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貴き家の料理人

 アメリアは鼻歌混じりに縫い物をしていた。作っているのはコースターだ。最近は冷たい飲み物を頻繁に出すようになったから、グラスの下に敷くものが欲しいと思ったのである。


 今店内には一人っきりだ。マスターは何かあったら呼んでくれとだけ告げて、自分の部屋にこもってしまった。休むという風ではなかったから、また本を読んでいるか、あるいはそのための本を探しているのかもしれない。過日見た部屋の惨状は、今でも覚えている。


 ともあれ、店主が居ないのをいいことに、アメリアは彼の特等席に座って、手仕事に集中していた。


 急ぎのものではないのだから、ゆっくり丁寧に針を差す。だが、うっかりというものは誰にでもいつでも起こることだ。ちくり、と布を持っていた親指に痛みが走り、慌てて手を引っ込めた。確認すれば、見ている端から赤い血が玉のように溢れてくる。


 やっちゃった。怪我した指を咥えながら、気分としては舌をぺろりと出したいところ。ふう、と息をつきながら、アメリアはふっと顔を上げた。視線はちょうど窓の先に延びる。


 ――何だろう。窓の向こうに、いつもは無い大きなものがあるではないか。目をぱちくりさせて、よく見る。


「馬車? ……ああっ!?」


 大きな幌馬車と二頭の馬、それの主はよく知っている。アメリアの、いや、葉揺亭の天敵だ。彼女の粘っこい高笑いが既に聞こえる気がする。


 しまった、と慌てふためくが、時すでに遅し。次の瞬間には、玄関が静かに開け放たれた。


「ああ、ご機嫌いかがかしら? マスター!」


 黒ずくめの従者が扉を抑える側から、声高らかに宣言して登場したのはソムニ=クロチェアなる令嬢。大陸屈指の名家の娘なのに、しがない喫茶店のマスターに並々ならぬ恋慕を抱いている、見た目と性格が何一つ違わないお嬢様だ。


 逃げ遅れたアメリアは、引きつった笑みを浮かべていた。そして亭主の返事が無いのに気づくと、ソムニ自身も、アメリアに対して嫉妬と軽蔑の眼差しを向ける。

 

「あら、今日はあなただけですの? わたくしの愛しのマスターをどこへやったのです?」


 その言い草にかちんと来た。マスターはお前のものじゃない、と言いそうになったが、すんでのところで飲みこんだ。いかなる相手だろうと客人だ、全てを受け入れるのが葉揺亭の流儀だ。マスターの顔を汚すわけにはいかない。


「奥に居ますので!」


 こわばった笑顔できつく言い放つと、回れ右して店主のもとへと急いだ。何かあったら呼べの何かとは、まさにこういう時だろう。



 店主の部屋をけたたましい勢いでノックして、覗いた顔を見るなり、アメリアは火のついたように状況をまくしたてた。ソムニに対する私情も織り込んで。マスターは苦笑しつつも、足は颯爽と店へ向かう。一枚扉をくぐった時には、客を迎える心地の良い笑顔を張り付けていた。


 ところが、来客の様子を確認するなり、彼の面が揺らぎ、驚きの色が浮かぶ。それは後ろにくっついていたアメリアも同様であった。


 待っていたのはソムニだけではなかった。いつの間に登場したのか、体格の良い男が、彼女から一歩引いた場所に立っている。もちろん、玄関を開けていた者とも別だ。ソムニとは親子以上の年の差があるだろうか。だが、父親でないのは確かだ。


 そして、彼らの足元には大きな入れ物があった。蓋の無い四角い箱の中には、更に半分の大きさの別の箱と、布に包まれた何かがまとめられていた。


 どなたでしょうか。そう問いたくて仕方がなかったが、よりも早く、ソムニの黄色い歓声が上がった。


「ああ、マスター! お会いしとうございましたわ!」

「やあ、ソムニ嬢。ご機嫌うるわしゅう。は、いいとして……えーと、お隣の殿方は?」

「シエンツ、と言いますの。わたくしの家の料理長ですわ」


 胸を張るソムニの横で、料理人の男が深々と頭を垂れた。


 さて、これはどういう趣向だろうか。マスターが面食らっていると、すかさずソムニが詰め寄ってきた。


「わたくし、かねてよりシエンツのお菓子とあなたのお茶を同時に楽しみたいと思っておりましたの」

「そうかい」

「それなのに、あなたがちいっともわたくしのもとに来て下さらないから。しょうがないので、シエンツに出向いてもらいましたわ。本当は、クロチェア家の外にはお見せしたくないのですけれど――」


 そう言い淀みながら、ソムニはアメリアに一瞥くれた。下等なものを見る目、快く思う人間はいない。アメリアの眉間の皺が深くなる。


 今にも火花が散りそうな視線の交錯を、マスターが体で遮った。穏やかに微笑みながら、優しくソムニに語り掛ける。

 

「それなら僕も見ない方がいいね。じゃあ、お茶だけご用意して裏に下がるから、心ゆくまで楽しんでいってくれ」

「もう、どうしてそうなるのかしら!? マスターは我が家の一員で――」

「要するに、今日だけ特別に見せてくれると言うことかい? 嬉しいなあ」

「ま、まあ、そういうことですわ! マスターはわたくしの特別の方ですもの! ただ――」

「アメリア、今日は幸運だぞ! クロチェア家専属の料理人だなんて、もう二度と会えないかもしれない。楽しみだなあ、どんなものが飛び出すだろうか」

「そ、そうですね……」


 マスターは終始高揚した様子で一方的にまくしたてた。本気なのか演技なのか、どちらかはわからないが。とにかくソムニが余計なことを言う隙は、一切なしだ。結局、彼女は勢いに押し切られてしまったらしい。少しだけ不満そうに口をつぐむと、黙して控えていたシエンツの名を呼ばわった。


 は、と短い返答の後、貫禄のある料理人が前にでた。静かに歩み出る姿には、熟達者特有の気配が滲んでいる。


「少し場所と火をお借りしてもよろしいでしょうか? とはいえ大方は終わらせてきましたので、後は一つ仕上げるのみですが」

「構わないよ。皿とかは必要かい?」

「いえ。食器類は持参しております。……では、少し失礼いたします」


 シエンツは足元にあった大きな木箱を抱えて、カウンターの中に入ってきた。


 まず布がけされていた物のうち、一番上の直方体を取り出す。包みの下から現れた物は、蓋付きの藤かごであった。とりあえずそれは作業台の片隅に置いておかれた。


 目当ての道具類は箱の下に入っていたらしい。シエンツは小さな鍋、フォーク一本、長くて太い金属の棒を二本、円筒形の缶、そして薄い銀の板を取り出して、手元に並べた。


 最初に手に取ったのは缶だった。中身の白くきらめく結晶を小鍋に入れる。砂糖だ、それもかなり上質の。


 シエンツは砂糖の入った鍋にスプーン一掬い程の水を加えると、焜炉の火にかけた。その様子を横目で見ながら、今度は板の上に二本の棒を並行に渡す。幅は子どもの拳一つ分ほどだ。

 

 その後、真剣なまなざしで、木べら片手に鍋の世話をしているシエンツ。一体何を始める気なのだろうか。彼の姿を一番楽しそうに見ていたのは、他の誰でもなく、マスターだった。背伸びして鍋を覗きこんだり、藤かごの蓋をこっそり開いてみたり、忙しない。邪魔だと叱られてもおかしくない程に。


 そしてシエンツが動いた。鍋をさっと火からおろし、軽く混ぜる。上手くいったのか、誰にともなく頷いていた。


 木べらからフォークへ持ち変えると、その先端を溶けた糖液に突っ込み、救うように振り上げた。腕を目一杯伸ばし、空中で円を書く様に手を振り動かす。すると、砂糖の糸が宙に舞った。まるで光の筋が実体化しているようだ。


 きらめく白糸は重力に従い下に落ちる。着地点は、先ほど設置した金属棒の間だ。なるほど、二本の棒に橋渡しするように糸がかかり、なおかつ、繰り返される工程で複雑に絡み合った糸は、少し荒い雲のような塊へと成長していく。


 ははあ、とマスターが感心の唸り声を上げた。


「一種の砂糖菓子、ですか」

「はい。今回は飾りに使うだけですが。壊れやすく、また溶けやすいので、仕上げの時にしか作れないのですよ」

「飾り。いいなあ。繊細な美しさが、高貴さを醸すということですね」

「料理は見栄えも必要だというのが、自分の考えですので」


 と言って、口と共に動かし続けていた手を止めた。長く連なるように編まれた砂糖の糸は、おおよそ三塊程に分かれている。シエンツはまたも頷くと、鍋を端に寄せて、次の作業を始めた。


 持ち込んできた箱の中にある黒い重厚な箱。それはどうやら移動用の保冷庫であったらしい。頑丈な壁に囲われて、見た目の割に容積が小さい。開かれた蓋の上には冷気を放つ青色の石が輝いていた。


 中には四つの瓶が入っている。一つだけ、他より二回りほど小さい。シエンツはそれらを全て台の上に並べて見せた。小さな瓶の中身は、赤く透明感があるもの。ジャムだろう、とは予測がついた。


 三つの瓶も中に入っているのは似た質感のものだが、ジャムとは全く違う。一つは黄色で、残りはほぼ白色だ。なおかつ片方はやや硬めに見える。それぞれ中身が違うようだ。


 そして、シエンツは藤かごに手を伸ばした。中から出て来たのは、長方形に切られたパイ生地だ。指先ほどの厚みがあって、空気の層を何段にも織り交ぜているのが見てとれる。


 そこからは手早い。パイ生地を並べ、瓶の中のもったりとした物体を塗る。厚すぎず、しかし生地が透けて見えるようなことも無い。その上に更に別の瓶のものを塗り、新しいパイ生地を乗せ、と、素早い作業が続いていく。


 そして四枚目のパイ生地を重ねて、完成したらしい。ナイフではみ出したものを掬い取る姿は、達成感に満ちていた。


 かがみこんで取り出した皿に、出来上がった菓子を移す。だが、なぜか横倒しにしてしまった。層状になった断面が上を向く形だ。


「あれ、せっかくなのに倒しちゃうのかい?」

「どうせ食べる時にこうなさるでしょうから。今回はこの上にさらに飾りをつける兼ね合いもあります。高さも出ますし、あまり問題はないかと」

「なるほどね。色々考えているわけだ」


 確かに、固いパイ生地の上からナイフとフォークを突き立てれば、せっかくきれいに重ねられた中身がつぶれて出て来るか、パイ生地が飛び散るかの未来は見える。想像するだにあまり美しくない。


 言った通り、先ほど作った糸飴細工を上に乗せる。更に、小瓶に入っていた、ベリーのソースを皿にあしらった。まるで花が舞っているかのような意匠が加えられている。


 そして、全員の目に届く位置に皿を動かした。


「パイと三種のクリマの多層仕立てでございます」

「シエンツ、お見事ですわ! どうです、マスター。素晴らしいでしょう? わたくしの家にふさわしい、最高の料理長ですわ」

「ああ、本当に。流石だ」

「お褒め頂き光栄です」


 シエンツは丁寧に礼をした。


 世辞などではなく実際に素晴らしいのだ。本人が見た目も重要と言った通り、市井の菓子類にはほとんど見られない華やかさがある。いっそ自ら光り輝いている、そんな気すらしてくるから。


 だが、一人だけ面白くない顔をしている。アメリアだ。いや、彼女とてシエンツの腕前を賞賛する気はある。素晴らしいとは思っている。だが、向こうでしたり顔をしているソムニの顔が目に入ると、素直に賞賛する気になれない。


 アメリアと目のあったソムニは、彼女のことを鼻で笑って、それから一転、上目づかいでマスターに喋りかける。頬の横で手を組んで、すり寄るようにして。


「マスター、食べてみてくださいまし。シエンツの素晴らしさ、ご納得いただけますわ!」

「あ、ああ……そうだね。じゃあ――ああ、ほら、アメリア。君の分もあるんだから」


 徐々に後ずり、今ではすっかり遠巻きになっていたアメリアを呼ぶ。シエンツはきちんと三皿分つくり上げていたのだから。彼女の分もある計算だ。


 マスターはナイフとフォークを持ちながら、しかし少しだけ表情が曇ったのは、実は甘いものが苦手だから。いや、多少なら食べるし、果物のような優しい甘味は好きだ。だが、これはどうだろう。クリマ、とシエンツは言ったが、要するに甘いソースを固めに仕上げた物だ。それがふんだんに使われたうえ、上に砂糖の塊が乗っている。そう評すれば、おのずと構えてもしまう。


 ナイフで一口大に切り分け、全ての層を一すくいにする。ついでに皿にあしらわれたジャムも巻き込むように。衝撃で砕けた飴細工は光の粉となり、上面を彩っている。美しく着飾った菓子は、銀食器の上で、今か今かと食べられるのを待っていた。


 そしてマスターは貴人の食べ物を一口、相伴にあずかった。咀嚼すればパイが軽い音を立てながらほどけていく。そして、口の中に拡がるのは、とりも直さずの甘味だ。


 クリマに使われているのだろう、乳や卵、果てにはバターの風味が溶け合って一つの濃厚なうまみとなり、味覚を刺激する。そこにちょうどいい対比効果を産みだしているのが、ジャムだ。あれは単なる飾りで塗られているのではなく、食べ進める内に舌を飽きさせないための手だったようだ。


 おいしい、と思う。ごく一般的な味覚と嗜好の持ち主なら、賛辞の声を惜しみなく上げ、あっと言う間に平らげてしまっただろう。だがあいにく、葉揺亭のマスターたる男は、一般からは大きく外れる人間だった。


 そして一流の料理人とは、自らの作品を口にする者の反応を気にするものだ。良き評も、悪き評も。マスターの手があまり進まないのを、シエンツが見逃すことはなかった。


「……口に合いませんかな」

「いや、おいしいよ。今まで味わった中でも極上の方だ。ただ、僕が少し、甘味が苦手なだけで……。ねえ、アメリア。君は好きだろう?」

「はい、すごくおいしいです! こんなの、初めて!」


 初めてアメリアに笑顔が咲いた。濁りない感想と共に、彼女がシエンツを見上げるまなざしは、尊敬の色に満ちていた。


 そして彼女が喜べば、天秤にかけたようにソムニの顔色が悪くなる。不機嫌さを露骨ににじませつつ、しかし当人は平静を取り繕っている風にして、マスターに語り掛けたのだった。


「どう、すばらしいでしょう? わたくしの料理長は」

「そうだね。間違いなく、シエンツ殿は世界でも屈指の力量の持ち主だろう」

「ほめ過ぎですよ、店主殿」


 己の一端を見せたに過ぎないのに。そう謙遜するシエンツは、しかしまんざらでもない様子であった。


 ソムニは鼻高々に、高説を垂れる。


「では、おわかりいただけたでしょう? 高貴なる者にはそれにふさわしいものが必要ですの。ええ、マスター、あなたのことですわ。あなたこそこの世界の頂点で光り輝くべき御方。こんなちっぽけで薄暗い店に閉じこもっている場合ではありませんことよ。そう、あなたは、光り輝くわたくしの宝物ですわ!」


 感極まったのか、ソムニがカウンターに勢いよく手をついて、大きく身を乗り出す。息荒く、濁りない瞳で亭主を見据える。はらまれた熱はかつてないほどに大きい。


 一方、マスターは氷点下に冷え切った目をしていた。それで苦笑し、何も言わない。語られぬ彼の心を代弁するかのように、アメリアが後ろで軽蔑の視線をソムニに突き刺していた。彼女も彼女で言いたいことを我慢している。


 ところが。葉揺亭の双方から投げられる無言の重圧は、熱に浮かされるソムニには一切通用しないようだ。唇を湿らせ、甘えるような声を作り、踵が浮く程に身を伸ばす。


「ああ、マスター。どうして何も言ってくださらないの? わたくし、あなたのことを褒めておりますのよ? 一生手放さないと決めたんですから」

「……ソムニ嬢」


 かけられたのは穏やかさの影にどす黒い影をはらむ声。そんな物でも、ソムニは嬉しいらしい。忘れられた飴細工のように、表情を溶かす。


 だが、後ろで聞くアメリアは知っていた。あの口調は、例えば先日の氷騒動のように、マスターが他者を強く叱咤し説教するときのそれだ。含まれたとげは、聞く者を怯えさせるに十分な。それは、決して「客」に向けられるべきものではない。茶を飲みくつろぎ心を安らげる、それが大義の喫茶店にあるまじき「店」としての態度だ。


 それは本人が重々承知だろう。思わず表に漏らして後悔している風に、マスターの言葉は後に続かなかった。


 何も言えない、言わない。その凍り付いた空気を打ち破ったのは、シエンツであった。


 いや、彼もためらっていた。料理人として仕える立場、ソムニは敬い従うべき主だ。ここで彼がしゃしゃり出るのは、主人の顔を潰すことになる。それでも、一流の料理長としての誇りと感情が、彼を動かしたのだった。


「ソムニ様。かような言葉は、店主殿に大変失礼かと」

「あら、どうしてかしら。わたくし、嘘はついておりませんわ。シエンツは知らないでしょうが、マスターのお茶は本当に最高ですのよ。どんな宝石よりも価値がありますわ」

「それは自分には否定も肯定もできません。申し上げたいのは、別のこと」


 シエンツが真顔でしゃがみこみ、ソムニと目線をあわせる。


「店主殿にとっては、この店が宝物です。己が腕を奮い、大いに人を喜ばせる場。自分も一介の料理人として、厨房を、お屋敷を愛しておりますので、あの方のお気持ちはわかります」

「それで? 何が言いたいのです?」

「ソムニ様、お気づきになれませんか? この場所も、あのお嬢さんも、全て含めて、店主殿の魂なのです。それなのにあなたはこの素晴らしい世界を、ちっぽけで薄暗いと貶めた。そう、言うなればソムニ様、あなたは自ら、店主殿の価値を貶めたのです。それでも自分のものだと言い張るおつもりですか。宝物を傷つけることが、あなたの愛ですか」


 ソムニの顔がみるみる赤くなる。肩を怒らせ目を吊り上げ、唾吐く勢いで怒鳴りつけた。


「シエンツ、無礼ですわよ! あなたこそわたくしのことを侮辱するつもりかしら!? もう、父上に言いつけますからね!」

「礼を欠くとは承知の上です。旦那様には何とでもおっしゃってください。ですが……長年クロチェア家にふさわしい料理をと尽力してきた身として、あなた様の言い草が許せなかったのです。料理の、食の価値は、その味だけでは決まりません。見栄え、食べる環境、それらも全て含めての価値なのです」


 身内からの真摯な眼差しが、ソムニに突き刺さる。彼女は思っても無い反論に、わなわなと震えていた。渦巻く感情はたやすく爆発する。


「最悪の気分ですわ! 下につく身のくせに、このわたくしに意見するだなんて! 帰ります! こんなところでお茶なんて飲んでいられませんわ!」

「では……」

「シエンツ! もうついて来なくてよろしい! 顔も見たくないですわ!」


 真っ赤な顔で金切声をあげると、ソムニは呆然とする一同に背を向けた。そしてそのまま、乱暴な足取りで玄関に向かうと、控えめな従者と共に去っていった。



 窓の向こうで馬車が去っていくのを、嵐の後に残された面々は、複雑な面持で眺めていた。


「シエンツ殿、大丈夫かい? これで解雇にでもなったりしたら、僕は申し訳が立たないのだけど」

「それは心配ないでしょう。旦那様は公明正大な方ですから、私情で人を裁いたりはしませんよ」

「でも、あんな言われ方して……。帰って大丈夫なのですか?」

「ええ、むしろ戻らねば。自分の舞台は、クロチェア家の食卓なのですから。後進たちも待っておりますゆえ。まあ、万が一追い出されるようなことがあれば、店主殿のように自分の店を構えても面白いかもしれませんなあ、ハハハ」


 そう鷹揚と笑いながら、シエンツは広げた荷物を片づけ始めた。


 少しでも荷を軽くしたいからと、残った菓子や食材なんかは置いていくという。飴細工は溶けてしまうだろうが、菓子自体は冷蔵庫に入れておけば明日ぐらいまではもつだろうと。それを聞いたマスターが眉を下げた。


「それは悪いよ、さすがに」

「とんでもありません。我が主の不明の詫び代わりとしては、足りないくらいです。申し訳ない、もっと早くにおとめするべきでした。お嬢さんにも、だいぶ不愉快な思いをさせてしまいましたね」


 そう言って、シエンツは頭を垂れる。アメリアが慌てて止めた。彼は悪くない、と。


 そうだそうだとマスターも横槍を入れる。


「むしろ僕は礼を言いたい。シエンツ殿、あなたのおかげで、僕という人間の心は救われた。あなたがあの時割って入ってくれなければ、それこそ僕は自分で自分の格を落としていたに違いない。……ありがとうございました」


 葉揺亭は全てを受け入れ、万物を同様にもてなす。それなのに、一時の感情をむき出しにして、大事な客を咎めかけてしまった。ソムニと同じだ。自分もまだまだ青い、そう反省しながら、マスターも頭を下げたのだった。



 持ってきたものを元通り箱に詰めると、シエンツは大きく呼吸をした。最後にもう一度台上を見渡す。葉揺亭らしからぬ物品は、どこにもない。あるべきものはあるべき場所に戻った。

 

「では、お二方。ごきげんよう――」

「あ、いや、ちょっと待ってくれ! できた! これ、ソムニ嬢に!」


 シエンツとアメリアで洗い物やら片づけやらをしている間、マスターはずっと隅でこそこそとやっていた。何をしているのかと思っていたが、どうやら、茶葉を調合していたようだ。薄紙で丁寧につつんだそれを、シエンツの木箱に滑り込ませた。


「彼女がいつもここで飲むお茶だ。『デイ・ドリーム』、あえて言葉を直すなら、『白昼の淡き夢』。色合いも美しく、レモンを一枚入れれば、移ろう夢のように色が変わる。愛に溺れる幸せな夢のように、甘味が溢れる一杯だ」

「……なるほど、ソムニ様らしいお茶ですね。あの方が店主殿を褒めるのもわかる気がします」


 そしてシエンツは握手を求めた。自分は貴人の料理人、マスターは町の喫茶店の主。立場は違えども、心の底にある信念はきっと同じに違いないと。


 マスターは快くそれに応じた。


「いつか必ず、お茶を飲みに参ります。もちろん、個人的に」

「ぜひ。僕もアメリアも、お待ちしておりますから」


 そしてシエンツは帰って行った。クロチェア家の料理人として、信念を貫き腕を奮うべく。彼の後姿は、たまの嵐などではびくともしないほどに、堂々として立派なものであった。

ノスカリア食べ物探訪

「パイと三種のクリマの多層仕立て・綿雲添え」

とある高官家の料理人が作った菓子。

生地を折り重ねるように焼き上げたパイと、ミルク・カスタード・バターのクリマ(クリーム)を層状に重ね上げた生菓子である。

今回は横倒しにして仕上げに綿雲のような糸飴を上に乗せた。

ナイフで食べやすい大きさにカットしながらフォークで食べる。が、パイ生地を粉々にせず完食するのは難しい


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※本作品を再構成・加筆修正を行った新版を2023年に公開はじめました。順次掲載していきます。  ストーリーは大きくは変わっておりませんが、現在本作品をお読みの方はぜひ新版をご覧ください  https://ncode.syosetu.com/n9553hz/ またはマイページから
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