夢幻に誘う紅い月
町を夜の帳が覆った。世界は静けさに包まれ、かつ薄らと紅く染まっている。空に煌々と輝く紅い月によって。
葉揺亭の二階の窓から、一人の少女がその月を眺めていた。妖しく輝くあの月は、今日は一際明るい気がする。そう、一際、美しい。取り憑かれたようにじっと、月に向かって目を見張る。そんな彼女の青い目には、紅い光が映りこみ、星になっていた。
やがて月見にも満足して、少女アメリアはベッドに潜った。静かに目を伏せると、すぐに睡魔が襲ってくる。月明かりが照らす部屋の中、彼女はあっさりと意識を手放した。
誰かに呼び起こされたように、ふっと脳が覚醒した。ゆっくりまぶたを開くが、部屋は眠った時と同じで暗く静かだ。まだ真夜中である。
布団をかぶり、再び眠りにつこうとする。しばらく努力したが、すっかり眼が冴えてしまっていて上手くいかない。
しかたない、とアメリアは上体を起こした。編み癖でウェーブのかかったブロンドは、寝ている間に更に乱れている。それを手で軽くときほぐしながら、窓の外を見た。やはり何も変わったことはない。紅色の月明かりに包まれた世界が広がっているのみ。
ふと喉の渇きを覚えた。あいにく自室に水差しを持ち込んでいない。アメリアはベッドから抜け出して、部屋の外へ向かった。下に行って水を飲もう、と。
部屋から出てすぐに階段がある。階段には小さな光源石の足下灯が取り付けられてあり、段が見えるようになっている。真夜中に移動する必要が出た時に、アメリアが階段を踏み外して転げ落ちないように、とのマスターの配慮だ。
極力足音をたてないように階段を降りきって、廊下を進み店の方へ。一階は真っ暗だが、いつも過ごす空間だから記憶だけでどうとでもなる。真っ直ぐ進んだ左側にマスターの私室があり、その次に右側に現れるのが店に続く扉だ。
ちょうどマスターの部屋の前を通りかかった時。暗闇の中に違和感を覚え、アメリアは足を止めた。空気の流れを肌に感じる。廊下の先ではなく、主の部屋の方から。かの扉は四六時中閉ざされているはずなのに。
夜に目を凝らす。すると、いつもは閉まっている扉が開いているではないか。ちょうどつま先一つ分のわずかな隙間であるが、開いていることには変わらない。
アメリアは吸い寄せられるように扉に手を伸ばした。以前、マスターが体調を悪くした時に、大切な引き出しに鍵をかけ忘れて大騒ぎをしたことがあった。あの時と同じで、また具合を悪くしてドアも開けっ放しで倒れているのではないか。心配である。
「マスター?」
呼びかけながら扉を開放する。
その向こうにあったのはただの暗闇だった。いや、ただの闇ではない。歩いてきた夜闇よりももっと黒くて深い闇。黒の中に黒が浮いているようにすら見える。
アメリアは目を丸くして呆然と立っていた。その頬を中から流れ出てくる微風が撫でる。
――これは、どういうこと?
ここには部屋があるべきだ。それなのに、これはまるで、延々と続く通路のよう。
「……マスター?」
呼びかけても返事はない。
アメリアはそっと暗闇に足を踏み出した。不思議な気分だ。好奇心や勇気が勝っているわけでもなく、しかし怖いという感情もなく、強いて言うなら誰かに呼ばれているような、磁石に引き寄せられるような感覚だ。
どれだけ歩いても漆黒の空間が続くばかり。先どころか自分の足元も見えない暗闇だ。無心で、前へ、先へ、深みへ。
突然なにかにつまづき、転んだ。前に出していた右腕を床に強打し、ぎゃんと悲鳴を上げる。
アメリアはへたりこんだまま、痛みに襲われる腕をしばらくさすっていた。ちゃんと動くし、折れたり挫いたりはしていない。ただ青あざができたくらいだ。とはいえそれがひどく痛々しい見た目、ワンピースを着ても隠れない場所だし、人から見た時にも派手な怪我だと思われそうな有様だ。自分の腕の様子をまじまじと見て、吐息を漏らした。
「えっ」
彼女は己の状況を鑑みて肩を震わせた。どうして怪我の様子が見えるのだ。こんなに暗くて、さっきまで足の先も見えなかった、だから転んだのに。
意識した途端に、誰かが照明を灯したように周りが明るくなった。
アメリアは四方に首を振った。数多の巨大水晶に囲まれている。自分の体よりずっと大きな水晶が宙に浮くように、周囲にそして延々と遠くまできらめき、幻想的な世界をつくりあげている。その輝石には木の根っこのようなものが這っている。太く強固な印象だが、灰色で生気が感じられない。つまづいたのも、この根っこだったようだ。
水晶の中に影がある。中に何か入っているのだろうか、そういう宝石があると聞いたこともある。期待して注視したアメリアは、しかしすぐに息を飲んだ。
人間だ。水晶の中に閉じ込められているのは、人の形をしたものであった。
また周りを見回す。よくよく見れば、浮かぶ水晶のすべてがそう、中に誰かが居る。誰一人として動きはしない、だが気持ち悪いほどにくっきりと影が浮かんでいる。
なんだ、なんだこれは。心臓を激しく波打たせながら、アメリアは一番近くにある結晶へと近寄った。ちょうど自分と同じ高さにある。
近づくとよくわかる。中に居るのは女の人、いや女の子と言ったほうがいいだろう。柔らかい身体の線をありありと見せた一糸まとわぬ姿で、色の無い長い髪を拡げたまま、身を縮めるように固まっている。
下から覗きこめば顔が見える。思うなりアメリアは片膝をつき実行した。
瞬間、全身を冷たいものが駆け抜けた。心臓もが凍り付いた気がした。
見えたのは自分の顔だった。他ならぬアメリア=ジャスミナンの顔が、水晶の中のその人にもついている。眠っているように目を閉じているが間違いない、自分の顔を見間違えようものか。思えば、年頃合いも同じだ。髪の毛の長さも、三つ編みを解いた今の髪形も同じ。色が無いように見えたのは光の加減のせいだったか、水晶の中の彼女もブロンドの髪だ。
頭からは血の気が失せ、口の中はからからに干からびる。それで状況を一生懸命飲みこもうとしても、それは出来ぬ話。
恐ろしい空想に囚われた。私は私でなくて、本当は眠っているのが私、本物のアメリアだ。認識した途端、自分の存在があやふやになって、そのまま分解され闇に溶けていく。思い出もなにもかも一緒に。そうして自分が居なくなる代わりに、水晶の中から新しい本物の自分が生まれる。そのアメリアは何食わぬ顔で葉揺亭に立ち、マスターに目一杯かわいがられ楽しく暮らしていく。今まで私が築いてきたものすべてを乗っ取って。
――嫌、違う、私はいらない子なんかじゃない!
アメリアは泣きそうになっていた。しかも、自分の代替品は一人どころではなく、もっとたくさんいる。視界に見える限りの水晶にも全部人が入っている。同じ大きさで、同じ姿かたちで、同じポーズの女の子が。きっと後ろを向いても同じだと、アメリアは蒼白な顔で後ろを振り返った。
するとそこには、水晶の光を背にぽっかりと浮かぶ黒い闇があった。さっきまでなかったのに。
アメリアは驚いて悲鳴をあげ後ろに体を崩し、勢いよく尻餅をついた。
黒は人の形をしていた。闇に浮かぶ、闇より深き漆黒の人影。アメリアの頭をよぎったのは、レインの人形だ。人形劇で何度も見た悪い魔法使い、レインが壊した黒の魔法使いの人形。フードをかぶり裾の長いローブを着たシルエットは、あれと瓜二つだ。
だが、今目の前にいるものは、心を持った人形なんかよりもっと恐ろしいなにか。何故かその確信があり、自然と体が震え出す。
目深にフードをかぶっているその人は、腰を抜かしているアメリアに近寄ってくる。堂々として悠々とした歩みだ。歩く姿はよく知っている誰かを彷彿とさせる。
――いやっ、嘘、全然違う!
アメリアは己の頭をよぎった影を否定した。目の前の黒い人はただただ恐怖の塊でしかない、優しさに溢れるあの人とは違う。一緒なんかじゃない、絶対に。
冷たい足音が鳴り響く。それから逃げるようにアメリアは後ずさった。が、すぐに背中が冷たいものにぶつかる。見るまでもない、水晶だ。もはや振り返ってみる勇気がない。水晶の中の自分が青い目を覗かせて、こちらを睨んでいる気がするから。
もう逃げられない。ローブの人が、男が、目の前に立った。すうっと腕を広げる。すると風が無いのにローブがぶわっと広がった。勢いよくはためくそれは、あるいは悪魔が翼を広げたようにも見える。フードも変形して角が生えたかのよう。
アメリアは涙のたまった目でそれを見上げていた。
自分を見下ろすフードの端から、輪郭の一部が覗いている。なぜだ、それは実によく見知った形をしている。――認めたくない。アメリアは目を閉ざした。
すると今度は息遣いが聞こえる。それはすぐに呪詛を発する声になった。身の毛がよだつ重く苦しい声、しかし知っている声だ。――嫌だ、聞きたくない。アメリアは両手で耳を塞いだ。
しかし彼の声は遮られることなく神経に刺さる。目を閉じているはずなのに、悪意に歪んでにやにやと笑う彼の顔が映像として浮かぶ。
「嫌、やめて……マスター!」
悲痛な叫びを闇に虚しく響かせた。
その瞬間、雷に打たれたかのような衝撃が全身を走り、視界は紅い光に包まれた。
「痛っ!」
どんと全身に響いた衝撃に、アメリアは声をあげた。
ゆっくりと目を開けると、月明かりに照らされた冷たい床が自分を歓迎してくれていた。隣にはベッドの脚が見える、どうやら落下したようだ。右半身が、特に体の下敷きになっている腕が痛い。
むすっとした顔で身を起こしベッドに腰かける。妙に体が冷える。それで自分が汗だくなことに気が付いた。
おもむろに髪をとかしながら、ふと窓の外を眺めた。紅月の光が不気味に満ちあふれている、薄ら明るい夜の町が広がっている。
ついで部屋の中を見渡しても、眠りについた時と変わったことは一つもない。
アメリアは安堵の息を漏らした。さっきのは夢だったんだ。ほんとうにひどい夢だった、無事に目が覚めてくれて良かった、と。
「変な夢」
繰り返すのは自分に言い聞かせるため。あまりにも記憶が明瞭すぎて、夢だ夢だと言わなければ、あれが現実のような気がしてしまう。永遠の暗闇、おぞましい水晶、そして――末恐ろしい光景を思い出してアメリアは身震いした。
ベッドから落ちて傷めた右腕を癒すように撫でる。改めて見ると青あざができてしまっている。そう言えば夢の中でも同じところを怪我した、不思議な一致だ。
と。急に不安が襲って来た。
――あれは、それとも、夢じゃなかった?
ぞわっと背中を冷たいものが撫でた。恐ろしい妄想が再びアメリアの頭を支配した。マスターが頑なに扉を閉ざす理由。あの扉の向こうは、マスターは本当は人間ではないのかもしれない。
「確かめないと」
一人震えていても仕方がない。真実を確かめるべく、夢と同じようにアメリアは部屋の外に出た。
廊下も階段も闇に包まれている。先ほど見たのと何ら変わらない光景だ。だが、葉揺亭は自分の家だ、恐れる必要はない。
アメリアは階下に降り、おそるおそる足を進める。大丈夫だと自分に言い聞かせても、足がすくんでしかたない。何でもないいつもの夜の闇が、今日は何と恐ろしいものか。
暗い廊下を歩いて、マスターの部屋の前に辿り着いた。そして、アメリアは全身の力が抜けたように壁にもたれかかった。
扉は、閉まっていた。いつも通りだ。廊下の空気のよどみも、決して少女を招き入れない謎の部屋の入り口も。
ならば、きっと中に居るのは。アメリアは主人の部屋のドアを、静かに叩いた。
返事は無い。アメリアの顔が曇る。だが、今が真夜中だと言うことを思いだして、合点が言った。普通なら眠っている時間だ、返事が無くて当たり前。
ぼんやりと立っていると、部屋の中から微かに音が聞こえた。続けて、足音が聞こえて、扉がゆっくりと開く。
ちょうどつま先分できた隙間から覗いた主の顔は、妙な時間の訪問客に、驚きの色を隠せないでいた。
「……アメリア。どうした? こんな時間に」
眉を下げながらも、彼は扉を大きく開け放ってくれる。燕尾のベストは着ておらず、襟のある白いシャツ一枚の姿だ。しかし、紛れもなく、アメリアの良く知るマスターその人に違いない。
――ああ、良かった! 夢だったんだ! あの寒々とした空間も、あの得体のしれない黒衣の存在も、全て嘘だった。アメリアの目に、こらえていた涙が溢れた。まるで母親の庇護を求める幼子のように、彼女は戸惑っているマスターの胸に飛び込んだ。
「私、私!」
「……怖い夢でも見たのかい?」
アメリアは、主人の胸板に頭をすり付けるように、何度も首を縦に動かした。むせび泣きながら縋り付く腕に力を込める。すると、マスターの腕も優しくアメリアを抱き留めてくれた。
大丈夫だと安心を保証させる声が響く。その声が、この温もりが、何よりも嬉しい。胸にこもった不安を吐き出すように、アメリアは泣いた。
しばらく入口でべそをかいて、少し落ち着いた。その頃合いを見計らったようで、マスターが肩を抱きながら、アメリアを誘う。
「おはいり」
そしてそのまま、ほのかな灯りに包まれた、亭主の部屋へと招き入れられたのだった。
初めて訪れたマスターの私室。天井からつるされたランプが、炎の灯りで室内を照らしている。光源石の照明よりずっと暗いが、温かみはこちらの方が上だ。
アメリアは真っ赤な目で、どこか呆けたように部屋を見渡していた。なんだか現実感がない部屋だ、と。
まず壁がほとんど見えない。書棚や、道具棚や、机や、とにかく使える空間は使いきれとばかりに家具が並んでいた。部屋の隅にあるベッドの上方にすら木棚が張り出している有様だ。おかげで随分圧迫感がある空間に仕上がっている。
そのうえ尋常でないほど雑然としている。普段の店の清潔感からは想像ができない状態だ。書斎机の上には書物や謎の道具がとっ散らかっているし、椅子には脱いだベストが乱雑に引っかけられている。棚に入りきらないせいだろう、分厚い本は床にうずたかく積まれて、崩壊寸前の塔を形成していた。しかもそれが何本もある。
意外だった。私室の整理が公の場より多少甘いのは理解できるが、いくらなんでもこれはひどすぎる。はっきり言って汚い。そんな正直な感想が、思わず声に出てしまった。
すると聞いたマスターはむくれた。
「だから君を入れたくないんだよ」
いわく、自室はこれくらいごちゃついていた方が落ち着くのだと。アメリアにはまるで理解できない心理だった。今だって、溢れている本を整理したいし、適当に物が突っ込まれている棚を整頓したい。そんな心を匂わせてマスターをじっと睨んでみたが、ものの見事に無視される。
マスターはベッドに向かった。その上に散らかっていた書物や着替えなどを適当に床へ退けて、空いたベッドに腰掛けるようアメリアを促した。
そして自分は一旦部屋を出る。
どこに行ったのだろうかと思ったら、すぐに戻って来た。手にはティーポットとカップが二つ、それと三枚重ねたソーサー、一番上にはハーブも乗っている。指で器用に引っかけていたそれらを、書斎机の上に置いた。
机上には小ぶりのオイルランプが赤々と燃えている。剥き出しの炎が、三脚の上に乗せられた小さなポットを温めていた。凝った意匠の施された、短い足つきの銅製ポットだ。細く長い首先から、静かに蒸気を吹き出している。
マスターは慣れた手つきでお茶を用意する。漂って来た香りは、アメリアの記憶にも残っているものだった。これはそう、レインが眠れないと嘆いていた時に出したもの。ただひとつ違うのは、あの時はミルクで煮だしたのに対し、今はお湯で淹れているという点だ。こればかりは仕方ない、煮出すのには時間がかかるから。
手早く用意されたカモマイルのハーブティは、二つのカップに分けて注がれ、一つがソーサーとセットでアメリアの手に渡る。そしてもう一つのカップを持ったマスターは、安楽椅子に腰をかけアメリアに対面した。
アメリアはソーサーを両手でしかと掴む。上に乗ったカップがかたかたと揺れ、淡い色のハーブティーをさざ波立たせる。
「すごく怖かったんです。私が、私じゃなくて、たくさんいて……! わけがわからなくて、なんてお話したらいいのかも、わからないんですけど」
「大丈夫。思うように話してごらん。一体なにがそんなに恐ろしかったんだい?」
ゆらめく灯りに照らされる主の顔は、声は、優しく頼もしかった。それが恐ろしい妄想の中の暗い影を白く塗り替えていく。このまま不安の種を吐き出せば、この人はそれも白く枯らしてくれるだろう。
「私と同じ顔をした人がたくさんいて、みんな水晶の中で眠っていて。本当はその中の誰かが本物の私で、今の私は偽物じゃないのかって、そんな気がして怖くなって。私はやっぱり要らない子で、水晶の中の人と交換させられてしまう。そう思って……私は……」
「君の代わりはどこにもいない。僕が愛するアメリアという人間は君ただ一人だけだ。どんなにそっくりの紛い物が出て来たって、僕はそれを認めない。本物の君を取り返しに行くさ」
優しく静かに断ずる声が暗い妄執を一つ打ち砕いた。だが、一つだけではない。
「真っ黒の悪魔が出てきたんです」
「悪魔?」
「そのお顔を見たら、マスターの顔をしてて。声もマスターので。それが襲いかかって来たから、私はマスターが悪魔なんだと思って……!」
思い出すとまたぞっとする。アメリアは熱に縋るようにカップを手に取り、カモマイルの茶を口に含んだ。ふわりと鼻に抜ける花の香りが、いくぶん気持ちを落ち着ける。
そんなアメリアに対し、マスターが眉を下げて言った。
「ごめんねアメリア。昼間に少し脅かし過ぎてしまったね。そんなに恐怖を引きずるとは思わなくて」
「……マスターは、悪魔じゃないですよね」
「うん。僕はこの通り人間だ。それを証明するのは難しいけれど、僕を信じてくれと言ったら、信じてくれるかい?」
アメリアはこの上なく大きく首を縦に振った。疑うはずがない、マスターがどういう人なのか、親のことよりよく知っている。
マスターは慈愛の笑みを浮かべた。そして静かに命じた。
「君が見たものは全部悪い夢だ。そんなもの、すべて忘れてしまいなさい」
アメリアは涙で汚れた顔を拭いながら、笑顔でうなずいた。少し冷めたカップのお茶を飲む。包み込むような、優しい香りが体に染み入った。
もとより夢の記憶など、時間の流れと共におぼろげになっていくものだ。埃っぽい部屋で暖かい空気に包まれて、暗い幻影は既に鳴りを潜めていた。断片的に明滅する光景は、闇、水晶、そして光。鮮烈な紅い光。それだけは、鮮明こびりついていた。
紅。ふと、アメリアは亭主に投げかけた。
「私、月を見ていたんです。なんだか、いつもより明るい気がして」
紅い光だ、月光だ。美しく妖しく空から降り注ぎ、眩しさこそないが、網膜に焼き付いたような印象だ。
マスターは眉を上げた。それだ、アメリアに指を向けながら呟く。
「紅い月は魔の月だ。この世のものと相容れることなき、異質な光源。人でありたいと願うなら、決して魅入られることなかれ。さもなくば、この世の深淵に招かれてしまうから」
詩のように語ると、マスターは手にしていたカップを傾けた。口を潤おして、今度は眉を下げて、アメリアに諭しかける。
「でも、それだけじゃない。君は最近、火遊びが過ぎる。好奇心を持つのはいいことだが、もう少し、警戒心を持った方がいい」
またそれか、とアメリアは口を尖らせた。何とは明言しないが、魔法とクシネのことだとはすぐにわかる。関係あるのかと問えば、亭主は真剣な面持ちで、大いにあると答えた。
「魔法が影響を与える範囲は、何も物に限らない。精神、すなわち心にも浸透する。魔術の攻撃により疲弊した心が、悪夢と言う名の幻影を創り出した」
「じゃあ、マスターは、クシネちゃんが悪意を持ってるって言うんですか!?」
「そういうわけじゃない。あれは、使い手の意志とは関係ない部分もあるから。……まあ、今回は色々、不都合な要因が重なってしまったのさ。紅い月に惑わされるものは、君だけということもないし」
「……誰もが、なるんですか?」
「ああ、そうさ。誰しも、とまでは言えないが、心当たりは何人もいる」
そういって、マスターは目を細めた。
しばらくの静寂が訪れた後、亭主がすっと立ち上がった。空気の流れで、ランプの灯火がゆらめく。それは、月の光よりも、ずっと優しく温かい。
彼は寝台の脇の小卓にあった一際分厚い書物を取りにきた。そして、歩み寄りざまにアメリアに笑い掛ける。
「今夜はここで眠りなさい。その方が安心だろう?」
アメリアは素直にうなずいた。さすがに今宵、月の光が差し込む自室で、また一人で眠れる気がしない。
いや、そもそも、すっかり目が冴えてしまっているのだから、眠りにつくことすら困難だ。それを正直に伝えると、マスターは困ったように微笑した。
「さもありなん。……だが、無理にでも眠った方がいいな。少し、脳を休めた方が身のためだ」
と言って、マスターはアメリアのカップを取り上げた。そして、残してあったポットに湯を差して、ちょうど飲みやすい温度のハーブティを注ぎ足した。
それだけでは終わらない。天井まで届く木目の棚の前に立ち、さその中に作られている四角い戸棚の扉を開いた。その中に差し並べて納められていた硝子の管を一本抜き出す。綿とコルクで栓された、成人男性の指の太さの管のなかには、半透明の結晶が輝いている。ちょうど、小指の爪ぐらいの大きさだ。マスターはその結晶体を一粒取り出し、お茶の入ったカップの中に落とした。
そして、カップはアメリアに手渡された。
アメリアは怪訝な顔でカップを見つめた。温かな湯の中で、きらめく粒はみるみるうちに崩壊していく。色や匂いに変わったところは無い。
一体これは何だと、隣に腰を下ろしたマスターに問いかけた。
「夢見をよくするおまじない。大丈夫、危なくはないから」
要するに、お得意の魔法の薬なのだな。それはアメリアにも察しがついた。
実際その通りで、あの結晶体はいわば催眠薬。もちろん亭主自ら調整したものだ。一粒服用すれば、すぐに眠気を誘う。ただ、夢見を良くするどころか、夢を見る余地も無いほど深い眠りに落ちるのだが。そこまではマスターは語らなかった。
怪しんでいるアメリアに、もう一度、大丈夫だ怖くないと声がかかる。マスターが言うことなら、と、アメリアは恐る恐るカップに口をつけた。
味は全然変わらない。喉ごしが少しほこりっぽい気がするが、それくらいだ。なによりちょうど飲みやすい温度だったのを良しとして、素直に一杯飲んでしまった。
体が芯から温まり、ふわりと宙に浮くような心地がした。そして瞼が、頭が、一気に重くなる。思わず、アメリアはマスターに寄り掛かった。そしてそのまま、膝に枕する。拒まれることなく、むしろ愛おしげな手が、少女の頭を優しくなでた。
「おやすみ、僕のアメリア」
たゆたう意識の中に、マスターの優しい声が響いた。
――ああ、温かいな。そんな穏やかな気持ちのまま、少女は再び眠りについたのだった。その顔に、悪夢の影は微塵もない。朝、目が覚めたら、いつもの明るい笑顔が戻っていることだろう。夢は忘れてこそ夢であるのだから。
葉揺亭 秘密の魔法茶
「とにかく眠りたい時に」
ベースになる茶はカモマイルなど安眠効果のあるハーブティを基本に。
ややぬるめに冷ました茶に、催眠効果のある魔法結晶を溶かし込む。味、香りはほとんど変わらない。ただし、熱湯に溶かすとカビ臭さが現れるので注意。
使った魔法結晶は、『紫つる草』『眠り花』など、精神作用・鎮静効果の高い材料を基本に十数種類の草花・鉱石から調合した睡眠薬。水溶することで完成し、服用すると間もなく深い眠りに落ちる。
副作用は無いが、一度の過剰頓服は厳禁。