第022話 ネイとの実験
すっかり夜が更けて山を登り終えると、ウッドデッキの椅子に誰かが座っていた。
「ネイ」
「遅かったね」
別にネイと約束はしていなかったが、送ってくるだけにしては時間がかかってしまったのは確かだ。
「ごめん」
「”木の声”は?」
「幾つか。かけなおしてきたよ」
”木の声”は、木にある霊体に細工をして、木自体に付呪具のような機能を持たせる魔法だ。とても難しい魔法なのだが、自分の霊体内で発現素子を作って何かをするわけではないので、分類的には魔術とは呼ばない。
樹木には目のような器官がない代わりに、周囲数メートルの魔力場を探索する能力が元々備わっている。その時のはたらきを間借りして、魔獣や魔族が持っている特殊な魔力に反応すると、魔法を使えるものだけが音として聞くことができる魔力場の波を発振するように細工する。
つまりは樹木を魔族専用の警報機にする魔法だ。
魔術とは違い、付呪具を作る要領で樹木が持っている霊体構造に傷をつけて疑似回路を作るのだが、それは入れ墨とは違うので三日も経つと消えてしまう。
手間がかかり術者も限られる割に効率が悪い魔法だ。
定住中のおれたちにとっては三日という期間は掛け直すのが面倒臭く思えるが、行軍中の軍にとっては十分な期間らしい。少し先行して施術すれば、そのあとやってくる本隊が通り過ぎるまでは十分に効き続ける。なので対魔王軍の戦争で待ち伏せを阻止するためには非常に重宝されているという話だ。
おれは”木の声”を村の中にある大樹と、山道にある何本かの木にかけている。
「そう。ならいい」
ネイは家の周りの担当で、家を囲むように数本にかけている。
”木の声”は外見からは全く判別不能で、手で木肌を触ってチェックしないと分からないので何本かけているかまでは知らない。
「それだけ?」
「ごめん、違う」
ネイは後ろめたそうに言った。
「別にいいのに」
ネイがやりたいのは他人の精神を操作する……つまりは霊侵術のテストだろう。
この手の魔術は単純に現象を起こすわけではないので、一人での訓練には限界がある。火の魔法だったら、使ってみて思ったとおりの現象が起きれば成功だけれど、他人の思考や記憶を盗んだりする魔術は一人では検証のしようがない。
進歩に何段かの階段があって、一歩上がったことを確認しないことには次に進めないという時、ネイはおれにこうして頼んでくる。ゲオルグやイーリに頼むわけにはいかないし、アリシアをだまくらかして勝手にやるのは抵抗があるらしい。
「お願い。じゃあ、座って」
「うん」
おれが椅子に座ると、ネイは椅子を隣に持ってきて横に座り、肘掛けに置いているおれの手を上から握った。
指の間にひんやりとした細い指が絡み、しっとりとした感触がした。冷たいのは外で待っていたからだろうか。
ネイは重なった二つの手首に紐を巻きつけ、軽く締め付けながらくるくると何周かさせると、片手で不器用に二重縛りにした。
「しばらくこのままでいて」
「おっけー」
座ったまま目を瞑ってしばらくすると、手からネイの意識が侵食してくるような不思議な感覚が伝わってきた。
そのままじっとしていると、
「あなたの一番嫌いな人を思い浮かべて」
と言った。
嫌いな人。おれは母親のことを真っ先に思い浮かべた。もう忘れてしまいたい記憶ではあるが、思い出せというなら思い出そう。
「その人にされた一番嫌なことを思い出してみて」
うーん……。嫌なことはたくさんあるけど、一番嫌なこと……。
……なんだろう。奨学金をせびられた時に感じた、ガソリンに火をつけたような怒りも嫌といえば嫌だったが、一番は……。
やっぱり、不倫していた父親が駆け落ちして消えたあと、お前のことなんて愛してない、クズの息子はクズ、さっさ死ねと言われて真冬にアパートから締め出された時が一番嫌……というか、悲しい出来事だった気がする。
それまでは、どんなに不安定な家庭でも親という存在はなんだかんだ自分を愛してくれているものだと思っていたが、その前提……家族や家庭といった概念が立脚する定義の部分を、ハンマーでガラスを叩き割るようにして粉々にされた気がした。
「思い出した?」
「うん」
「どんな気分になった? 凄く嫌だったり怒りを感じていたりする?」
そう言われて初めて、それほど嫌な気分ではないことに気がついた。
おかしな感じだ。時を経て記憶が風化してしまって、いまさら怒りが湧かない……という感じでもない。
なんというか……思い出の蓋を開けることで、嫌な気分や怒りといった感情が堰を切ったように流れ出し、感情という器をいっぱいにするはずなのに、その堰が一向に切られない。
出てくるはずの感情が出てこない。感情という機能が麻痺したように、せき止められたままだった。
それどころか、空っぽの器に親への愛情のような温かい感情がしたたり始めたのを感じたとき、おれは思わずネイの手を振りほどこうとした。
「いやだっ!」
たとえようのない拒否感に手を暴れさせるが、あらかじめ手首を繋いでいた紐のせいでネイの手はくっついたままだった。
「やだっ! やめてっ」
「待って! 動かないで!」
ネイは絡ませていた指を強く握ると、体ごと重なった手を押し付けるようにして抱きついてきた。
片腕を首に巻かれ、首を交差させて強く抱きしめられると、そのうちにするすると堰が開いていく感じがした。
怒りや負の感情が堰を切ったように溢れ出てくる。ものすごく不快な気分だったが、普通とは違う……同じ怒りや憎悪でも、ちょっと今更感のあるような奇妙な心持ちになった。
「ごめん。これで終わりだけどちょっと待って。完全に元通りにするから」
そのまま椅子に座っていると、しばらくしてネイの干渉がするっと抜けたのが分かった。
元通りになったのだろうか。
「終わり。おつかれさま」
ネイは体を離し、ポケットからペーパーナイフのような小さなナイフを取り出すと、手首をつなげている紐に差し入れてプツッと切った。
紐を取り外すと、ネイは手を離した。
「ごめんね……気持ち悪かったよね」
「いや……いいよ。別に」
嵐のような違和感が過ぎ去ってみれば、特にネイに負の感情は沸かなかった。
検証として必要だったのなら仕方がない、という理性的な考えが残っている。
霊侵術というのは血統が重要で、できる人とできない人がハッキリと別れている。できる人の中でも得意不得意が大きく、普通の魔法と違って得意不得意まで親子で遺伝していくという特殊なカテゴリーの魔法だ。
外の世界から来たおれには当然そんな特殊な血統は備わっていない。一切使えないから、どれほど重要だったのかの判断もできない。
「じゃあ、質問ある? 今日は……三つまで答えるよ」
霊侵術は人の心を覗き見たり、人格を操作したりできる。
ネイはその辺りのことに強い負い目のようなものを感じているようで、協力させる代償に何でも質問に答えると言い出し、今ではそれが慣習のようになってしまっていた。
どんな恥ずかしい質問でも答えるという覚悟を感じるのだが、さほど踏み込んだ質問をしたことはない。
それにしても三つというのは多い。いつもは一つや二つなのに。
「じゃあ、ネイの両親のことを教えて」
久しぶりに親のことを思い出したので、口をついて出てきた。
ネイは養子だと聞いている。
「……親ね。いいよ。私の元の名前はネイ・ミルハンっていうの。お父さんは人間族の人で、お母さんはルーミ族ね」
イーリやネイがそうなのだが、ルーミ族というのは人間とは少し違う種族で、個人差はあるが髪が緑色をしている。
イーリは緑といってもかなり黒く、色彩に鈍感な人なら黒髪と表現するような髪色をしているし、ネイは少し青に寄った緑色をしているが、中には明るい黄緑色の人もいるらしい。髪以外の要素は人間とほとんど変わらない。
ルーミ族は人間より少し長寿で、あんまり子供を作りたがらない。放っておくと出生率が低すぎて自然消滅してしまうので、ミールーンでは国策で夫に人間族を迎えることがよく行われていた。人間族の男は性欲旺盛なので、夫を人間族にしておけば自然と出生率も上がるというわけだ。
そんなことをしたらルーミ族の血がどんどん薄くなってしまうではないか。という話になるのだが、おかしなことにこの世界の人類や魔族における種族というのは完全に母系で遺伝するものらしく、混血ができてもいわゆるハーフのような形にはならない。ルーミ族の母から生まれた子供は父親が人間族でも100%ルーミ族だし、ルーミ族の父親と人間族の母親から生まれた子供は100%人間族で、ルーミ族の遺伝形質はまったく残らない。もちろん種族的な特性以外の、例えば目鼻立ちや身長体格といった要素は普通の子供のように両親に似るのだが、種族的な性質は遺伝しない。ハーフのような、中間的な性質になるということは絶対にないらしい。
「お母さんはイーリ様の親友で、霊侵術の専門家だったの。お父さんはお見合いから婿に入った人で、まあ……優しい人だったわ。パルミスラとかいう国の小さな貴族の五男坊で、家を出て魔術師として名を残そうとしたんだけど、あんまり上手く行かなかったみたい。それでミールーンに来たついでにお見合い会に参加して、婿入りしたわけ。パルミスラはミールーンから相当遠い国だから、私は父方の祖父母とは会ったこともないし、今はもう絶縁状態ね」
まあ、上に四人も兄がいれば跡継ぎにも孫にも困らないだろうし、絶縁状態になるのは当然の話かもしれない。
「それで、お父さんは近所の学校で小さい子向けの教師をしていたの。霊侵術って心を読めるから夫婦仲が悪くなることが多いんだけど、お父さんはあんまりそういうことが気にならない人だったみたい。夫婦仲は円満だったわね」
少し前に高名な魔術師の人生を紹介する本を読んだのだが、霊侵術師たちの項目は確かにちょっと酷かった。
意中の相手を我が物にするために洗脳という手段を使おうとするパターンはかなり多く、いきなり深洗脳を施して人格を変えるのは無理なので、昔からある手管に倣って、殺人のような重犯罪を犯して追われているという偽の記憶を植え付け、恐怖心に駆られたところを自宅に匿い、実質拉致した後にじっくりと人格を改造していく……と、このくらいは名を並べるだけで1ページになるほど多くの術者がやらかした事件らしい。
個別に名が上がるような酷いものだと、都中の選りすぐりの美人七人を深洗脳してハーレムのような家庭を築いた挙げ句、ある日唐突に妻たちのことが意思のない人形としか思えなくなり、全員を自殺させて当人は真実の愛を求めて失踪するなど、そういうレベルの酷く猟奇的なものになってくる。
まあそれは極端な例で、現実はネイの家のように普通の家庭を築ける人のほうが多いのだろうが、他よりそういう崩壊家庭が歴然と多いというのは事実らしい。
結婚をして家庭を作っても、関係が悪化して離婚の話になると配偶者を洗脳して姑息的に関係を修復し、やはりそれが常態化して奇妙な形で家族ごっこを続けてしまう。
なぜそうなってしまうのかといえば、やっぱりそれは洗脳という安易な選択肢が常に手元に存在するからだろう。存在しなければ、否応なく地道な話し合いで落とし所をさぐっていくしかないし、努力しても無理だったら関係を終わらせるしかない。
おれも最初は「ふーん、霊侵術ってジャンルは一生開拓できないのか。素質がなくて残念だなぁ」と思っていたのだが、手段がないことがむしろ幸せということもある。
今ではむしろ、素質がなかったのは幸運なのではないかと思っているくらいだ。
「でも、魔王軍の攻勢で二人とも……お父さんは軍に志願して、お母さんもイーリ様を狙ってきた精鋭部隊と戦って死んじゃった」
「……そうなんだ」
「そのあとイーリ様に拾われて養子になったの。イーリ様には子供がいないし、ルーミ族にとっては養子を迎えて家を継がせるのはよくあることだしね」
それはルーミ族同士で産む子供が少ないことが関係しているのだろう。
血縁にこだわるとすぐに家系が絶えてしまうのかもしれない。
「そのくらいかな。これでいい?」
「うん。いいよ。ありがと」
「それじゃ、あと二つね。遠慮しなくていいから」
あとはなんだろう。
ネイの中では「今日の朝食べたのは何?」というようなカウントを消費するためだけの質問はなしになっているので厄介だ。
「ネイは、今好きな人いる?」
「えっ」
びっくりしたような顔でネイはこちらを見た。
その顔は少し硬直したような、ただ驚いただけではなく緊張を帯びたような表情だった。重大な覚悟が必要な質問をされてしまった。というような。
しまった。
まさかそんな人はいないだろうと思って質問したのだが、どうも違ったかもしれない。
「あ、ごめん、さっきの質問はなしで」
「だめ」
なぜだ。
「こっちは、あなたの心の中を覗ける術を使ったんだから、どんなに隠したい秘め事だって暴けるの。だったら私が隠したいから話さないなんて不公平だわ」
「でも、ネイはそんなことしないじゃん」
これは信頼しているとかではなく、おれはネイがそれをしていないことを知っていた。
人間の意識は、常に相互に影響し合っている脳と霊体が同調することで発生している。そのどちらに手を加えても、もう片方に影響が出る。霊侵術は、他人の霊体に干渉することによって心身に特定の影響を及ぼすことを目的とした技術だ。
霊体に干渉するといっても、それはプログラムをちょちょいと書き換えるような単純なものではない。いにしえの精神分析学者が氷山に例えたように、精神というのはそれ自体が巨大な構造物のようになっていて、一人ひとりで構造がまったく違う。
なので、今回のように表層を流れる感情を操作したり、誘導尋問をして思い浮かんだ情報を拾うだけなら簡単なのだが、本人が思い浮かべてもいない記憶野のどこかにしまわれた記憶を拾ってくるとか、そういう作業になると途端に膨大な労力が必要になってしまう。何時間も霊体侵入をしてマッピングという作業を地道に続け、目当ての場所を見つけるところから始めないといけないからだ。
特に、深層心理や行動原理といった人格の根源に関わるものは、精神の中でも一番深い基底階層にある。そこを改造することを特に深洗脳と言うのだが、ものすごく手間のかかる作業で、自分を心から愛するようにしたり完璧に従順な逆らえない奴隷のようにするには、その道の達人が無防備な一般人を相手にした場合でも、半年から一年もの期間を要するらしい。
ネイは知らないだろうが、おれは自分の精神のマッピングは終えているので、ネイがどこに侵入しなにをやったのかはしっかりと解っている。
過去の実験では記憶を探られたこともあるが、ネイは記憶野の辺縁にあるその日作られたばかりの記憶を一つ覗き見ただけで戻っていった。無遠慮に好奇心のまま隠したい記憶を探るなんてことはやっていない。
「だめなの。ケジメだから」
「ケジメもなにも、ネイが嫌がることはしたくないよ」
「いいの」
「だめ。聞きたくない」
「ゲオルグさん」
「えっ」
ゲオルグ?
「ゲオルグさんのことが好きなの」
とんでもない名前が飛び出してきた。
「そ、そうなんだ」
ゲオルグはスタイルが完成されたダンディな男だけれども。
なんだか面食らうような思いがする。そんな年上ってあり?
「……秘密にしてくれる?」
「うん、大丈夫。誰にも言わないよ」
「言っとくけど、実際に思いを伝えようとかは思ってないからね。年の差は分かってるんだから」
「あ、そうなの……」
そりゃ隠したがるわけだ。
あんな質問するんじゃなかった。さっきのアリシアに当てられていたのかもしれない。恋バナにしてはちょっと重すぎる。
なんだか知りたくもないことを知ってしまった。
「じゃあ、三つ目は?」
三つ目など聞きたくもない。なにが藪から飛び出してくるか分かりやしない。
「うーん……」
さて、どうすればいいだろう。今日の朝食を聞くのはダメだし。
「じゃ、これはなんに見える?」
おれは手で形を作って、家の中で灯っている魔術灯火の光にかざして影絵を作った。
きつねだ。
「うーん……砂漠ねこ?」
「なるほど」
おれは一方的に言うと、椅子から立ち上がった。
「じゃ、おつかれさま。絶対誰にも言わないから安心してね」
「うん」
「それじゃ、おやすみ」
「ありがとう」
ありがとう?
「実験に付き合ってくれて。助かった」
「そう。おれもネイの話を聞けて楽しかったよ。じゃあね」
おれは足早に自分の部屋に向かった。なんだかネイの顔を見るのが少し辛くて、早くその場を立ち去りたかった。
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