紅月夜の客人
草木も眠る真夜中、葉揺亭に薄明かりが灯った。幻想的に揺れる光の源は、カウンターで灯されたオイルランプの炎である。
壁面に投げられた大きな影がゆらりと動く。静かに歩むその者には、足音一つ伴わない。
そうして店の主たる男は入り口に向かい、玄関扉にかけてあった鍵を解いた。だが、それだけ。こちらより扉を開くことはせず、靴先の向きを変える。
カウンターに戻る前に、窓辺に寄った。閉められていたカーテンを少し開け、指先ほどの隙間から外を覗き視る。街は月明かりに照らされて明るいが、気味の悪い紅さもはらんでいる。紅月の妖しい光が、こうやって地上を染めあげるのだ。
――ああ、今日も憎らしいほどに明るい。
葉揺亭のマスターは遠い目をしてうっすらと笑んだ。明るく鮮やかに輝く紅い月は、地上の民を魅了し、狂わせ、惑わすに長ける。
亭主はさっとカーテンを元に戻し、踵を返してカウンターに戻った。
月になど興味は無い。心を動かすのは、月に惑わされた者の方。だから彼は待っている、紅月夜に悩める者が助けを求めて駆け込んでくることを。
一昨日は来なかった。昨夜も音沙汰なしだった。では、今宵はどうだ。そろそろ来るんじゃあないのか――そぞろな心で店主は待つ。必ず来たるだろう待ち人を、人目を忍ぶ真夜中の茶話会の時を。
静寂が支配する空間に、かちり、と時計の針が動く音が異様に深く響く。
暗がりの中、オイルランプと混炉の火を頼りにして、店主は帳面に筆を走らせていた。店に関する帳簿ではなく、私的な日記や手記ですらない、ただ思いついたことをつらつらと綴るための紙束だ。そんな風にとりとめなく書いたものは無価値だが、書くという行動そのものを有意義だと思っている。俗に言う、暇つぶしだ。
びっしりと言葉が連ねられた紙は、これで三ページ目をめくった。没頭しているから、時間の流れにも気がつかない。
そんな最中。閉ざされた世界に風が吹き込んだ。肌をかすめる空気の流れに、亭主はぱたと筆を置いて顔を上げた。
隙間だけ開いたまま驚きに静止している扉が見える。だがそれは、やがてゆっくりと開放された。
ようやく参じた待ち人の姿、しかと確認すると、マスターは爽やかなほほえみを浮かべた。
「待っていたよ、ティーザ。来ると思っていたんだ。月があんなに紅いからね」
来訪者、ティーザ=ディヴィジョンは切れ長の目をわずかに見開いた。そして無言のまま、闇に浮かぶ灯りに誘われるよう歩みを進める。その足取りと共に、長い青髪が揺れた。その手に持つものは何であろうか、黒い布に包まれた物体を、上部を掴むようにぶら下げている。あまり軽いものではなさそうだ。
眼の前に迫る、憂いを潜めた旧知の顔を見ながら、ふと思いついたようにマスターが呟いた。
「どんなお話でも聞くけれど、君まで『悪夢を見るんだ』と言うのはやめてくれよ。さすがに一季の間に三度目となれば飽きが来る」
「……三度目?」
「レインにアメリア。そして君が怖い夢を見たと泣きついて来るなら、三度目だ」
「残念だが違う」
「そうかい。そりゃ、少しだけ残念だな」
亭主は肩を揺らした。
その無駄口を遮るように、客人から携えていた物品が差し出される。強く存在を主張するように音を立て、カウンターに置かれた。
手土産か、変な気をつかわなくていいのに。そう思いながらマスターは手を伸ばして贈り物を掴み、自分の側に寄せると、その場で布包みをほどいた。中から現れたのは瓶、丸底でずんぐりとしていて、上に細く伸びた口にコルク栓がなされている。中身は透明だ。
これは、と思うなり店主は首を傾げた。
「酒、か? はて、君は根っからの甘党じゃあなかったかい」
「もらいものなんだ」
「なるほど。処分に困って持ってきたということか」
「お前も飲むとは思えんが――」
「持てあましたら誰かに回るだろう、ここには様々な人が出入りがするから、といったところかい。うん、その通りだ。でもせっかくだから今開けよう。ティーザ、一杯くらい付き合ってもらうよ。何年ぶりかな、誰かと飲みかわすなんてさ」
はははと軽く笑うマスターと対照的に、ティーザは心底嫌そうな顔をして動きを止めた。ちょうど椅子に座りかけていたのだが、腰を浮かせたまま静止して、ともすればそのまま背を向けて帰ってしまいそうだ。
マスターは腹を抱えながら、大丈夫だ、心配するなと繰り返す。なにも潰すつもりはない、客の嗜好には極力沿わせる。それが店主としての当然の務めだ。
さて、茶会を始める前に、店主には一つだけ済ませておきたい用事があった。
取り出したのは一冊の分厚い本。いつか議論の花を咲かせた、神話の記憶だ。数々の物語をその身に宿す稀代の一品を、マスターは持ち主の前に静かに差し出す。
「これ。読み終わったから持って帰ってくれよ」
「……いいのか? もう戻ってこないものだと思っていたんだが」
「何言ってるんだ、ちゃんと返すに決まっているさ、君のだもの。いらないのなら煮るなり焼くなり好きにすればいい、旨みが出るかはわからないけど。……ところで、あの式は解けたかい? 君ならあるいはと思ったが」
「史上最も聡明とうたわれるものに解けなかった難題が、果たして俺に解けるとでも? 大体、あれは完全じゃないだろうに」
「ほう。それが理解できているのなら、君も十分聡明だ」
頭の回転が良い者、熱心に学ぶ者、物をよく知る者。色々会えども、現状己と同じ土俵で語れるのは、この男くらいだろう。ある意味当然だ、なにせティーザによろずの基礎を教え導いたのは、他ならぬ自分なのだから。
回転式のコルク抜きをくるくると回す。抵抗がどんどんなくなり、静かに栓が引き抜かれた。ふわりと酒精が鼻をつく。あいにく己の識外だから、これがどういうものでとは語れないが、蒸留酒だということは間違いないだろう。銘は入っていないから、それほど上等なものということもなさそうだ。
このまま水割りにしてもよいのだが、それでは面白くない。と、マスターは紅茶を入れ始めた。そも葉揺亭は酒場ではない、茶の店なのである。
茶がじっくり濃さを増す間に、もう一工夫を重ねるべく、冷蔵庫から果物を取り出した。モモとオレンジ、どちらも小ぶりだ。モモはとりあえず皮をむく。ナイフ片手につるつると表面を皮のみはぐ様にしていくさまは、職人芸と言っても差支えない。
じっとその手つきを見ていたティーザが、ぼそりと呟いた。
「店主殿、か」
それはどこか呆れたような色を含んでいた。
「あんたは変わったよ。やっぱり」
「そうかな。僕に言わせてみれば君の方がずっと変わった。昔より頼もしくなったし、それに、そう、笑うようになった。……安心したよ、本当に」
マスターは八つ切りにしたモモをグラスに入れながら、顔を上げた。見えたものは、主の視線から慌てて逃げるように逸らされた、ティーザの難しい顔であった。束ねていない長い髪が、肩甲骨の上で跳ね踊る。
「そんなに照れるんじゃない」
「別にそんなものじゃない。ただ――」
「いいことだよ。人は成長するもの、変わって当たり前なんだから」
酒をグラスに注ぎながら、店主が笑った。そのまま片方には、砂糖水を煮詰めて作ったシロップを入れる。これで甘党向けには十分だろう。そのグラス一杯に、残っている氷を大小取り混ぜて詰める。この上からお茶を注げば、氷もシロップもいい具合に溶けるはずだ。
果たして、マスターの思った通りであった。ポットの口から静かに注がれた紅茶は、氷を小さくしながら、自らは冷えて溜まりゆく。そうして仕上がったのは、モモの果実が中に浮かぶ冷たい紅茶だ。いや、酒と言った方がいいのだろうか。
それにしても、即興で作った割にはなかなかいい感じに仕上がったではないか。炎のゆらめきに照らされるグラスを、マスターはほれぼれと眺めていた。後は、縁にオレンジを飾ってやりもすれば完璧だろう。見た目にもかわいらしくなる。
だが、赤みの強いオレンジの玉に手をかけた時、マスターの耳に声が届いた。縋るような音色にはっとする。ただし、発せられた単語が己の名前だと脳が認識するには、一瞬の間が必要であったが。
ああ、久しぶりに自分の名前を聞いた気がする。致し方ない、周りで知っているのはティーザくらいだ。その彼だって、このところはお前だのあんただの、ぞんざいにしか呼んでくれなかったのだから――いや、問題はそこではない。亭主は視線を上げた。
思った通り、客人は相当参っているらしい。紅い月は魔の月だ、生物の精神を乱し、不安や狂気の種を育てるに長ける。そして彼はとりわけ囚われ易い、生まれ持っての体質ゆえに昔から。少し俯き気味の青い目は、壊れてしまいそうなくらい弱々しい、いつもなら見る者を怯ませるような鋭さを持っているのに。こういう悲しげな目は、困ったことに面したアメリアがよく見せる。
店主は慌てて作りかけを完成させると、それをカウンターの向こうへ渡した。そして、自分も客席の側へと移動する。「マスター」ではない自分と話したがっているのに、カウンター越しでやりとりするのは、いささかお門違いであろう。
ティーザの右隣に座ると、男はまずグラスを傾けた。酒など久方ぶりに飲む、喉がかっと焼けた気がした。酒類特有の苦みと紅茶の渋みが舌を刺す、だがそれでこそ果実の活き活きとした味が引き立つと言うものだ。
そして息をつき、彼は自嘲気味に笑った。
「月光を肴に、友と語らい、上等な酒を飲む、か。世の深淵まで堕ち大罪を犯したこの身には、少々贅沢過ぎる趣向だよ」
相手の出方を伺う。が、含蓄を持たせた割に反応は薄い。普段なら、皮肉がかった返答が期待できるのだが。つまらないが、想定内だ。
気を取り直して、主たる男は体を隣に向けた。
「それで、どうしたんだ。今度は一体、何がおまえの心を痛めつける。何を迷い、何を悩む」
返答はない。零れ落ちた髪が、横顔を覆い隠してしまう。
不安の種は、言えない事なのか。そう聞けば、そうだと頷く。言えないし、言わないと。そうしてティーザは、グラスを手に取った。
氷がからりと音を立てる。その水面を眺めながら、彼は心のよどみを絞り出すようにして、ひそやかな声に乗せた。
「考える程に……恐ろしくなる」
「未来が? 現在が? それとも過去につけてきた跡がか?」
「強いて言うなら、全て。俺の存在そのものが恐ろしい。自分が引き裂かれるような。心と体がばらばらになる。思ったように体が動かない。思っても居ない風に動く。その内、何も考えられなくなって、何もできなくなる。何度も何度もそんな感覚が襲ってきても、まだ慣れない。そうしているうちにわけがわからなくなって、俺は、きっとまた、とんでもないことをする。俺は……許されざる存在だから」
ティーザは自嘲的な音と共に息をついて、弄んでいたグラスをようやく傾けた。
彼には憐れむ視線が向けられていた。自己の否定、それが悪戯に己を苦しめていると、彼を育んできた男はよくわかっていた。
硝子のような心についた傷が根本的に消えることはない。傷が見えぬように磨き上げてやったとしても、相応の時間と手間はかかる上、元と同じにはならない。いや、傷ならまだ幾分ましだ。後にマスターと呼ばれる男が見つけた硝子玉は、最初から見る影も無く粉々の状態だったのだから。
忘れようにも忘れられない。薄暗い空間に落ちていたのは、心の無い人形だった。誰に愛されることも無く、生み落とした者からも見捨てられ、壊れた玩具のように転がされていた姿。鉄のにおいと生臭いにおいが充満する空間で、瞬き一つせず虚空を仰ぐその眼には、ただ無のみが映っていた。
男の心が痛む。沈黙が肌に刺さる。生きながらにして死んでいるような状態だった、そんな彼が一人の人間として生きる道を導くのには苦心した。だが、結局駄目だったのだ。自分では完全に救うことはできなかった。その結果、未だにティーザは苦しんでいる。支えきれなかったこと、悔やんでいないといったら、嘘になる。
それでも、ティーザはこうして己を頼って来てくれた。慕う相手として心を開き、助けてくれと求めて来た。ならばそれに応え、諭し、慰め、道を示すのが、一度でも身命を引き受けた者の役目だろう。
「……知っているか。あの紅い月が何なのか」
問いかけられたティーザは、怪訝な面持で主を見た。そして、首を横に振る。
にっと亭主は笑った。
「あれは、太古に封じられた地上の邪神たちのなれの果てなのだよ。イオニアンに邪悪をもたらした許されざるものとして、地上から葬られた存在の集合体だ。紅い光は、封印から漏れ出る彼の者たちの邪悪な力が可視化されたもの」
「……それをお前が言うなら、真実なのだろうな」
「盲信ありがとう。だが、私が語りたいのはそういうことではない。わからないかい?」
別に月の正体を議論するつもりはない。回りくどさを取り払い、もう一度伝える。同じことを何度か言い聞かせたことがある気がするが、何度でも構わない。響くまで繰り返すだけだ。
「イオニアンの地は、神々は、一人の人間としてのおまえの存在を許した。だからおまえが自己の存在を罪と思う必要は無い。おまえは自分が思うがまま、好きに生きればよいのだよ」
誰が何と言おうとも、今地上に生きているということはそういうことだ。存在することすら許されない生命など、一つも無いのだから。
「生きる、か。だが――」
「勘弁してくれ、今この場でおまえと生と死の在りかたを議論するつもりはない。そんなことを始めたら、暦が一周しても終わらないぞ」
男は苦笑しながら肩をすくめた。議論はしないつもりだ、迷い悩む者を導くことが今宵の課題であり注文品でもある。
あいにく心を読む術はもっていなかった。だが、類推することは出来る。きっと、彼は何か重大な決定をしなければならないのだ。それを迷っている内に、自分自身に懐疑的になり、結果、壊れかけた。
ならば、己が語るべきことは。主は手元の杯で口を潤おすと、丁寧な口調で語り始めた。適当に飲みながら聞け、そう伝えて。
「細い境界線上を歩く。白黒つかない灰色を進む。あらゆることをあやふやにしたまま時を過ごすというものは、思う以上に苦しいものだ。終わりも目的もわからないまま、一歩先すら見えない霧の中を彷徨うようなものなんだから。不安を払うなら、確固たる決意をすることが一番だ。進む場所を決め、道筋を明らかにしておく。そうすれば万が一迷ったとしても、何もないよりずっと気楽さ。向かう先は分かっているのだからね、がむしゃらにそこを目指せばいい」
「それが、誰かが用意した道でも?」
「その道を選んだのは、他ならぬ自分だろう。既に敷かれている道が嫌なら、自分で新しく切り開けばいい。別に、道なき道を走ったっていい。何も難しく考える必要は無いさ」
「……それが、大事なものを壊しかねない茨の道でも?」
滑らかに語っていた舌が固まり、黒い双眸の向く先が、ティーザの視線とかち合った。ランプの灯火が瞳に揺れる。
「仮の話だ」
付け加えられた音は無機質。ティーザは、そっとグラスに口をつけた。
何気なく己の黒い髪を指でときながら、しかし、男は他愛も無いとばかりに答えた。はっきりと、相手の目を真っ直ぐ捉えて。
「何をそんなに迷っているのかは知らないが。どういう選択をするかはおまえ次第、そして、その先の事を背負うのもおまえだ。だが、おまえが選んだ道がいかなるものであろうとも、私は喜んで送り出そう。例えそれが、私を破滅に導くものだったとしても。それがおまえが考えた末の結果なら、全て受け入れよう。私にしてやれるのは、それくらいだ」
口角をつり上げる主を前に、ティーザは唇を噛みしめた。慌てて目を逸らして、瞼を手で押さえるようにする。流れた髪が、再度横顔を覆い隠した。
「何で、あんたはそんなに優しい……」
「優しいか? 私は。とてもそうは思わないが」
「そう思ってるのは、自分だけだ。そうじゃなかったら、なんでここに来る人は、あんなに楽しそうなんだ。アメリアだって、何であんなに幸せそうなんだ」
「みなが慕うのは、あくまでも『葉揺亭のマスター』としての私だ。優しい仮面を被った、な」
ひどい人間だよ、と男は自嘲した。憎まれても仕方がない、蔑まれても仕方がない、恐れられても仕方がない、見放されても仕方がない。「マスター」になる以前は、それだけのことをしてきた。古くかび臭い記憶は、背負った罪は、いくら上からかぶせものをしても消えることが無い。本当の自分は、鍵のかかった箱の底に封じ込めて隠してあるだけだ。
「マスター」の仮面の裏にあるものを、ティーザはよく知っているはずだ。それでよく、優しいと評せたものだ。男は純粋に戸惑っていた。なぜどこに彼はそう感じたか、根源を具象化するならば。
「親心、というものだろうか。おまえが優しいというものの正体は。私でも人並みに心配するんだ、育てた子が立派に巣立つかどうか」
返事は無かった。代わりに空気をすするような音が、不定律に響いていた。
やれやれとばかりに亭主は息を吐き出した。頬杖をついて、隣の青年を眺める。顔つきはすっかり男前になった、が、昔の純朴でかわいらしかったころの面影は消えていない。
「全く。昔みたいに泣いてみるか? 感情の赴くままに、全てを吐き出すのも悪くない。ここなら誰も見ていないし、聞いてもいないさ」
「……そんなことした覚えは、ない」
「さすがにそうか、昔のことだし、おまえも幼かった。……長いお出かけから帰るなり、いきなり胸に飛び込んできて。一体何事かと思ったら、わけも言わずにわんわん泣き出して……あれが初めてだったな。おまえの涙を見たのは」
素直で繊細な子だった。今、アメリアと一緒に居ると、昔時が思い出されて仕方がない。最も、彼女ほど感情豊かではなかったから、泣き顔を見た時も、どこか嬉しかったものだ。
やたら強がるようになったのは、そうできる一人前になったということだろう。だが、育ての親としては、どこか寂しいものがある。
ふっと男は寂寥感を紛らわせるように笑って、そして酒を飲み、語る。
「長い髪はいい、顔を隠してくれるから。……そう言えば、私も長くしていたな」
「知っている。編んでいただろうが、アメリアみたいに」
「なんだ、覚えているじゃないか。そう、ちょうどおまえと一緒に居た時分だ」
「……意地悪な人だ」
「だから言っただろう? ひどい人間だって」
首を捻って恨めしい顔を見せるティーザに、余裕と愛に満ちた笑みを見せた。すると、ぷいと彼はそっぽを向いてしまう。やけになったように、グラスの中身を一息に飲みほした。
丸まった背中に、今度は真剣に声をかける。
「……強がっているだけでは、いつか耐え切れずに壊れてしまうよ。たまには吐き出せ。激情をぶつける先が欲しいなら、いつでも相手になってやる」
椅子を動かして、隣に寄り添う。そして手を背中に伸ばした。
優しく擦るように動かす。薄い肉付きの体は、裏を返せば無駄が無いということだ。しなやかに引き締った筋肉を備えた背は、伸ばせば頼もしく見えるだろう、しかし今は、ただただ細く弱々しい。そして、愛おしいかった。
「だが……俺は……もう……。泣いていいのは、子どもと――」
「子どもだ。お前の心の奥底は、まだまだ子どものそれだ。だから無理をするな、他人を頼れ」
「でも、俺は一体、何年……」
「己を責めるな、苦しいだけだ。心が未熟なのはおまえのせいではない。……親が悪かったな。生んだ方も、育てた方も」
そう言って、育ての親は立ち上がった。そして静かに涙をこぼす幼子の頭を胸にかき抱いた。
彼がむせび泣く音が、胸に心臓に直接響く。あやすように青い髪を撫でた。抱き留めた彼の感触は、昔時より何も変わっていない。
紅い闇夜に嗚咽が響く。だが、一人を除いてそれを聞くものはいない。耳無き道具は己の役を果たすのみだ。ランプは闇を照らし、時計の針はゆるやかに時を刻んで。
やがて、ティーザの掠れた声が響いた。
「俺は、わかっている。ここに来るべきではない。あんたを追い詰めることになる。わかっているんだ、それでも――」
「そんなことを気にしていたのか? 我が身が滅ぶのを恐れているのならば、そも、こんなことをしているわけがなかろうに。考えればすぐわかるだろう」
追われているのだ、客には、アメリアにさえも告げたことはないが。その上、自分のことを追っている相手は一人ではない。各方面が各々の理由で、この魂を葬り去らんと執拗に狙っている。過去に残した罪を清算させるために。
それでも、葉揺亭の主は不敵に笑った。
「迷惑? 破滅? 罪を咎められるを恐れるか? それとも闇に染まるを恐れるや? いや、そんなものより、私にはもっと恐ろしいものがある。……孤独だ」
この夜が明ければ朝が来る。いつものように宿屋の男が新聞片手にやってきて、愛しのアメリアが自分の隣に寄り添うだろう。それから、大商会の会長秘書が妙な話を持ち込むかもしれないし、異能者ギルドの少年が犬猿の仲の友人の愚痴を吐きに来るかもしれない。そう、必ず自分の隣に誰かが居る。そうした日常が、人並みの幸せが、そしてそれがあるこの葉揺亭が、マスターにとってはかけがえのない宝物だ。何に代えても手放せない、一番の。
そしてもちろん旧き親類の登場も、その日常のささやかな起伏の一つである。拒む理由は無い。
「いつでも安心して訪ねてこい、ティーザ。私は、サベオル=アルクスローザは、おまえのことを待っているのだから」
それが町が眠る夜更けだったとしても、喜んで受け入れよう。葉揺亭の扉はいついかなる来訪客をも拒みはしない、そして客人が望むものを提供するのみだから。
「もう一杯飲むか? 世の人は、酒の力で嫌なことを忘れるという。そういう物に頼るのも、上手く生きる手段かもね」
「……勘弁してくれ。いつものでいい」
「なんだ、面白くないなあ。まあ、普段通りというのは、安心でもあるからね」
そう言い残して、男はカウンターに舞い戻った。
マスターは二つの飲み物を用意する。一つは温かくて甘くて優しいお茶。もう一つは、先ほど飲んで気に入った今夜の特別なお茶。少々酒を強めてみる、今宵は特別だ。まだまだ話したいことはたくさんある、今日はとことん愉しく喋るのだ。
紅い月夜が明けるのは、まだしばらく先のこと。小さな茶話会は、尽きるを知らない。
葉揺亭スペシャルメニュー
「蒸留酒の紅茶割り。モモ果実添え」
冷たい紅茶で割った酒。茶は濃い目に作ることが重要。薄いと氷が溶けるし、酒の匂いに完全に負けてしまう。もし濃すぎたなら水や炭酸水で伸ばしても問題ないだろう。
果実を加えれば当然その味が乗るが、それでも飲みづらいと思うなら、シロップなどで甘さを増してもいい。
必ずよく混ぜてから召し上がれ




