道成寺 1
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「これ、きちんと経費で落ちますよね」
刑事の田中結衣(30)がぼやいた。
「知らんがな。舞台観な、話聞かれへんからしゃーないやろ」
先輩刑事の大倉敦男(45)が関西弁で返した。
二人は今年に入り、都内で相次ぐ十五歳から二十歳の若い男性七人の行方不明事件を追っていた。調査を進めるうちに、七人のうち五人が能楽に関心を持っていたことが判明した。
軽い気持ちで聞き込みに向かったのは、東京都千代田区にある真島能楽堂。だが、あっさり門前払いを食らってしまった。
「聞き込みの前に、まずは能楽を学びなさい」
人間国宝の真島慶介(80)からの言葉は貴重だったが、能楽に興味のない二人には、ただのストレスだった。
二人のチケットの演目は「道成寺」。紀伊の道成寺に伝わる伝説をもとにした物語で、一途に思い続けた男・安珍に裏切られた清姫が蛇体となり、道成寺の鐘に隠れた安珍を炎で焼き殺す。清姫自身も鐘の中に閉じ込められ、怨念は後世まで消えることなく語り継がれている。
能楽堂の舞台は屋根付きで、柱と抑えられた照明が柔らかな陰翳を落とし、独特の幽玄な空気を作り出していた。約五百席ある客席はほぼ満席で、正装や着物姿の女性たちが会場を華やかに彩っていた。
田中と大倉は、舞台正面の最後列に腰を下ろした。
「大倉さん、寝たら起こしてくださいね」
「それはこっちのセリフや」
本来なら大倉は、先週東京湾で見つかった若い男の変死体の捜査に当たっていたが、警視総監の白須正樹(55)から思いかけず連絡が入り、急遽、田中と行方不明者の捜索に駆り出されたのだ。
この七人は自ら姿を消した可能性もある。遺体も見つかっていないのに事件として扱うのはどうか――大倉は疑問を抱いていた。
大倉は二年前に大阪府警から警視庁に異動してきた。我が強く、人を信用せず、相棒の田中にも距離を置いていた。田中はそんな大倉が苦手だったが、事件を共に解決する中で少しずつ距離を縮めていた。
白須もかつて大阪府警に勤務していた。当時、十歳の息子・透馬が高校生にカツアゲされていたところを、大倉が偶然助けた。それがきっかけで白須は大倉に好意を抱き、閉じこもりがちだった透馬も、なぜか大倉には心を開いていた。
先週、白須は大倉を呼び出した。
「息子が五日も戻って来ない……」
大倉は透馬が父親をあまりよく思っていないことを知っていたため、無理に探すのはどうかと感じていたが、相手は警視総監である。無碍に断ることもできなかった。
――透馬はもう十五歳か……。
大倉は十歳の透馬を思い出した。「家に帰りたくない!」と泣いていた少年はあれから父親とどう接し、どんな生活をしてきただろうか。
大倉自身にも離婚した妻との間に息子がいる。仕事に追われ、ほとんど家に帰れなかったせいで、かつて息子から「お父さんなんか大嫌い!」と突き放されたことがある。
透馬には慕われていても我が子に拒絶されるなら、経歴は違っても自分は白須と似た境遇かもしれない――ふと、そんなことを思った。
客席の照明が暗くなり、「道成寺」の演目が始まった。
能舞台中央には、竹と藁で作られた素朴な鐘が吊るされ、重厚な存在感が舞台の空気を圧していた。
若女の面をつけ、白拍子の衣装に身を包んだシテが佇む姿は、鐘の圧倒的な存在感と相まって、幽玄な空気をより深めていた。
続いて寺の住職・ワキが厳かな空気を運ぶ。庶民の役の間(狂言師)が入り、物語の流れを繋ぎ、観客に理解の間を与える。この間は、物語を受け止めるための一瞬の余白であり、静寂の中で舞台の情感を味わうための時間でもある。舞台脇では地謡たちが謡と囃子で、音の間に緊張感ある空間を作る。
田中は息を呑んだ。舞台の鏡板の前、人間国宝・慶介の隣に正座する妖艶な若い男――その姿だけが、舞台上で異様に鮮明に浮かび上がった。他の役者が霞むほど存在感が際立っていた。
能楽の「シテ」「ワキ」という役柄は何となく理解していたが、あの男は一体誰なのか……瞬きするのも惜しいほど、田中は美しい存在を凝視した。




