軍は慌ただしく踵を返し、次々とフロアを後にしていく。
その喧騒が遠ざかっていく中――。
ただ一人。
モヴだけが、その場に座ったまま静かに笑っていた。
周囲から、人の気配が完全に消えた。
遠くで響いていた足音も、兵士たちの怒号も、やがてすべてが遠い世界の出来事のように消え失せていく。
モヴはしばらくその場に座ったまま、静かに耳を澄ませていた。
モヴ「もういいか」
誰もいない事を確かめると、モヴはゆっくりと立ち上がった。
つい先ほどまでの騒々しさが嘘のようだった。
再び、見慣れた静寂が視界いっぱいに広がっている。
朽ち果てた工場。
草木で生い茂る天井と壁。
薄暗い床。
長い年月の間、何ひとつ変わらなかったはずの光景。
景色は完全にアップデートされていた。
トニーがぶち抜いた大穴。
そこから差し込む強烈な日光が部屋の中に流れ込んで、閉ざされていた空間そのものを変えていた。
モヴは、ふっと口元を緩める。
モヴ「あーあ、トニーの奴、一人で楽しそうにしやがって~」
悔しそうな口調だった。
けれど、その声音にはどこか嬉しさが混じっている。
まるで、30年前には見られなかった友の成長を、誇らしく思っているようだった。
やがてモヴの視線は、壁に穿たれた巨大な穴へと向かう。
外から差し込む光が、薄暗い室内を白く染めていた。
モヴ「……外か」
一歩。
モヴ「出ても……いいんだよな……?」
その問いに答える者はいない。
ただ、眩しいほどの陽光だけが、モヴの足元へ静かに伸びていた。
モヴはその光をじっと見つめる。
モヴ「……?」
胸の奥に、小さな引っ掛かりが生まれる。
モヴ「なんで外に出るのを躊躇ってるんだ、俺……?」
自分でも分からなかった。
本来なら、今すぐ飛び出したい。
外へ駆け出して、トニーを追いかけて、鬼ごっこを始めたい。
またあの賑やか奴らに会いにいける。
そうしたいはずなのに。
モヴの足は、目に見えない鎖に繋がれたように動かなかった。
長い間、かくれんぼを続けてきた。
30年間という途方もない時間を、同じ場所で過ごしてきた。
その長過ぎる「待つ」という行為が、いつの間にか身体の奥深くへ染みついてしまったのだろうか。
トニーとの再会を経て、かくれんぼは終わった。
今度は鬼ごっこだ。
そう決めたはずなのに――。
外へ出ようとするだけで、言葉にできない違和感が足を止める。
モヴは眩い光の向こうを見つめたまま、しばらく立ち尽くしていた。
その時だった。
――ガシャン。
大穴の横、フロアの片隅から、何かが落ちる音がした。
モヴが振り返る。
トニーが開けた大穴のすぐ脇。
そこには、巨大な機械の残骸が転がっていた。
これまで薄暗闇に沈んでいたため、そこにそんな巨大な物体が存在していたことすらモヴも気づかなかった。
だが、今は違う。
差し込む光が、その全貌を容赦なく照らし出していた。
何のために造られたものなのかすら分からない。
その一部――機械の腕と思しきパーツが、先ほどの衝撃でわずかに傾いていた。
すると。その腕に握られていた何かが、するりと地面へ落ちる。
コロコロ……。
転がったそれは、まるで意思でも持っているかのように、モヴの足元へゆっくりと近づいてきた。
モヴ「……なんだ、これ?」
モヴは屈み込み、それを拾い上げる。
紐のようなものが取り付けられた、小さな球体だった。
手のひらに収まるほどの大きさ。
しかし、その内部を覗き込んだ瞬間――モヴの瞳がわずかに見開かれた。
その球中には無数の輝きが蠢いていた。小さな球体の中で瞬く、無数の光。
まるで宇宙と無数の星々を、ガラスの殻の中にそのまま閉じ込めたかのように。
モヴは言葉もなく、それを見つめる。
謎めいた球体、静眠する巨躯の機械、それに寄り添うように小型の機械が寄りかかってる
そしてその足元を埋め尽くすように咲き誇る、一面の白い花々。
何一つ意味は分からない。
それでもモヴは、その球体を強く大事に握りしめた。
そして――。
大穴の向こうへ、一歩踏み出した。
今度は迷わなかった。
先ほどまでの二の足を踏むような躊躇いは、すでに綺麗さっぱり消え去っていた。
眩い光の中へ、ゆっくりと身体を滑り込ませる。
外へ。
その瞬間――。
世界が開けた。
モヴの視界いっぱいに、果てしない蒼穹が広がる。
どこまでも続く青。
空の彼方へ巨大な入道雲がそびえ立ち、その白い輪郭が太陽の光を受けて眩しく輝いている。
そして眼下にはオルドレア帝国。
その全貌が、遥か下に広がっていた。
モヴはただ、空を見上げた。
どこまでも広く、途方もなく自由な世界。
けれど、同時に言いようのない寂しさが胸をかすめた。
どこか郷愁を誘うような青空を見上げていたその時、
ゾワッと背筋を這い上がる不気味な圧迫感がモヴを襲った。
世界そのものに押し潰されるかのような、覆い被されるような強烈な圧迫感に。
モヴは眉をひそめる。
胸の奥に、奇妙な違和感が芽生えていた。
それが何なのかは分からない。
恐怖なのか。
寂しさなのか。
焦燥なのか。
それとも、もっと別の何かなのか。
名前すら持たない感情が、胸の中で膨れ上がっていく。
やがてそれは、苛立ちへと姿を変えた。
自身を完璧だと思っているモヴにとって
原因のわからない、ましてや解決策もその因果すら掴みきれない状況に
追い詰められいる自分を許せなかった。
モヴ「……なんなんだよ……!」
答えはない。
モヴ「わああああああああーーーッ!!!!!!」
堪えきれなかった。
モヴ「ふざけやがってーーーーッ!!!!!!」
その咆哮が、空へ放たれた。
ただの叫びではなかった。
凄まじい衝撃波となった声が、山々を震わせ、大地を駆け抜け、
眼下に広がるオルドレア帝国へと轟いていく。
草木が一斉に揺れた。
空を飛んでいた鳥たちは、何か巨大な捕食者を感じ取ったかのように一斉に羽ばたき、空へ逃げていく。
雲は歪にも綺麗に裂けていた。蒼穹のケーキを切り分けたようだった
森の奥では動物たちが異変を察知し、我先にと駆け出した。
遥か彼方。
オルドレア帝国にも、その衝撃は届いた。
突然、大地を撫でるような猛烈な突風が街を襲う。
人々は何事かと空を見上げ、慌てて身を屈める。
飛ばされそうになった者は、必死に建物や柵へしがみついた。
何が起きたのか。
誰にも分からない。
ただ、その風の奥に――。
まるで泣き声のような、奇妙な気配を感じ取った者たちがいた。
並の人間には到底届かない異変。
それを感じ取ったのは、世界でも限られた強者たちだった。
混乱する帝国中に出払っている龍姫たちは一斉に顔を上げる。
その声にならぬ声の気配を微かに感じ取った。
四魔貴族は、迷うことなくモヴのいる方角を正確に感知していた。
同じ頃。
学校では、ハルとマユが授業を受けていた。
その風が届く寸前に声を感じるハルとマユ。
教室の窓ガラスが、一斉に震え始める。
ガタガタガタガタ!
今にも窓ガラスが割れるのではないかと思うほどに、あらゆる窓が軋み音を立てて震えた。
校舎全体に、その異様な音が響き渡った。
パニックになる生徒。
一方、その頃。
トニー「やべぇ、やべぇ、こいつはやべぇ!!やっぱモヴちゃんは半端ねぇ!!!!」
トニー・J・フランキーは、ただがむしゃらに走り続けていた。
自分がまた怒られんじゃないかと冷や汗が吹き出る。
そして、モヴはまだ空を見上げていた。
珍しく息を切らして呼吸が荒くなっている。
モヴ「なんでこんな、イライラすんだ……?」
答えは見つからない。
モヴ「かくれんぼのせいか……?」
息を切らしながらもしばらく考える。
モヴ「……わかんねぇ……」
何も解決出来そうになかった。
モヴは顔を上げたまま、疲れたように息を吐く。
まるで自分自身の感情に振り回され、疲れ果てたような表情だった。
決して疲れるはずもないのに
途方に暮れているその時――。
「うるさいなー」
背後から、不意に声がした。
モヴ「……!」
咄嗟に振り返る。
そこにいたのは自分と同じくらいの、小ぶりな機械だった。
ころころとローラーのような脚を動かしながら、こちらへ近づいてくる。
「まるで怪獣だな」
モヴは目の前までやってきた奇妙な機械を、じっと見つめた。
恐怖はなかった。
先ほどまで胸の中を満たしていた、正体の分からない不安も――いつの間にか薄れていた。
妙に落ち着く。
不思議なほど、肩の力が抜けていた。
だがモヴ自身は、その変化に気づいていなかった。
モヴ「なんだ、お前」
「なんだお前って……」
機械は少し考えるように沈黙した。
「うーん。不良セクタが多すぎて、名前わかんないや」
その姿は、奇妙だった。
コンパクトな四角い本体。
中央にはひとつのカメラレンズが埋め込まれ、その周囲では小さなドット状のランプがチカチカと瞬いている。
脚部はローラー。
そして腕のようなパーツは片側が欠損しており、千切れた導線がむき出しになっていた。
それでも、その声には妙な人間味があった。
流暢で、聞き取りやすく、まるで機械とは思えない。
モヴ「自分の名前もわかんねーのか」
モヴはしばらくその機械を眺め――。
モヴ「お前、ポンコツだな……あはははは!」
思わず吹き出した。
名前すら思い出せない。
そんな珍妙な機械の存在が、なんだか妙に面白かった。
モヴは笑った。
そして、いつものように胸を張る。
モヴ「俺の名前はモヴ」
腕を組み、決めポーズを取る。
モヴ「『良き隣人たれ』だ」
「知ってるよ」
モヴ「……は?なんで知ってんだよ!」
「でも、そのポーズは違う気がする、台詞も少し抜けてそう」
モヴ「ポーズも間違ってねーよ!」
「うーん……」
機械は首を傾げるように本体を揺らす。
「名前も、少し違うような……」
「昔、有名だったような気がする」
どこか曖昧な返答だった。
モヴ「まあ、俺くらいにもなると有名だけどよー…いやそうじゃなくて」
モヴ「ったく、何なんだよお前は~!俺を知ってるように好き勝手言いやがって」
そして、ふと。
モヴ「俺はお前なんか知らねえって……!」
そこで言葉が止まった。
「あ?」
モヴ「……あ、何だ……?」
頬を伝うものに気づく。
モヴ「……なんで俺、泣いてんだ……?」
自分でも理解できなかった。
モヴ「どうして涙、止まらねぇんだよ……」
大きな瞳から、次々と涙が零れ落ちていく。
拭っても。
拭っても。
止まらない。
その理由を、モヴ自身は知らない。
ただ、涙だけが答えを知っているかのように流れ続けていた。
機械は何も言わず、その姿を見つめていた。
そのひとつのカメラレンズに、モヴの姿を焼き付けるように。
楽しそうに笑うモヴ。
自信満々に語るモヴ。
不機嫌にツッコミを入れるモヴ。
そして弱々しく咽び泣くモヴ。
涙を見せまいと顔を伏せて一生懸命に涙を拭うその姿は
まるで子供そのものであった。
そのすべてを、黙って見つめている。
やがて機械が、ぽつりと尋ねた。
「泣いているのー?」
モヴの涙は止まらず、喉に涙がつっかえた様な声で応える。
モヴ「泣くもんかよ」
強がるように顔を上げる。
モヴ「俺は誰にも負けちゃいけねーんだ、俺が一番強くないと、迷えるあいつらを導けねえ!」
まだ涙が残るその瞳に秘めたる信念が映るようだった。
機械は何も言わなかった。
ただ、残された右腕をゆっくり伸ばす。
モヴの頬を伝う涙を、一雫だけそっと拭った。
「君は涙を出せるんだ、すごいねー」
モヴ「……」
「僕は火しか出せないよ」
そう言うと。
機械の頭部、その右端から――。
ぽっ。
小さな火が出た。
モヴ「お前、なんでそこから火出るんだよ」
モヴ「わはははは!」
あまりにも意味不明な機能。
あまりにもシュールな光景。
モヴは腹を抱えて笑った。
笑って。
怒って。
泣いて。
また笑う。
喜怒哀楽。
ひとりの人間が持つ感情を、モヴはほんの短い時間の中で見事なまでに巡らせていた。
機械はそんなモヴを見つめていた。
泣いているのだろうか。
今は笑っているだろうか。
慰めたつもりなのかもしれない。
けれど、そんなことを気にする者は誰もいなかった。
ただ二人は、そこにいた。
しばらくして、機械が突然問いかける。
「君は、この世界のことをどのくらい知ってる?」
モヴ「そんなの、大体わかるぞ!」
胸を張って言い切った。
だが――。
モヴ「……あ?」
表情が止まる。
モヴ「……あれ……?」
モヴ「わかんねー……」
モヴ「何でだ……?」
モヴは愕然としたように地面へ両手をついた。
知っているはずだった。
世界のことなど、当然のように知っていなきゃいけない。
なのに、何も出てこない。
「忘れたことは、思い出せる」
機械は淡々と告げた。
「きっといつか、完璧な涙を流せるだろう」
モヴ「どういう意味なんだよ?」
モヴ「俺はもう二度と泣かねー!」
そして、すぐさま強がる。
モヴ「ってか、泣いてねーから!」
「うーん……」
機械は少し考える。
「もっと君に伝えたい事たくさんあるはずのに、何でだろう、情報が欠けてしまっているね」
そして――。
「お願いしたいことがある」
モヴ「何だよ、いきなり」
モヴ「頼み事なら聞いてやるけど」
誰かに助けを求められれば、理由など考えるより先に手を差し伸べる。
それがモヴだった。
「この世界のことを、君に知ってほしいんだ」
モヴ「世界中を冒険しろってことか?」
「そうそう、ちゃんと世界を見て回ってきてね」
モヴ「何で俺にそんなお願いするんだ?」
「どうしてか……」
機械は言葉を探すように沈黙する。
「君には知ってもらいたくて」
「うーん……わからないけど」
「本当は君に、話して伝えたかったんだけど…」
モヴ「ハハハ!」
モヴ「自分の名前も思い出せねーのにな!」
「君の持ってるそれー」
モヴ「あの中で拾ったんだよ綺麗だろ」
自慢するように見事に輝く球体を見せる
「凄く綺麗だ、本当に…せっかくだから付けてあげよう」
モヴ「身に付けるものなのか」
「片腕しかないから紐の端っこ持ってて」
モヴ「ったく不便だなお前〜」
謎の機械とモヴが初めて共同作業をする。
モヴの首飾りをつけると機械は満足そうに語る
「この無数の星々の輝きは君の心そのものだ」
首からさげた恐ろしく綺麗な球体
モヴは少し嬉しそうだ
モヴ「よくわかんねーけど、俺も気に入った」
モヴの心にのしかかっていた不快感はいつの間にか消えていた。
機械は少しだけ黙った。
そして――。
「モヴ」
「あなたに託す」
モヴ「はい!」
勢いよく返事をしてから、モヴは自分でも首を傾げる。
モヴ「……はあ?」
モヴ「なんか変な喋り方になった」
モヴ「お前と話してると調子狂うなー……」
「君はいつだって絶好調だよ」
その言葉に、モヴは当然だろと微笑んだ。
モヴ「俺はこの世界のこと全部知って――」
モヴ「お前に全部教えてやるよ」
「ここで待ってる」
モヴ「すぐに世界一周して、ここに帰ってきてやるよ!」
モヴ「1年もかかるもんか!」
モヴは振り返る。
崖の縁へ向かって走り出した。
その姿は、30年前のあの日と重なった。
トニーたちと初めて出会った日。
自らの名を名乗った日。
何も知らないくせに、自信と希望だけは誰よりも溢れさせていた。
廃工場の土管の上から、何の躊躇いもなく飛び降りた、あの日のモヴ。
今、その面影が再びそこにあった。
モヴの顔は希望と期待に満ち溢れていた。
そして――。
崖から飛び立った。
それは別れなのか。
旅立ちなのか。
まだ、誰にも分からない。
ただひとつ確かなことがある。
自分の記憶を取り戻すこと。
この世界のことを知ること。
それはきっと、失われた過去に開いた巨大な空白を、一つずつ埋めていく旅になる。
30年という歳月の果てに、ようやく動き始めた時間。
失われた記憶を追い。
知らない世界を巡り。
まだ見ぬ誰かと出会い。
その先で、自分が何者なのかを知る。
これは――。
空白の過去を取り戻すための、壮大な追憶の旅。
モヴの新たな物語の始まりだった。
崖の上に残された謎の機械は、遠ざかっていくモヴの背中をじっと見送っていると…
「世界一、可愛かったぁ~」
あまりにも人間臭い独り言が、静寂の中へ落ちる。
まるで我が子の成長を噛み締めるような。
それでいて、どこか気の抜けた声音。
機械はしばらくモヴが消えていった空を眺めていた。
やがて、その小さな本体から――。
再び、ぽっ、と小さな火が灯った




