第1話 泡になって弾けた夢
遮るもの一切のない、パノラマのような草原。地平線まで続く緑の丘に、ただ一本の巨木が立っている。
画面を焼き切るような強烈な日差し。けれど、その木陰に身を寄せた少女の周囲だけは、深い緑のフィルターを通した静謐な空間に包まれていた。地面に落ちる木漏れ日の輪郭は鋭く、光と影が鮮やかなコントラストを成している。
そこへ、静寂を切り裂くように声が飛び込んできた。
「ハル〜!」
視線を上げると、フレームの中へ一人の男性が入り込んでくる。
両手でカメラを保持し、整った髪型に眼鏡。機能的な清潔感を纏った彼が、こちらに向けて屈託のない笑顔を向けた。その瞬間、静止画のようだった風景に、鮮やかな色彩と温度が宿った。
「ハルの写真も撮らせてくれ。愛する娘の成長記録として、ね」
向けられたのは、屈託のない、親愛に満ちた笑顔だった。
その言葉に、私の胸の奥で小さな灯がともる。本当は少し嬉しかった。いつからだろうか、この眩しい光の中で、子供のように無邪気に遊びたいと願っていた。
けれど、素直に出来なくなっている。私はもう、少しだけ大人になりすぎていたのかもしれない。胸いっぱいに広がった名前の無い気持ちが、同時に耐えがたい気恥ずかしさとなって、私を突き動かした。
「やだ!そういうの、興味ないし!」
心と裏腹に漏れてしまう言葉が、反射的に口をついて出た。
予想だにしない拒絶に、父親は文字通り、絶望に打ちひしがれた。
「そんな! ハルの写真が撮れないなんて! これじゃあ母さんと一緒に、ニヤニヤしながら成長記録を見返す楽しみが奪われてしまうじゃないか!」
なりふり構わず懇願するその姿は、情けないという言葉を通り越し、どこか滑稽ですらあった。だが、そんな一方的な情熱をぶつけられれば、ますます素直な返事はできなくなる。私の心の中で、気恥ずかしさは次第に「面倒くささ」という名の苛立ちへと形を変えていった。
「そういうの、勝手にやるのは変態だから! 変態! 変態! 変態! 変態!」
たたみかけるように放たれた、容赦のない言葉の礫
一拍ずつ、正確なリズムで刻まれる「変態」の連呼。
父親は、まるで物理的な衝撃を受けたかのように、大きくのけぞった。その顔には、人生で最大の衝撃を受けたかのような、深い絶望の色が浮かんでいる。
「んなぁ〜! あぁ…なんてリズム感の良い… 娘に五回も連続で変態呼ばわりされるのは、さすがに父親としてもしんどいな…」
言葉は鋭く、不器用な二人が繰り広げる、この刺激的な対話、けれどそこには奇妙な調和があった。
ふわりと、遠くからお母さんの呼ぶ声が聞こえたような気がした。
男性が弾かれたように振り返り、少女に笑いかける。
「あ!母さんが美味しいサンドイッチ作ってくれたんだ ハルも一緒に食べよう!」
彼が歩き出した瞬間、カメラが引くように、二人の距離が急速に離れていく。
少女の視界の中で、父親の背中がみるみる小さくなっていく。焦燥に駆られた彼女は、地面を蹴って走り出した。
「ちょっと待ってよ! 私も一緒に行く!」
叫んでも、叫んでも、声は空に吸い込まれていく。
目の前には、確かに二人の姿があった。二人は足を止め、こちらを振り返り、優しく待っていてくれている。ボクを呼んでいる。
なのに、どれだけ足を動かしても、地面が伸び切ったゴムのように、二人との距離を絶望的に遠ざけていく。
届かない。お父さんとお母さんはそこにいるのに、どうしても、届かない。
ボクとお母さんの間に大きな影が広がっていた。限界まで引き伸ばされた絶望が、弾けるように
そして、ぷつりと。
世界が暗転し、意識が強制的に引き戻される。
ゆっくりとまぶたを開けると、そこにはいつもの、色褪せた天井が広がっていた。
――また、あの夢だ。
コーン、コーン。
遠くで規則的に響く工事の打撃音が、心地いいとは言い難いリズムで鳴り響いている。
それに負けじと、蝉たちが全力で声を張り上げていた。いかにも「夏」という感じの、騒がしい朝が窓の向こうにある。
視界に飛び込んでくるのは、薄暗い部屋の風景。
厚いカーテンの隙間から、ナイフのように鋭い光の一条が差し込み、埃の舞う空気を切り裂いている。
カメラが引くと、薄暗い部屋の底に、細い光の道が伸びている。そこには乱雑に散らばった私物と、無造作に吊るされた洗濯物のシルエットが浮かび上がる。
そこには、行き場を失った埃が舞い、生活の停滞を物語っていた。
ハルは、重い身体をゆっくりと起こす。
ちょうどその時、カーテンの隙間から漏れた日差しが、彼女の顔をぴたりと射抜いた。
不意に訪れた眩しさに、彼女は眉をひそめ、ぼんやりと窓の方へ視線を向ける。
(サウンド:外の喧騒が急に遠のき、室内の静寂が強調される)
誰の声もしない。
挨拶も、気配もない。
ただ、冷徹なまでに静かな、無機質な朝の風景がそこにあった。
(サウンド:テレビから流れる『酢ッキリ』のニュース番組。しかし、室内の静寂に飲み込まれて小さく聞こえる)
冷蔵庫の扉が開く。そこにあるのは、同じ色、同じ形のゼリー飲料が隙間なく詰め込まれた、機能的で冷徹な光景。
毎日同じ味、同じ食感。これがハルの「朝食」であり、飽き飽きするほど繰り返されるルーティン。
ハルはその一本を手に取り、ハルはぼーっとした様子で冷蔵庫にもたれかかり、ゼリーを啜った。
冷たいゼリーの感触と、先ほどの夢の残滓に囚われていた。
(また、あの夢…なんで見るんだろう)
キッチンの小窓から差し込む陽光が、揺らめいたカーテンのように、薄暗い室内に淡い光の斑紋を投げかけている。
ハルは、繰り返し訪れるあの眩しい記憶の断片に、静かに思考を沈めていた。
そのとき、静寂を暴力的に切り裂く音が響いた。
ドンドンドンドンドン!!!!!
猛烈な勢いでドアを叩く音が響き渡り、ハルは飛び上がるほど驚く。
が、驚きに目を見開いた後、彼女の表情は「いつものことだ」という呆れへと変わる。
(も~またこれか…) ハルは何が起こっているのか何となく察しがついているようだ
「番号202! いるかー!!」
鼓膜を突き抜けるような力強い少女の声。それが、止まっていた部屋の空気を一気に活性化させる。
(これ凄くムカつくな~…)
彼女の一方的なマイブーム看守ごっこ
土足で踏み荒らすような無粋の極み、底の浅い失礼さに呆れるハル
心の中で毒づきながらも、ハルは促されるように玄関のドアノブに手をかけた。
「マユ〜、叩きすぎだってば」
「おったー!」
「いるよ! ボクの家だ!」
クローズアップされるハルの瞳。
ついさっきまでの無気力な瞳に、自然と生気が戻る。
暗い思考をかき消すように、二人の賑やかな朝が幕を開けた。
礼儀作法なんてどこかに捨ててきたらしい屈託のない笑顔。それがマユのデフォルトだ。
同年代の女子とは思えない高身長と抜群のスタイルを持っていて、見た目は完璧な美少女。なのに中身は、思いつきを即実行するタイプのアホ……もとい、天然美少女である。
「おいすー。お母さんだぞ」
「誰のだよ~…」
強い日差しに晒された玄関先で、マユの長身が作る影に、私の足元をすっぽりと覆い隠す。
マユの体にくっきりと浮かぶ光と影のコントラストから暑さが伝わってくる
マユ「ハルの寝癖がね~むふ、かわえぇ」
ハル「まだ起きたばっかりなんだからさ~」
マユ「え~、ハルはいつも寝起きだよ」
ハル「それはマユがいつも来るのが早すぎるの!」
マユ「やた!」
ハル「褒めてない!」
降り注ぐ蝉の鳴き声さえもかき消すほどの、騒々しいやりとり。
私は呆れながらも、彼女を家の中へと促した。
「準備するから、中入って待ってて」
「あい、お構いなく!」
家に入ったマユの視線は、自然とテレビへと吸い寄せられた。彼女の大好きな『スッキリ』が放送されていたからだ。
けれど、画面から流れてくるニュースは、およそ爽やかさとは程遠いものだった。
ギラン地区への爆破テロ予告。それに呼応するように激化する民衆のデモ活動。
しかし、番組のMCたちは、その悲劇を奇妙な娯楽のように語っていた。
「いやー大変な事になってますけどテリーさんいかがですか」
テリー「ホント大変ですよね、僕が心配なのは多くの人が別の目的で現場に集まっている事なんですよ」
「もしかしてそれはギラン地区オリンピア英雄の」
テリー「そうです!ドドン!カトーさん見てくださいこの勇ましくも可憐なアイドルのような顔立ち
そんなセリスさんを見ようと遊び半分でデモに参加してる人が多いんですよ!」
カトー「いやー本当に美人ですよね、本当僕もセリスさんの試合観てたんですけどもう本当にバチコン強くて感動して泣きましたファンです」
テリー「そうなんですー!素敵でしたよね!僕も彼女のファンになってしまいました!
それでね…僕もね今からデモに行っちゃおうと思います!」
カトー「待ってくださいテリーさん今生放送で仕事中ですので困ります」
テリー「でもねカトーさん、僕は思うんですよ」
二人の男が、テロの混乱の中で一人の女性の美貌を称え合う。いつの間にか「セリスさん推し」の同好会が始まっている。
テロや過激なデモのシリアスな話題だったのに、その狂気的なまでの温度差に
マユが「ぷ……」と笑いを堪え始めた。だが、ここからが本番だった。
テリー「とんでもない、とんでもない事なんだけどそれでもね、なんでかなー
国民がね国に意思を示すという事は大事な事なんだと思う…
やっちゃえば良いんだよ!!やっちゃえば!!
団体デモだって!自爆テロだって!やっちゃえよー!!もっとやれよー!!どん!!」
カトー「テリーさん…ちょっ生放送だからもう…黙れハゲ!はい、カメラ止めてー!」
速攻で船の映像に切り替わる放送事故。
「ギャハハハハハハ!」
マユが全力で爆笑し始めた。
ハル「朝のニュースでどんだけ笑ってんの……」
マユ「テリーさんが首絞められてた……アハハハ!」
洗面台で寝癖を直しつつ、蛇口から流れる水の音をかき消すように、マユの奔放な笑い声が洗面所に響き渡る。
指先に伝わる水の冷たさを感じながら、ボクは鏡越しに、光を振りまくような彼女の横顔を眺めていた。弾けるようなその笑い声は、生命の謳歌そのものだ。
対照的に、鏡の中の自分はどこか色が欠けているように見える。
もしボクも、彼女のように心根から屈託なく笑うことができたなら。
眩しいほどの生命力を放つ友人の笑い声が、今のボクには、少しだけ羨ましく思う
いや、でもマユは笑い過ぎ
今日は朝から帝都全体が騒乱としているみたいだ
爆破テロだの、デモ活動だの
でもそんな事は子供のボク達には知ったこっちゃない
ボク達はただ過ぎていく毎日を同じように繰り返すだけだ だって子供が何したって何も変わらないだろう
そんな子供らしくもない事を考えてしまうハルとは真逆の存在かのように、目の前のマユはこの状況にワクワクしているようだ
マユ「学校終わったら街まで行こーよー!」
ハル「危ないって今ニュースでやってたのにー」
マユ「テリーさんも観にいくから大丈夫だよ!」
全く大丈夫な要素が無いのだけど、謎の理論武装をしたマユを説得するのは苦労に見合わないので諦めた
兎にも角にも学校へ行かなきゃ
寝癖を直し、着替えを済ませて、カバンの中に何も変わらない日常を詰め込んで、いつもの外へ
見事なまでに澄んだ青空のブルーが目に入る
ジリっと肌に感じる気温の高さに自然と体を動かされる気がした
こののどかな景色の向こう、盆地の中心にちょこんと座っているのが帝都だ。私の家は盆地の端っこの端。要するに、ど田舎である。
それでも、その距離であっても、遠くに見える帝都城『モルヘト』の巨大さは異常だった。
さらにそれを囲むように、謎の機械の塔『オベリスク』が何基も聳え立つのが見える
帝都からあんな巨大な帝都城やオベリスクを見上げたらどんな光景が目に入るのか想像も出来ない
これがボクの住んでいるオルドレア帝国だ
ハル「今、あそこで大変なことになってるんだな……」
考えないようにしていたはずなのに、得体の知れない緊張感が、熱い風に乗って肌にまとわりついてきた。
世界最強の帝国でありながら、その内側では国民同士が争い、平和を食い潰している。
ハル「なんかこういうのを皮肉って言うんだっけ」
マユ「ひき肉?今夜のオカズ!」
ハル「違うわい!」
マユに皮肉の意味を教えることもまた、苦労に見合わない気がしたので諦めた。
キャッキャと笑う彼女の声と、降り注ぐ蝉の鳴き声が、私を心地よい、いつもの日常へと引き戻してくれた。
ハル「え?」
ふと誰かに呼ばれた気がした。 その刹那――
帝都の上空。そこに、周囲の空気をすべて吸い込み、ギュンと凝縮されるような、鋭く、残酷なまでの白い光の点が現れた。爆縮。一瞬の静止の後、それは猛烈な爆発となって、天を焼き尽くした。
直後、光の速さで届いた視覚情報に続き、目に見えない巨大な壁のような風圧で、身体が大きくよろめく。
帝都から郊外まで、一瞬で衝撃が突き抜けてきたのだ。
盆地の端まで届いた衝撃波に、思わずアパートの手すりに掴まり飛ばされまいとした。
そして、遅れて聞こえてくる鼓膜を突き破らんばかりの、天地を揺るがす轟音。
電信柱が悲鳴を上げて大きく揺れる、電線が生き物のように激しくたわんでいる。
自分が住むあのアパートが、このまま吹き飛んでしまうのではないか。そんな根源的な恐怖が、思考を白く染め上げた。
あまりの出来事に、私は隣にいたマユと共に、ただ絶叫した。
「えーーーーーー!!!」
その叫びは、轟音に飲み込まれて消えた。
ボクの日常が泡になって弾け飛んだ。そんな気がした。




