第108話 喧嘩は売るまいと思ったな。
一日だけ休んだ日の翌日。
俺と咲は朝食を食べたのち学校へ向かう準備を始めた。
咲は制服に着替える前に伸びてきた髪を纏めていた。
「見てみて、髪を短くしてみたよ」
「いつの間に髪を切ったんだよ?」
「切ってないよ? 纏めてみたの。ほら」
「ああ、三つ編みを団子にしたのか」
「そうそう。今の時期はまだ暑いから」
「うなじの日焼け止めは忘れるなよ」
「はーい」
俺もプリンになりかけた頭頂部を鏡で眺めながら、髭を剃った。
「そろそろ染め直しかね。帰りにでも美容室に行ってみるか」
そこは春先に咲と伺った美容室。
染色剤の担当者曰く、腕がとても良いとの事で取引を開始したのだとか。
「美容室?」
「染め直しと髪を切ろうかなと」
「私もいい? 長くなってきたから」
「なら、帰りにでも寄るか?」
「うん! 放課後デートだね」
「そうだな」
俺達は制服でのデートをあまりしていない。
何かと物騒な空気と下品な思惑のある連中に付き纏われた結果、二人きりの時は決まって家に帰る事の方が多かったから。
灯達と帰る時はファストフード店に寄ったりするが、それも回数でいえばそんなに熟していない。
部活組と時間が被らない限り立ち寄る事はないからな。
それこそ、今日を機に少しずつだが放課後デートの回数を増やしてもいいだろう。
準備を終え弁当を鞄に詰めた俺達は玄関の鍵を閉め、階下に向かう。
エレベーターに乗り込む前に碧達が慌てて駆けてきた。
「「おはようございます」」
「おはよう。碧に和」
珍しく姉妹で現れたので俺は何事と思いつつ問いかける。
「今日は二人だけか?」
「灯達は朝練ですので、先に」
朝練があるから早朝の内に通学したと。
だが、ここにも女バスのレギュラーが居るんだよな。
普通なら一緒に向かうはずだが。
「和は朝練ないのか?」
「あるにはあるのですが……寝過ごしたので」
「「遅刻と」」
苦笑気味の暴露に俺と咲は顔を見合わして納得した。
そんな妹の暴露に姉が嘲笑しつつ問いかけた。
「どうせ光君と頑張っていたのでしょ?」
「頑張っての部分は姉さんにだけは言われたくないよ」
「うっ」
なるほど、碧はようやく解禁したか。
あれから何日耐えたか知らないが、灯を労おうと思った俺だった。
一応、あとの会話は聞かなかった事にした。
下手すると咲が興味を持ってしまうから。
「バ、バルコニーで?」
「う、うん。声を殺して耐えてみたかな」
「姉さん、マニアック過ぎるよ」
流石の俺でも露出プレイは出来ないな。
家が最上階といっても近隣には大学病院もあってドクターヘリも飛んでいるから。
運が悪ければ全て丸見えになり、要らぬ噂を立てられかねない。
屋上にはヘリポートもあるから、救急で降りてきたら最悪だしな。
エレベーターを降りた直後、咲が俺の手を引いた。
「明君?」
「あれは選択しないぞ」
俺はお願いと思われて頭を横に振った。
しかし、
「私でも碧のプレイは勘弁かな。そうではなくて!」
本題が別にあるかのようにマンションのエントランスを指さした。
指の先には髪を黒く染め直した瑠璃が居た。
「え? あれは、瑠璃か?」
「やっぱり、瑠璃だったか」
「気づけなかったのか?」
「似てるとは思ったけどね。何かあったのかな?」
昨日の休み、その間に何かがあったのは確かだ。
俺達は怖ず怖ずと瑠璃に声をかける。
「「おはよう、瑠璃」」
「おはよう、二人共」
「「甲高くない!?」」
素の声に驚いたのは一緒に出てきた碧達だった。
超音波を発する気持ちすら湧いていない瑠璃。
よく見れば表情が何処となく暗かった。
「……」
「何かあったのか? 髪の毛もそうだが」
「昨日、何があったの?」
咲が心配気に問うと瑠璃は涙を流し始める。
「うぅ……」
「何があったのよ?」
小粒の涙が大粒と化し、濁流の涙を流し始めて、嗚咽する。
咲に抱きついたまま俯く瑠璃。
流石の俺も今の状況が読めなかった。
「どうかしたのかな?」
泣いている瑠璃に問うても反応は返らない。
何かを思い出して、涙の量が増えるだけだ。
(一体、何があったのやら?)
俺は状況が読めないままなのが気持ち悪いので爺さまへと連絡してみた。
「は? じゃあ、何か? いや、は? えー? それがまかり通ると?」
連絡して呆気にとられる状況だと知らされてしまった。
「はぁ〜。どの口が言う……」
電話を切った俺は噎び泣く瑠璃に同情した。
おそらく髪を染めるに至った原因もこの件が関係しているようだ。
「何か分かったの?」
「自分達から可愛い孫を奪うなら、慰謝料三億円、寄越せだと」
「「「はぁ?」」」
いや、もうな。
瑠璃の祖父母は相当なまでの猛毒だった。
「離婚するのは勝手だが、孫だけはやらんって。奪うなら慰謝料だって」
「そ、それはなんて言うか、一人一億って認識で言っているの?」
「詳しくは分からない。だが、叔母からすれば、旦那が浮気するような人間性、その下地を作った毒親が叔母に慰謝料を支払うなら理解出来る。ここで叔母が浮気していたなら話は変わるが、一人で三人娘を育てている状況で浮気も何も出来ないだろう」
すると碧が疑問気に質問してきた。
「ところで叔母って誰の叔母なんですか?」
答えたのは俺ではなく咲だったが。
「そういえば教えてなかったね。瑠璃のお母さんが明君のお父さんの妹だったんだよ。駆け落ち婚で勘当されていたけど離婚すれば許すとなって」
「「「「ふぁ?」」」」
なんか二人ほど追加の声音が聞こえたが気のせいか?
「話を戻すけど、三人娘の子育て、アパートの大家、コンビニ店長、PTAの役員などもあるだろうから翡翠さんが浮気をする暇はないでしょ。その祖父母がコンビニを手伝っているなら、その言い分も少しは分かるけど」
すると俺達の会話を聞いていた瑠璃が涙を拭って会話に割って入った。
「手伝ってないわ。コンビニの売上と家賃収入が入った時だけ顔を出して、根こそぎ奪っていくから。彼奴らの所為で私がバイトして日々の生活費を稼いでいるもの」
「「「「え?」」」」
これには流石の俺達も目が点だった。
バイト三昧の本当の理由はそこにあると。
「えっと、根こそぎって何処まで?」
「バイト代を除いた、運転資金を含む全て」
「「「ふぁ?」」」
あまりの事に碧達も愕然としている。
学校に行かねばならないがそれどころではないな。
「それは何に使っているか分かるか?」
「詳しくは分からない。ただ、玉がどうとか言っていた気がする」
「玉、か」
玉と聞いて大金を欲す。
何をしているのか、それで判明した。
「つまり、奪った資金を元手に賭け事に費やしていると」
「「「賭け事?」」」
そういえば学生には無縁の場所だもんな。
俺は大まかな場所を例に出した。
「大人しか入れない大きな店が幹線道路沿いにあるだろ? 常に自動車が大量に駐まっていて、内部は大きな音がジャラジャラと響いている」
「「「あー、あれかぁ」」」
客が一喜一憂で出入りしては騒音が外まで漏れているからな。
碧達も覚えがあるからか、微妙な表情に変わった。
瑠璃は原因が判明し、愕然としたまま問いかけてきた。
「じゃ、じゃあ、母さんが苦労して稼いだお金は全部?」
「そこに消えているな。当たれば利になるだろうが、外れる方が多いそうだから」
「なんで明君がそれを知っているの?」
「バスケの仲間が話していたな。大人も居るから」
「「「それで」」」
「注ぎ込むのは程々が良いらしい。沼にはまる事と同義だから」
まさに賭け事の沼にはまって、資金的にも泥沼なのだろう。
もしかすると、多額の借金を背負っている可能性があるな。
「だから三億と。度し難いね」
「一瞬で溶かしそうですね。そういう人達なら」
「溶かして追加を寄越せとか言いそう。湯水の如くお金が湧き出ると思い込んで」
「言うだろうな。そうなったら優木が動いてマグロ漁船に乗せそうだ」
本家の爺さまを困惑させるほどの猛毒だ。
影響を受けない遠洋に送り込む事など造作もないだろう。
なんて話をエントランスで会話していたら、
「それなら今の段階で乗せた方がいいかもね」
優木家の御令嬢とその姉が苦笑しつつ顔を出した。
「「「「会長!」」」」
いつの間に。
って通学時間になっただけか。
「途中からだけど会話を聞かせてもらったよ」
「会長?」
きょとんは瑠璃だけだな。
同じマンションに住んでいるとは思ってもいなかったようだ。
俺は訝しみながら会長に問う。
「何処から聞いていたので?」
「凪倉君が電話をしているあたり?」
「ポストの付近で聞いていました。ごめんなさい」
そうなると裏に隠れて聞き耳を立てていたと。
この人達の嗅覚だけは半端ないよな、マジで。
咲は苦笑しつつ右頬を掻いた。
「お金の話が聞こえて立ち止まるって」
引き攣り顔の碧達は姉妹で抱き合った。
「やっぱり優木家の御令嬢は恐いですね」
「うん。足を向けて寝られないね? 姉さん」
「こらこら。私は白木、優木は妹!」
「家の実権を握っているのは父と兄ですけどね」
李香は苦笑しているが一声で伯父と従兄は動くと思う。
どちらも李香には甘いから。
すると会長が李香に目配せし、
「相談役ですら手を焼く相手なら、李香」
「聞くだけ聞いてみます」
李香が電話を始めた。
一応、祖父母の情報を瑠璃に聞いたけどな。
電話を切った李香は苦笑しつつ内容を明らかにした。
「調査するまでもなく父は知っていました」
「「「「知っていた?」」」」
「本家の周囲を嗅ぎ回る輩を調査する事が父の仕事ですから」
そういえばそうだったな。
「それでどうなったの?」
「本日付で祖父母と失踪した元父を遠洋に向かう漁船に乗せたそうです。離婚届もその場で書かせたそうなので数日中には提出が可能でしょう」
乗せるべきと言った矢先に乗せていた件。
「「「「優木家、恐っ!」」」」
「私も我が父ながら恐ろしいと思ったわ」
「三億との話を聞いた段階で調査を開始して動いていますからね」
「爺さまも一枚嚙んでいそうだな、それ」
「ま、まぁ瑠璃の問題は知らぬ間に解決したと」
「そうだな。学校に遅れるし、行くか」
最後は全員が思考停止を選択したのだった。
恐っ!