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貴族は子どもを乳母を雇って育てるのが一般的だ。
二人目、三人目となると自分ですることもあるが、乳母を雇わない、乳母に預けないというのは、貧乏だと見られてしまう。
瑠花は完全に自分で育てる気でいたが、さすがに乳母に預けないのは侯爵家としての威厳に関わるということで預けることにした。
「お帰りなさいませ、旦那様、瑠花お嬢様」
「変わりないか?」
「いえ、サンズ家のご当主が突然、我が家に現れ、瑠花お嬢様をご所望されましたが、奥様が次男の寿衣お坊ちゃまに対応するように申し付け、現在、応接室にて遊ばれておいでです」
「よく分かった」
良くも悪くもベンジャミンは物事を正確に把握していた。
だが、瑠花も寿衣も未だにイザード家の子どもというのは譲れないらしい。
「どうする? 瑠花」
「シャムリートと約束しましたのよ。どんな理由にしろ瑠偉本人がイザード家に来たら帰ると」
「だが、帰ったところで事態は改善しないぞ。シャムリートの手伝いが欲しいだけで、瑠花を求めてのことではない。苦しむぞ」
獅己の言うことは当たっていた。
サンズ家の体裁というものとシャムリートの無言の要求というだけで来た。
戻っても、また喧嘩をして実家に戻るということを繰り返しそうだった。
「一度、話し合うと良い。シャムリートとて分かっている」
「そうですわね。最初は話をするために実家に戻ったのを忘れていましたわ」
応接室では苛々している瑠偉だけがいた。
寿衣は瑠花が戻ったことを聞いて応接室を出ている。
「ようやく帰って来たか」
「父娘の語らいくらい致しますわ」
「ふん。子どもを乳母に預けて良いご身分だな。母親の自覚がないのか? 我が母は自らの手で養育したと聞く」
瑠花も自分の手で育てるつもりだったが、それは侯爵家という身分であることから出来ないと説明されている。
自分の常識の中には無いことでも流石に貧乏だと公言する趣味はない。
「たしかにご自身の手で育てられる方もいるには、いますわね。でもそれは下位貴族である場合、上位貴族である侯爵家は乳母を雇うのが通例となります。乳母を雇わないというのは貧乏だと公言しているようなものですわよ」
「なっ! お前はサンズ家が貧乏だとでも言うつもりか!?」
「事実、そうですわよね? イザード家から援助を受けなければ侯爵家を維持できなかったのですから」
「お前のような性悪女とは今すぐに離縁してやる! 今すぐに荷物を纏めろ!」
荷物を纏めようにも、ここはサンズ家で出て行くならば瑠偉の方だ。
そんな自分がいるところも分からなくなるようでは瑠花も呆れるしか無かった。
「・・・ベンジャミン」
「はい、お嬢様」
「離縁状をここへ」
「かしこまりました」
何があっても対応できるようにと、内ポケットから白紙の離縁状と万年筆を取り出した。
それを見て、用意している手際の良さよりも用意していることに、座りの悪さを感じる。
「証人はお父様と寿衣でかまいませんわよね?」
「・・・あ、あぁ」
「では、これを」
「本日中にでも届けさせていただきます」
あれだけ騒いでいたのに簡単に離縁できたことに瑠偉は驚きを感じた。
だが、離縁したことで現実が見えたことも事実だ。
「それで、シャムリートはどうします? そちらで雇うなら給金の話を本人としてくださいませ」
「なぜ?・・・いや、うん」
「・・・・・・お帰りになられるそうよ」
控えていた侍女がさりげなく玄関へ誘導する。
何も言わなくても行動するのがイザード家の使用人だ。
サンズ家には、カントリーハウスにいるはずの両親が来ていた。
機嫌よく庭でお茶をしている。
その背後には、両親がカントリーハウスに移ってから一度も来たことがないサンズ家の執事がいた。
「あら? お帰りなさい、瑠偉」
「いい話を持って来た。おい、瑠偉にも茶を」
「・・・いや、茶は」
「顔が真っ青よ。温かいお茶を飲んで落ち着きなさい。誰かに嫌なことでも言われたの? 侯爵家に盾突くなんて」
「そうじゃない。今日、瑠花と離縁した」
笑顔でテーブルのスコーンを取り分けていた母親は固まり、いい話という内容が書かれた書類を内ポケットから取り出していた父親も固まる。
執事だけが、瑠偉を蔑んだ目で見ていた。
「ど、どういうことなの? 離縁って、貴方、何を考えているの? 貴方が苦労しないように金持ちの侯爵家と結婚させてあげたのよ。まぁ申し出は向こうからだけど」
「離縁など、私たちは認めんぞ。頭を冷やせ」
「そうよそうよ。きっと何かの間違いだわ」
「間違いじゃない。証人はイザード家当主と寿衣だ」
寿衣がイザード家の次男だということは知っている。
つまりは、この離縁はイザード家の総意ということを意味した。
「あぁ何ということを、瑠偉が苦労しないように、働かなくても利益が出るようにと色々としてあげたのに、それを、親の心子知らずとは本当にその通りだわ」
「苦労? 利益? 僕が当主になったときには赤字だらけだったじゃないか! 利益が出るという契約も領地運営を逼迫するものだ。しかも我が儘放題の女との結婚で苦労しない日などなかった!」
「まぁ、それはおかしいわ。だって必ず儲かると言われて契約したのだもの。ねぇ? あなた」
「あぁ、とても親切な商人だった。そんな彼が私たちが不利益になるような契約をするはずがないだろう」
「そうよ。神も言っているわ。隣人を信じよ。そんな人を疑うなど恐れ多いわ。人を騙すなどあるわけないじゃない」
今まで信じていた両親が何か違うもののように感じ、瑠偉は力なく椅子に凭れた。
人を信じ、疑うことをしないことは美徳ではあるが、過ぎれば、それは害になる。
少し前まで瑠偉も自分を騙す人などいないと思い込んでいた。
それが侍女頭の不正だ。
彼女の言葉を無条件に信じすぎた結果だ。
「離縁状は、あとで私が上に掛け合って取り消してもらう。それよりも新しい契約なのだが、これはまだ誰も見つけていないものだ。これが売れれば一代と言わずに孫の代くらいまで遊んで暮らせる。なぁ、ガーボ」
「はい、旦那様」
「食用貝も良いものを見つけてくれた。今回も楽しみだ」
「勿体なきお言葉です」
父親が持つ契約書が悪魔を呼び出す魔法陣のように見えて、瑠偉は引っ手繰るようにして内容を確認した。
そこには三十年ではなく、五十年の契約年数が書かれており、契約したものは乳白色の岩だった。
その近くの湖は死の湖と呼ばれる生き物がいない湖だった。